第91話 「”DARTS”」
ルフィアーロン戦が続くわけだが、「なんか戦闘シーンをやってるだけだな」という印象が強い。
「歯ガム」がイマイチ魚人の力を強調した技ではないというのもあり、盛り上がりに欠けるというのと、
絵がゴチャゴチャしすぎて見づらいというのも読むものにストレスを与えてしまう。
また、先述したように対戦相手がそれなりの魅力ある(キャラクタがきちんと確立している)相手でないと、
話が盛り上がらないのは仕方なく、アーロンはクリークよりマシとはいえ、バギーやクロとくらべると、どうしても印象が薄い。
それから、長くファンとして読んでいると麻痺して来てしまうので、ここからは敢えて最初に読んだ時の感覚で書く事にするが、
初読のとき、この頃はまだルフィの強さが不自然に感じたものである。
ルフィの強さが感覚的に消化出来ないのである。
ゾロやサンジは最初から強い。子供時代のシーンでは、くいなや海賊に敗れているが、
そこから修行して強くなった・ゼフに鍛えられて強くなったのが目に見えてわかる。
しかもゾロに至っては子供の頃から大人より強かったことになっている。
一方、ルフィは子供時代は精神的にはともかく肉体的には強さを全く感じない。
また、ゾロやサンジは、最初に既に異常な強さを強調するようなかたちで登場している。
これにより最初から「強いキャラクター」として認識させられる。
一方ルフィは最初は子供時代だったこともあり、「気は強いがやっぱり子供」として描かれている。
読者に「そのうち強くなるかも知れない」とは思わせても「ルフィは強い」と強力に印象付けることができていない。
各キャラクターにとって「初出のイメージ」は重要であり、それがそのキャラクターの方向性を決定づける。
前述したようにサンジは初出のイメージは「スカしキャラ」なのに途中から「熱い男」にしようとしたためにちぐはぐになっている。
それがこのルフィの場合も当てはまってしまうのだ。
さらに追い撃ちをかけるように、ルフィの子供時代からの10年間の「修行」が、物語上の都合とはいえ全く謎に包まれている。
そのために唯一ルフィの強さを根拠付けうる資料が読者に提示されず、ルフィの強さのイメージは、
ひたすら「強敵との戦い→勝利」を描きつづけることでしか構築出来ない。
はっきりいって、近海の主やアルビダを倒したあたりでは、まだ読むものにルフィの強さを感じさせるのは無理がある。
ある程度の強さは分かるのだが、クリークやアーロンを見ていると、正直なところ、ルフィが勝ったのが不思議でならないのだ。
私がようやくルフィの強さを”実感”できるようになったのは、Mr5戦あたりだったと思う。
それも「アーロンを倒したんだから、それより弱そうなMr5くらいなら一撃でフッ飛ばしてしまうのも別にありえないことではない」
という意識の仕方である。
「ルフィの強さを根拠づける過去」。それがないためにルフィの強さは100話近くに至っても未だ疑問符がついていた。
何度も先まで読んで、ルフィの強さを実感してからまた1巻から読んでいれば違和感はない。
しかし、だからこそ最初感じた違和感を忘れる恐怖にかられて、ここに書き留めた次第である。
第92話 「”幸せ”」
ゴムゴムの盾・網・槍と、バリエーションに富んだ技の数々を勢いと力強い作画で見せている。
このあたりはルフィの「ゴムゴムの能力」の設定をフルに生かした楽しい画面構成といえ、まさにこの作品の魅力満載と言うところだろう。
第93話 「”下へまいります”」
アーロン戦の決着だけあって、高いテンションで物語は進んで行く。
ゴムゴムの戦斧の振りかぶって足だけが突きぬけた状態で、アーロンパークを上から見た状態などは
ある意味非常にシュールな画面だが、それを成立させる絵の力が健在であることを見せ付けてくれる。
アーロンパークが縦に裂けて行くシーンなども上から下へ流れる目の動きと同調していて、
効果音の「ドゴン」の字がだんだん大きくなって行くという演出も基本を押さえている。
このルフィ戦までのアーロンの強さの描写のおかげで、これでアーロンが倒れたというのがちょっと信じられなくはあるが、
全体としてはかなり出来の良い回だろう。
第94話 「”2人目”」
「ONE PIECE」の奥深さの片鱗を見せた回。この題名の登場により、6話の「1人目」でゾロが仲間入、
68話の「4人目」でサンジが仲間入りしたのと連動して、ここではじめてナミが仲間入りしたことをこの題名が現している。
しかし「3人目」が登場して居ないのでウソップはまだ本当の意味で仲間になっていないと言う事?…という、
本編には全く一言も書いていないことが謎(もしかして伏線?)として登場して来てしまう。
本編だけではない、きちんと読んでいないと題名までも伏線になっている可能性がある。
それがまた「ONE PIECE」を読むものに新たな楽しみを与えている。
そして作中で一番ムカツク(?)キャラクター、ネズミ大佐をこらしめるということで、むしろ一番カタルシスの大きいシーンもくりひろげられる。
ナミがネズミをしばき倒すコマなど、パースのつけ方が並ではない。
勢いと作者自身の怒り(?)が、直接にぶつけられているのではないかとも思わせる。
電伝虫も、作品世界にマッチした非常に面白い小道具である。
しかし、この辺のシーンの各キャラクターの生き生きとしたセリフを見ていると、この作品の魅力は戦闘よりも、
日常シーンのほうにあるなァ、という印象が強い。
アーロンとの戦いも、結局作者の書きたいのは「「助けて…」」「ゾロの強さ」「ウソップの克己」「「お前は俺の仲間だ!!」」あたりで、
それ以外はなんとなくやっつけ仕事で書きました、という感じがしてならないのである。
第95話 「”まわれ風車”」
アーロン編の最後。ココヤシ村を出て行くわけだが、それより重要なのはヨサクとジョニーが別れてしまうこと。
ここまで魅力的に完成されたキャラクターを簡単に手放してしまうのは、惜しい。
ルフィ海賊団内の位置的にも、ウソップの下に配置出来る数少ないキャラクターであり、
これ以後ウソップが一手に引き受ける汚れ役(敵前逃亡・失敗・大ボケなど)を分けられたのである。
折角チュウ戦でウソップが一皮向けたはずだったのが、アラバスタ編以降も変わらず(作品としての雰囲気持続のため)
ダメ役を引き受けるよりなくなって、結局大して変わらないまま今も進んでいる。
それがいいのか悪いのかは尾田先生の趣味の問題であるから(ウソップにもっとカッコよくなってもらいたい私としては、ちょっと残念)
あまりどうこう言うことではないかも知れないが。
ただ、コビー同様、これほどのキャラをポンと手放してしまえるのがこの作品の凄さであるとも言える。
一方、題名になっているゲンゾウの風車。キャラクターデザインに理由づけを与えることでキャラクターを印象づける、
前述した行動の理由づけ(ジャンゴの防止に手をやる動作など)と並ぶ、ワンピースのキャラ描写テクニックの一つである。
ルフィの左目の下の傷なんかと同様である。
しかも、ここを最後に登場しないキャラに対して行うところが、渋い。
なんともいえない味わいを残して、アーロン編に幕を引く、名エンディングと言えよう。
〔アーロン編総括〕
アーロン編は長々と取っておいた伏線を全て使い切っただけあって、ここまでで最大の盛り上がりであった。
題名のカラクリ(「二人目」)もナミのために用意していたとっておきの演出であるし、「助けて…」やベルメールのエピソードなど、
尾田氏の力の入れようが強く感じられる。
魚人の設定は唐突ではあったものの、全体としては相当出来が良いといえよう。
ただ気になったのは、やはり前述した通り、戦闘シーンの退屈さである。
「ONE PIECE」の最大の魅力は、その魅力あふれるキャラクターが織り成す人間ドラマであり、ボケとツッコミの軽妙さである。
そのため、その前では、戦闘シーンの魅力が霞んでしまうのである。
とくにアーロン戦は建物の前で戦っていると言う事もあり、また珍しく効果線を多用しているため、
絵がゴチャゴチャして見づらいと言う点も感情移入を妨げているといえるかも知れない。
戦闘そのものをいかに面白く描くか。それが多分この作品の今後の課題なのだろう。
第96話 「”東一番の悪”」
海軍本部登場、ローグタウン到着、シャンクス再登場、とイベント盛り沢山の豪勢な回。
これからの「偉大なる航路での冒険を待ち望ませる伏線と、これまで貼られていた伏線の繋ぎ合わせである。
始まりと終わりの町・ローグタウン(Logue Town)プロローグ(Prologue)とエピローグ(Epilogue)をかけているのだろうが、
なかなかに洒落たネーミングである。しかもローグタウンを「Rogue Town」と書くと、実は「ゴロツキの町」という意味になる。
裏の意味としてそれもかけているのかもしれない。奥深いネーミングである。(深読みしすぎ?)
しかし、海軍の将官達の「絶対的正義」とは…これで、
尾田氏は「ONE PIECE」をただの海洋冒険物語に終わらせないつもりだということが明白になった。
子供たちに絶大の人気を手に入れ、メッセージを発することの出来るその地位を生かして、
凄いことをやろうとしているのではないだろうかと思わせる。
この時は「善悪の相対性」を描こうとしているのかとは思ったが、実は尾田氏の構想はその予感のさらなる上を行こうとしていることが、
だんだんと明らかになって行く…そして、私のハマリ度はますます加速して行くのであった。
第97話 「”三代鬼徹”」
前話に続いてノリノリの回。ルフィが死刑台を眺める印象的なシーンあり、ゾロの鬼徹との運比べのエピソードあり、
さらに、表紙連載と本編の合流となる謎の美女登場あり。
特にゾロが鬼徹を手に入れるエピソードは、なんとなく99話のルフィのエピソードと並んで「後の世に語り継がれる伝説」
というイメージがある。
「大剣豪・ロロノア=ゾロにまつわる、本当かウソか定かではないがドラマティックな一エピソードをここに入れてみました」という感じである。
このあたり、まるで「ONE PIECE」がある一つの時代を描いた歴史ものであるかのような様相を帯びている。
これは、普通に考えたら凄いことである。全くの絵空事でしかない少年漫画のストーリーが、実在の世界として存在し、
そこに生きる人達によって一つの歴史が形作られているということまでもを読者に感じさせると言う事は、単にその物語だけでなく、
もはやその物語世界全体と、さらにその世界の過去や未来も全てひっくるめた時空間全てを
実存として感じさせることに成功しているという事なのである。
第98話 「”暗雲”」
まさか、この美女がアルビダだったとは…しかももう彼女がアルビダであると言う情報を手に入れている海軍も凄い。
それはともかく。この回にアルビダ・スモーカー・たしぎが登場するわけだが、そのキャラデザインの絶妙さに言及したい。
スモーカーとたしぎは、海軍ジャケットをはおっているわけだが、そのはおり方がうまくキャラクターを現している。
スモーカーは上半身裸(=男らしさ)の上にジャケットを着る。一方たしぎは花柄シャツ(=女らしさ)の上にジャケットを着る。
ジャケットを海軍の力の象徴=男らしさの象徴とするならば、スモーカーは男らしさを地でいくキャラクターだし、
たしぎは女らしさを無理やり男らしさで覆い隠そうとしているわけだ。それをキャラデザインで見事に現している。
しかも二人ともジャケットの下を隠しきらない(前を閉じない)。そこがスモーカーのアウトローさ(完全に海軍の言いなりにはならない)、
たしぎの女性性(女であることを捨て切れていない)をも表現している。
服装だけでなく、その着こなし方でキャラクターをデザインする。見事な手法である。
一方アルビダであるが、初登場当時はただの怪力デブ女+金棒だったから大したデザインというわけでも無かったが、
スベスベの美女に変わったことにより美女+金棒というなんともアンバランスなミスマッチを作り上げ、
それがアルビダというキャラクターに意外なセクシーさ・魅力を与える結果となった。
最初からそこまで考えて金棒を持たせたのかは疑問だが、これもまたナイスデザインであろう。
第99話 「”ルフィが死んだ”」
「はるか未来に語りつがれる伝説は…はるか昔に幕を開けたる物語----」
この言葉によって、「ONE PIECE」は、ただの少年漫画からフィクション歴史大河ドラマとしての方向性をも内包し始めたと見てもよいだろう。
この回では結局ルフィは助かるが、この先、仮にルフィが死ぬようなことがあっても、
この作品世界と、そこに存するキャラクター達は生き続ける。そんな感覚をも読むものに与える。
96話でも解説したので繰り返さないが、作品がさらなる高みを目指し始めたといっても良いだろう。
さて、この回で、バギーはルフィについに死を覚悟させる。
2・3巻であっけなく敗れさり、クロ・クリーク・アーロンと比べて格下の力しかないように演出されていた、バギーがである。
ジャンプ系少年漫画のお約束として、「戦闘能力が上のものには戦闘能力が下のものは絶対にかなわない」というものがある。
ドラゴンボールなどは特にその最たるもので、一時は戦闘能力を数値化して、それでキャラクターを序列化していた。
ヤムチャやチャオズでは、どんなに策を弄してもフリーザや魔人ブゥを倒すことは絶対に出来ないのである。
その単純な図式を、ワンピースは拒否した。
ドラゴンボールの後釜ポジションにも関わらず、その子供向けで分かりやすい方程式を否定したのである。
力だけで世の中は成り立っていない。その状況を作り出すことで世界を描き、組織を描き、人を描くことにリアリティを生むのである。
そして、ドラマに深みを持たせることになるのだ。
ただ次々に強敵が現れ、勇気と友情でバトルを続けて行くだけの展開は、この作品は取らない。きちんと物語を描く。
この回はそういった作者の決意表明の回といえよう。
そんな一方で「ルフィはゴムで絶縁体だから雷の電気を通さない」という設定をフルに生かしたドラマティックな展開を魅せてくれる。
私見だが、この回が今のところ「ONE PIECE」の最大傑作ではないかと思う。
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