〜 序 下り坂 〜  一.

日輪は天頂へと座し、その威光を謳っていた。
大気すらも赤熱しているかの如き土曜日の午後、それでも子供達は笑っている。
ある者は友人達と談笑し、ある者は足速に家路を急ぐ。
今日という日を無計画に迎え大荷物に苦戦している者、悠々と風を切る者、様々だ。
小高い山の頂きにある小学校。 今日は、その終業式だった。
長い長い坂道を下り、子供たちが駆けて行く。
明日からの自由な日々に心躍らせながら……。
中腹に小柄な少年の姿があった。
電柱の多い道の左側を、危なげなく下って行く。
計画的な方の子供らしく、荷物らしい荷物は背負い鞄のみである。
その背負い鞄に黄色いカバーがついている事から、一年生である事がわかる。
決して駆ける事は無いものの、その歩調は驚くほどに速い。
周囲に友人らしい姿は無く、脇見をする事すらなく淡々と歩を進めている。
と、少年が立ち止まる。
何かに気がついたようだった。
短く切り揃えた髪が風に揺れ、少年を立ち止まらせた者の方へと視界が移動した。
「まってよぅ、こいちちゃぁん!」
「こいち」と呼ばれた少年は、無表情のまま声の主を待つ。
少年の名を呼びながら、転がり落ちているかのような勢いで駆けて来るのは、長い髪を
ツインテールに結わえた少女だった。
黄色い帽子を被っていたから、「こいち」と同様の一年生である。
マリンブルーのワンピースが、風に揺らいでいる。
一刻も早く「こいち」に追い着こうと必死なのだろう。
数分ほどして、少女が「こいち」の元へと辿り着いた。
額では汗が水滴となり、肩で息をして「こいち」に話掛ける余裕も無いようである。
数十秒を経て、少女がようやく声を絞り出した。
「あの、あの、ね……。」
「いいよ、ゆっくりで。」
ガラス製の打楽器のような音色の「こいち」の声。 聴く者を惹き付ける声だ。
けれども、優しさの欠片も無い声で、「こいち」が少女の声を遮る。
むしろ、面倒くさい、とでも言いたげな口調である。
が、少女は気にする風でもなく、ゆっくりと呼吸を整えていった。
「平気?」
今度の言葉は柔らかかった。
「うん。」
少々、吊り目気味の笑顔。 「可愛い」といえば、否定する者も少ないだろう。
笑みを浮かべる事で歪んだ頬を、額からの水滴が伝う。
と、少女の視界に影が差し、額にハンカチが宛がわれた。
無言のまま汗を拭う少年と、同じく無言のまま汗を拭われる少女。
一見奇怪ではあるが、通りかかった年長者達の心を癒すだけの力はあったらしい。
買い物篭を持った中年女性が微笑みながら通りすぎて行く。
自転車に乗ったセーラー服の中学生が、さり気無さを装って自転車を降りる。
実際、愛らしい光景ではあったのだろう。
なんにせよ、二人は注目を浴びている。
「こ、こいちちゃん。」
「?」
「恥ずかしいよ……。」
周囲の視線に気付いた少女が、顔を赤らめながら訴える。
「こいち」は無表情のままハンカチをポケットにしまい込み、黙って踵を返した。
何事も無かったかのように歩み去ろうとする「こいち」を、少女が慌てて追う。
手を伸ばし、「こいち」の掌を掴むと、汗が水音をたてた。
自分の右手を濡らした少女の左手を、無言のまま見詰める「こいち」。
不快そうに眉を顰めても、拒絶する事はしなかった。
「きりかちゃん。」
「なぁに、こいちちゃん?」
少女が首を傾げる。
「手、逆にしよう。」
「?」
『きりか』には、こいちが何を言いたいのかわからなかったが、大好きな「こいち」の
言う事だったから、黙って従った。
手を繋ぎ換え、右手に続いて左手も濡れた「こいち」だが、気にする風でもなく歩みを
始める。
数秒ほどして、背後からエンジン音がする。
ほどなく、土砂を満載した運搬車が走り抜け、子供達を砂埃が撫ぜた。
「こいち」は黙って左手を見つめると、唇の端を微かに吊り上げるだけの笑みを浮かべた。
「きりか」は、何も知らずに終始笑みを浮かべ、一方的に明日からの約束を取りつけ
続けているのだった。

つづく

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