第8章
希望のうた
-1-
6/9
「意外と質素な所に住んでいるのね」
突然かけられたその言葉に、河岸充はエレベーターのボタンを押す手を止めた。どこか聞き覚えのある声に、黒縁眼鏡のレンズ越しにその声の主を見やる。
そこに立つ少女を認めて、充はすぐに顔を逸らした。そのままエレベーターの上階のボタンを押すことなく、くるりと方向転換して背を向け、マンションの出口へ向かって歩き出そうとする。
その行く手を遮る少女。
「待ってよ、歌竜」
名を呼ばれるが、充は黙ったまま彼女の脇をすり抜けようとする。
「ちょっと」
無視することはないだろうと腕を掴まれるが、それを軽く払いのける。そのまま駆け出し、マンションの玄関を飛び出した。
あの少女には覚えがあった。かれこれ2年前のこと、あの時も今と同じように突然に目の前に現れて「目覚めろ」と迫られた。気づけば、知らない山の中の洞窟にいた。
見ず知らずの連中、しかし、確かに覚えのある者達。
そして、先程の少女は人界征服とか戯言を言っていた奴ではないか。邪魔をしない代わりに、今後は干渉しないという約束を取り交わした筈なのに。
充はどう逃げるか思案する。
取り敢えず部屋の位置までは知られなかったと思うが、このマンションも引き払う方が無難かと、走りながら考えた。
その時。
「あなたね、逃げるなら竜体にでもなって全力で逃げなきゃ」
呆れた物言いでその少女――滝沢雪乃は充の前に現れた。
足を止めて充は、大きくため息をついて返す。
「悪いけど帰ってくれないかな。俺はどちらにも与するつもりはないからさ」
「分かっているわよ、そんなこと」
雪乃は小さく笑みを向ける。
「あなたが今を時めくアイドルだってこともね」
冗談めかして言う雪乃に、充は逆に眉根を寄せる。
逃げ出そうととっさに戸外へ出てしまったが、ここで話をする内容ではないと気付いた。手短に済ませるか、本気で逃げるか考えようとした矢先。
「頼みがあって来たのよ」
雪乃がふいにまじめな表情を向ける。
「父竜が復活しているのは気づいているでしょ?」
「おいおい、俺にはどう逆立ちしたって太刀打ちできないよ。分かってるだろう?」
「そうじゃなくてね」
雪乃は札幌での経緯を話す。
充も、父竜に北の大地が襲われたということはニュースからも薄々は気づいていた。以前から父竜の強大な力がうごめいていることも。
その力に比して、雪乃の華竜や、歌うだけの力しか持たない歌竜は無力に等しい。強大な力を持つ父竜に立ち向かえる訳がない。
「戦のバカはね、どうせ死ぬなら戦って死ぬなんて言ってるんだけど、凪がね…」
「凪…?」
2年前のあの洞窟にいなかった者の名に、充は少し興味を覚える。
四天王と呼ばれた他の竜達には殊更に厳しく、苦手としている者もいたが、本当は面倒見が良く、一番優しかったことを自分は知っていた。父竜の件以降、特に年少の者には、親代わりと言って良いくらい、父となり母となり世話をしてくれた。育ててもらったようなものだった。
「被災した札幌でね、私に花を手向けて欲しいって言うのよ」
そう言う雪乃は少しばつが悪そうにする。実のところ、花弁をまき散らして逃げるように去ったのだが、本当はもう少し素直になりたかったのだ。
「あいつらの戦いの気配を追って遠くから見ていたんだけど。急に凪の気だけ感じられなくなって…」
「何を言ってる。凪はそもそも忍びみたいなもので、気を追うことはできないんじゃない?」
「違うのよ。消えたのよ。父竜の攻撃を受けて消滅したの」
「まさか…」
あの凪が。鼻白む充。
「だから私、ちゃんと花を手向けにもう一度行ったんだけどね」
そこで被災者達の姿を見たと言う。
家を失った人、大切な人を失った人。
助けられる命は全て助けた竜王達。しかし、残された人の心の痛みは癒やせようもなかった。
人はいつか立ち上がると言う。時間が何よりの薬だと言う。
しかし、今あるこの苦しみを自分の力では癒すことができないと雪乃は言うのだった。
「あちこちの避難所で泣いているの。あの人達を救ってあげることはできないけれど、もう一度立ち上がるための希望をあげたいの」
2年前、冷めきった表情で見下ろしていた彼女と同一人物だとは思えないくらいの変わりようだった。それ程にも見てきたものに心を痛めたのだろうか。
しかし、彼女の気持ちも分からなくもないが、充にできることなどたかが知れていた。否、彼女と同じように何もできないに等しい。
「竜王や四天王達と違って私たちには戦う力がない。だけど光竜は、彼らが進むべき道を光導いていた。私は、留まる人々を花の色で心落ち着かせることができる。でも、それだけじゃ足りないのよ」
雪乃の言葉に充は大きくため息をつく。
「俺は二度と転身する気はないんだ」
「でも歌っているじゃない。あなたの歌唱力も表現力もその声も、全部歌竜の力じゃないの?」
「俺は…」
竜の力を使っているつもりはなかった。
歌もダンスもレッスンは欠かさない。表現力を磨くために色々な舞台も見てきた。自らの努力で得たものだと思っている。
充はこれ以上話しても仕方がないと雪乃に背を向けるが、雪乃は引き下がらなかった。
「あの人達の為に歌って欲しい。一度でいいから」
「無理だ」
「どうして?」
「当たり前だろう」
夜道に人気はないが、どこで何を撮られているか分からない。
充は大きくなる声をひそめて早口に言う。
「明日も明後日もスケジュールでいっぱいだ。第一、俺がそんな所に姿を見せたら騒ぎになるだろう。行けるわけない」
「騒ぎになるって…そんなに人気なの?」
雪乃の言葉に、充はガックリ肩を落としそうになる。知っていてのこの言葉は、充をうまく乗せようとの魂胆か。
「どちらにしても俺には無理だ。諦めてくれ」
するとその時、路地から人の声が聞こえてきた。充は被っていた帽子を深くする。
「じゃあな。もう来ないでくれ」
言って、今度こそ背を向ける。
雪乃の、その背に向けて放つ言葉。
「また来るから。その時までに心変わりしておいて」
それだけ言って、雪乃の方から駆けて行ってしまった。
「心変わりって…」
どうしたら簡単に意を曲げられようか。自分はファンの子達の為に竜である身を捨てると決めたのだ。この決意は誰にも変えることなどできないのだ。
* * *