第8章
希望のうた
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 腹部に受けた傷口から止めどなく溢れ出す竜気。いつもならすぐにでも癒える筈の傷は、しかし一向に塞がらなかった。そればかりか、味わったことのない痛みを揚に与え続けていた。

「凪のヤツ…」

 幾度となく繰り出された風の刃に、急所を深く切り裂かれた。
 とどめを刺した時に四散した風竜の気が、風に紛れて纏わりついてきた事に気づいていたが、それが今の揚の回復の術を封じる力となっていた。
 このままでは――竜体のままではすぐに体力が尽きる。そう考えて人間体に戻ってみたものの、腹部にパックリ開いた傷口は塞がるものではなかった。

「こんなことで…」

 奥歯を噛みしめる。

 風竜にしても、昨夜の炎竜にしても、かつて見知っていた子竜であった時代とは比べ物にならない程の成長を目の当たりにして苦々しく思う。
 このままにしてなるものかとの思いとともに、得体の知れない感情が奥底に芽生えるのを何とか押し殺す。
 あってはならない。
 自分は絶対の存在でなければならないのだから。

 そして、ようようにしてたどり着いたのは、大学のクラブハウスだった。
 郊外の別邸は、先日の炎竜との戦いで破壊され、まだ修復を行っていなかった。従って、この考古学研究部の部室の中にある入口から結界へ帰ろうと考えたのだった。
 すでに夜も遅い時間だったので誰もいないと思っていた。それなのに。

「どうしたの、それ…」

 隣の部室から丁度タイミング良く出てきた女子学生と出くわしてしまった。
 大学部3年の篠原美都――映画研究部の部長だった。
 こんな時間に何故いるのか。

 相手は揚の様にさすがに怯んで見せるが、すぐに駆け寄ってきた。

「二股でもかけて、誰かに刺されでもしたの?」

 言葉は冗談のようだが、声音は低かった。言いながら、美都はバッグの中から携帯電話を取り出す。

「救急車を呼んであげるから、それまで持ちこたえてよ」

 人の手を借りずとも治せる。傷など、自分で治せない筈はない。風竜の力ごときに押さえつけられる筈もない。是が非でも蹴散らして、自分に歯向かう子竜達の根城へ攻め込むのだ。
 ようやくにして封印が解かれたと言うのに、ままならない思いに苛々する。

「余計なことをするな…」

 美都を止めようと手を伸ばすが、簡単に避けられた。

「警察に聞かれたら上手く言うのね。私は知らないから」
「なら、放っておいてくれないか。このくらいの傷…」

 そのまま、美都に背を向けて部室に入ろうとする。そのドアを、横から伸びてきた手に閉じられる。美都だった。
 見返すと、睨んでいた。

「放っておいたら死ぬわよ、普通」

 普通じゃないんだったら別だけどと、小さく付け加える。

「ただのかすり傷さ。心配はいらない。救急車も…」

 必要ない。そう返そうとした。
 その時、生まれて初めて、世界が暗転した。
 あり得ないことだった。

 自分がどれ程の不覚を取ったのか、それすらも気づかないまま、美都の自分を呼ぶ声が次第に遠くなっていった。


  *  *  *




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