かくれた名作34 2004/1/21

 山野浩一のSF

 (工事中)


 『鳥はいまどこを飛ぶか』(昭59ハヤカワ文庫JA)
 『X電車で行こう』(昭48年ハヤカワ文庫JA)
 『ザ・クライム』(1978年冬樹社)
 『殺人者の空』(1976年仮面社)
 『レヴォリューション』(1983年NW-SW社)
 『花と機械とゲシタルト』(1981年NW-SF)

『鳥はいまどこを飛ぶか』(昭59ハヤカワ文庫JA)

 早川書房から刊行された同書から「レヴォリューション」「レヴォリューションNo2」「国家はいらない」「首狩り」の4編を削って文庫化したもの。前3編はNW-SF社『レヴォリューション』に、また「首狩り」は仮面社『殺人者の空』にも収録。

 山野浩一の作品でよく覚えているのは、長編の『花と機械とゲシタルト』と連作集の『レヴォリューション』ぐらいで、その他の短編集は自分の好みの作品ということぐらいしか覚えていなかった。だが本書を再読してみて、やはり山野浩一はおもしろいということが再確認できた。
 彼の作品で何度も繰り返されるテーマは幻想世界の中での彷徨。でもその他にもいろいろな仕掛けがある実験的な小説なのだということに改めて驚かされた。

 各編の内容は次のとおり。

タイトル 内容 初出
鳥はいまどこを飛ぶか  冒頭に、「この小説は、最初の二節と最終の二節以外のaからlの配列を任意に変更して読んで下さって結構です」という作者の宣言。
 鳥が前を横切るたびに主人公が別のパラレルワールドに飛んでしまうという設定になっている。どうせ断絶した世界を飛び回る話なのでどこから読んでも同じだということなのか?
SFマガジン71年2月
ヘイ・フレイドリック  本の世界に入ったり、映像の世界に入ったりしながら、「どんな解決も矛盾をはらんでいるから、結局、解決のためには皆殺ししかない」という問答が続く小説。 NW-SF第4号71年8月
ロックで行こう  ロックグループ「ザセンチュリーズ」がレコーディングの最中に突然行方不明になった。
 彼らは、「旅へ出たい」という歌詞がリフレインされるたびに、10万人の乞食たちの前へ、宮殿へ、そして廃墟になった未来のロンドンへと出向く。
SFマガジン71年1月
新宿第9レース  新宿第9レースの馬券を買う気になったのは、出走馬の馬名が、7番のフォレストを除いて、すべて自分に関係のある名前だったからだ。だがそれではフォレストとは何なのだろうか。 新宿プレイバック69年9月
地下鉄紳士  全32節すべてが、「さてみなの衆。」で始まる講談調の作品。吸血鬼もの。 宇宙塵65年8月
 城に住む少年は、機関車が運んできた父親からの誕生日祝いを受け取る。しかしその贈り物はどこから届いたのか。少年はその機関車に飛び乗る。 パラノイア65年7月
R10987654321B1B2  エレベーターの世界に迷い込んでしまった男の物語。 話の特集71年7月
渦巻  ある朝、T氏の寝室のテーブルの上に30センチぐらいの渦巻が出現した。T氏はこの渦巻が何かを調べることにした。
 結末にも視覚的な仕掛けがほどこされている。
宇宙塵64年9月
ピース・ホープ・ハイライト・セブンスター・いこいなど  小説内にタバコの銘柄を散りばめただけの作品。飛行機で移動中に地上では核戦争が勃発した。「チェリー」を取り出して一本に火をつけた。貴重な「いこい」の時間。あと数時間で「富士」が見え、「やまと」の国に着く。白い「ルナ」が紫色の空に浮いている。中心部の「ハイライト」は赤く輝き。それは「エコー」のようにくり返された。合計七つ、「セブンスター」が、地球のすぐ上に生まれていた。南半球は「ピース」ゾーン。ここで人類は「しんせい」しなければならないのだ。  話の特集70年8月
受付の靴下  山野浩一の処女作。受付と来客者のコント。
 来客者が繰り返し受付に、「ここはどこなんだ。俺は何でこんなところへ呼び出されたんだ?」と詰問するところに、処女作の本作にも彷徨のモチーフが表出している。
悲劇喜劇64年3月
虹の彼女  通路の世界にさまよいこんだ男は、女と出会う。男にとっての通路だけの世界は、女にとっては虹の橋があるだけの世界なのだという。 SFマガジン70年2月



 『X電車で行こう』(昭48年ハヤカワ文庫JA)

 山野浩一の作品の中には、SF的なものや、不条理な展開をするものもあるが、もっともその特徴が表れるのは、「霧の中の人々」(『ザ・クライム』所収)、「メシメリ街道」(『殺人者の空』所収)などのようなインナースペース的な小説。異界をひたすらさまよう中でのパラドキシカルな問答。まるで主人公の頭の中が舞台になったような作品群である。
 ハヤカワ文庫の2冊のうちでは『鳥はいまどこを飛ぶか』収録の作品の方にその傾向が強く、それに比べて本書収録の作品はどちらかといえばオーソドックスで、その意味では本書は少しもの足りないかもしれない。普通のSF小説として読めばいいだけなんだが。

 各編の内容は次のとおり。なお初出は、本書に記載がなかったので調査中。
タイトル 内容 初出
闇に星々  超能力者ピートと出合った主人公は、彼女の逃亡に引き廻され続ける。  
雪の降る時間  ドッペルゲンガーもの。自分が死んだ時に時間も止まるのだという。  
消えた街  住民にとってだけ存在し続けるが、外部の者には荒地にしか見えない街。
 この作品も結末に異界への彷徨というモチーフが出現。
 
赤い貨物列車  独特の雰囲気を持った傑作。
 三人の乗客しか乗っていない車輌に、十数人の客が同時に乗り込んできた。その車輌で起こる連続殺人。しかし客たちは平静なまま。彼らはグルなのか。
 
恐竜  サッカー部の合宿で一人の部員が毎晩、大海原の中で吠える恐竜の夢を見る。毎晩、海岸にいる自分の方に近づいて来ているのだという。  
列車  ただ一台残った蒸気機関車C61は生産原価が未だ償却されていないために、今も走り続けているが、その一台の蒸気機関車のために多大の経費が必要なため、今後減価償却される見込みはないという矛盾をはらんでいた。  
X電車で行こう  目に見えない電車が鉄道に出現。各鉄道を乗り換えながら日本中を縦横無尽に走り回る。
 鉄道ごっこをしていると推測した主人公は、同じ線を通らず、可能な限りの線を通るという原則で、6ページにもわたるコースを予測。この予測が当たり続け、マスコミの取材や警察の取調べに追われることになる。
 


 『ザ・クライム』(1978年冬樹社)

 本書の冒頭の作品「霧の中の人々」と最後の作品「ザ・クライム」は、ともに登山中に異界にさまよいこむ話で、しかも初出の執筆時期も同時期。当時、著者はかなり登山に強い関心を示していたようだ。また「ザ・クライム」における登山の詳細な描写からも、著者にかなり登山歴があるらしいこともうかがえる。
 どちらの作品も、山の上で一人の男に出会い、それ以後、物語は急激に内的世界の様相を示すようになる。特に、執拗にパラドキシカルな展開を繰り返す「霧の中の人々」は山野浩一の代表作に数えられると思う傑作。

 各編の内容は次のとおり。

タイトル 内容 初出
霧の中の人々  異界をさまよう中でパラドキシカルな会話が繰り返される、山野浩一らしい傑作。
 登山の途中で異界にさまよいこむ。この異界から脱出するためには、その世界における不在証明が必要なのだ。そこで山で出会った男の不在を証明し、そのかわりに自分の不在も証言してもらおうとしたが、先に不在が証明された人間はその後は存在しないので証人にはなれないのだという。
「NW-SF 第11号」1975年1月
スペース・オペラ  作者の「これはスペース・オペラである」との宣言から始まる。しかし、主人公が滅亡した地球にただ一人とり残され自らが創造する精神世界の中で生きつづけているとの設定のため、作中で作者がいろいろ手を打つものの、物語はどうしてもまたイナー・スペースへと戻ってきてしまう。 「SFマガジン」1972年2月号
メタフィジカル・ポップロス  主人公は仕事で「メタフィジカル・ポップロス」を見学していた。ところが、誤操作でその「メタフィジカル・ポップロス」そのものを破壊してしまったようなのだが。 「話の特集」1976年2月号
エーテル  研究所に勤めている職員はエントロピー中毒にかかり、しばしば道の真中やレストランで瞑想に入ってしまう。 「SFマガジン」1975年2月号
革命狂詩曲  「レボルシオーンNo.5」の改題。この作品は、後にフリーランドを舞台とする連作集『レヴォリューション』(1983年NW-SF社)に再収録されている。
 ハープシコードの演奏家タニアは、フリーランドの革命家の父の遺志を継ぎ、スパイ活動を続けていた。その頃フリーランドでは、タニア作曲の「組曲フリーランド」が流行し始めていた。
「SFマガジン」1973年12月号
ザ・クライム  山に登り始めてから突然、時間の進み方が早くなった。山で会った男は「帰る道なんかありませんよ」と言う。 「SFマガジン」1975年1月号


 『殺人者の空』(1976年仮面社)

 「メシメリ街道」はすばらしい傑作。メシメリ街道をさまよう中で、警察官、市役所の役人との会話や、婚約者との電話を続けていく中で、ますます異界へと陥っていく。
 「殺人者の空」も、何人ものKと会っていく中で異界にさまよいこんでいくという物語で著者らしさがよく出た作品。

 各編の内容は次のとおり。

タイトル 内容 初出
メシメリ街道  山野浩一の作品らしい傑作。
 婚約のため町子の家に行く途中、突然今までなかったところに、5車線の道路、メシメリ街道が出現する。この道路には、横断歩道も歩道橋も信号もなく、町子の家がある向かい側に渡ることができない。時刻は正午のまま停止しており、警察に横断方法を尋ねても、横断する日時と場所、目的地を書面で届けるよう指示され、らちがあかない。 
「SFマガジン」1973年2月号
マインド・ウインド  主人公は、世界をにぎわしている散歩族に、ある日いつのまにか合流してしまう。そこで主人公は、意識を一定方向に向かわせるマインド・ウインドを実感する。 「SFマガジン」1973年7月号
Tと失踪者たち  毎日、世界から次々と人々が蒸発していく。主人公は生き残った人間と会うため、旅を続ける。 「SFマガジン」1972年5月号
首狩り  失職した主人公は、カッパライやオキビキで生活を続けていたが、ある日盗んだスーツケースの中には、生きた首だけが入っていた。 「SFマガジン」1971年9月号
カルブ爆撃隊  そこは刑務所らしきところ。そこに暮らすある者はそこを精神病院だと思っており、ある者は独身寮だと思っており、ある者はホテルだと思っていたが、全員が「カルブ爆撃隊」の一員であることだけは認めていた。 「宝島」1974年10月号
殺人者の空  主人公は会議中、スパイ容疑のKを勢い余って殺してしまった。ところが本物のKは別の大学に存在しており、殺したKが何者であったのかは誰もわからない。主人公は学校の前で、殺したはずのKらしき人物を目撃し、後をつけている間に異界にさまよいこむ。 「SFマガジン」1974年2月号

 『レヴォリューション』(1983年NW-SW社)

 革命をテーマにしたフリーランド・シリーズの単行本化。フリーランドは絶えず革命闘争が行われる国。主人公たちは、理想的な国家がつくられようとするとき、それを拒否し革命の永遠の継続を選択する。
 現実的な国家ではなく、幻想的な永遠の革命を選択するというモチーフは、「虹の彼女」(『鳥はいまどこを飛ぶか』所収)において現実的な目的地ではなく幻想的な永遠の通路が選択されるなど、山野浩一の各作品で見られ、そのモチーフを徹底的に繰り返したものが本書である。したがって著者の作品の特徴が最もストレートに出ている本だともいえるだろう。
 しかし、そのためストーリー的にはやや単調で読むのに労力がいる作品群といえるかもしれない。最初にこの本から読むのはできたら避けた方が無難かも。

 各編の内容は次のとおり。
タイトル 内容 初出
レヴォリューション  南米の小国モアは何ひとつ不自由のない国で、政治的におこなえることはもう何もない。しかし大統領は我々にただ一つ行えることがある。それは革命だと宣言する。 「SFマガジン」70年10月号
レヴォリューションNo.2  フリーランドにはいくつものゲリラ軍が存在していたが、国連の干渉のもと、どの軍も現実路線に傾いていく。女闘士ピート・ランペットは、その中で唯一戦闘を起こし続けているという存在するか否かも定かでない破壊軍団に入隊を志願する。 「NW-SF2号」70年11月
国家はいらない  フリーランドでは戦闘が終わり、統一国家ができようとしていた。しかしテロリストのローザは、理想的な国家の樹立ではなく永続的な革命を貫くため、国家元首を暗殺する。 「SFマガジン」71年7月号
土人形  ゲリラ戦に備え、防空壕を掘っていた男の家に、自分とそっくりの容姿をした土人形が現れる。 「グラフィケーション」73年11月号
革命狂詩曲  ハープシコードの演奏家タニアは革命家の父の遺志を継ぎスパイ活動を続けていた。しかしフリーランドに国家ができようとしたとき、革命の継続こそがフリーランドであり、偽国家は破壊しなければならないと決意する。 「SFマガジン」73年12月号(「レボルシオーンNo.5」を改題)
サムワンとゲリラ  死にぞこないの女闘士ピート・ランペットは時間のはざまの中で予言者と出会う。
 冒頭に出てくる意味不明の会話の意味が、結末で明らかになる。
「NW-SF6・7号」72年9月・73年5月
戦場からの電話  見知らぬ者から電話がかかる。同じ時代、同じ東京でありながら、電話の相手側は戦場から電話しているのだという。 「GORO」76年11月
フリーランド  フリーランドを移動する複数のゲリラの小隊。彼らは戦闘を求めてさまよううち、現実と幻想の区別もあいまいになっていく。 「NW-SF13号」77年10月
レヴォリューションNo.9  日本を舞台に革命軍が行動を開始した。革命軍は、我々は政策変更を要求しているのでなく、革命を行っているのである、と宣言する。 書き下ろし


 『花と機械とゲシタルト』(1981年NW-SF)

 山野浩一の唯一の長編小説。かなり難解な小説です。
 そこはかつては精神病院であったが、革命によって反精神病院となった。その社会は複数の「汝」と、複数の「彼」と「彼女」から構成されている。大広間と庭には「我」と呼ばれる人形がある。「彼」と「彼女」はかつては患者であったが、自我を「我」に預けることによって解放された意識としての「彼」と「彼女」になったのである。「汝」はかつての医療従事者ではあるが、この社会の構成員であり、また「彼」「彼女」に変貌する可能性を持っている。実際に「助手の汝」はある場面から「助手の彼」と記述されるようになる。

 したがって、ここでは「汝」は必ずしも2人称を表わすものではないし、「彼」「彼女」も必ずしも3人称を表わすものではないことに注意しなければならない。
 例えば、博士が椎茸嫌いの彼女に、このように呼びかける。
「汝と彼以外で彼女が好きな人は誰?」
「我 ―でしょう」
 こんな会話が頻繁に出てくるので、うっかりすると混乱してしまいます。博士は「汝」に属するので、ここでいう「汝」は博士自身のこと。「彼」は花壇係の彼のことを指すので、そのまま3人称。椎茸嫌いの彼女は「彼女」に属するので、ここでいう「彼女」は彼女自身のこと。「我」は人形を表わす固有名詞です。
 したがって、翻訳すると
「わたしと彼以外であなたが好きな人は誰?」
「「(人形の)我」でしょう」
ということになります。

 ただし、この小説では「わたし」とか「あなた」という言葉は特殊な意味を持つため、めったに使われることはありません。「わたし」や「あなた」という言葉を使うことは、この社会を拒否することを意味しているからです。だから作中人物が「わたし」や「あなた」という言葉を使う場面では、使われた相手が困惑してしまいます。それで通常は、「彼」「彼女」は自分のことを「彼」「彼女」と呼ぶし、「汝」も自分のことを「汝」と呼ぶわけです。ああ、疲れる(^_^)

 次第に「我」はゲシタルトとして存在を誇示し始め、様々な所に出没するようになる。助手の「汝」は助手の「彼」になり、病院以外の外界も空虚な街に変貌し、そこかしこに各人が造った幻想世界が漂いだす。こういう幻想と真実が交錯する世界は山野浩一の具骨頂。読者も巻き込んで幻想空間を彷徨し続けます。
 山野浩一が好きになってから読めばおもしろいことは間違いないと思うけど、この作品を最初に読むとどんな感想になるのか聞いてみたい気もします。かなり読みにくい小説だから。

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