第1章
巣立つ雛
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「そろそろ母さん、帰ってくる…」

 腕の中で少しうとうとしかけたかと思ったら、杳は思い出したように起き上がった。

 陽が西に傾いてきたのだろう。室内は薄暗くなり始めていた。

 つい先程まで自分の腕の中で甘い声を上げていたのに、ベッドから出ると、まるで何もなかったかのように杳はさっさと衣服を身につけていく。

「なあ杳、もう少し…いいだろ?」

 寛也はまだベッドから出たくない気がした。そんなことは決してないのに、どうしてだか、ここから出てしまえば、杳の存在を失ってしまいそうな気がしてならなかったのだ。

 そんな寛也の頭をポカンと殴る杳。

「いい訳ない。こんなとこ、見られたくない」
「俺は構わねぇよ、お前の母さんに知られても。って言うか、言っちまいてぇけど」

 のんびりとした口調でそう返して、もうすっかり服を着込んでしまった杳を見上げる。杳は少し困ったような表情を浮かべてから、すぐに視線を逸らした。

「翔くんも、もう帰ってくると思うけど」

 ポツリと言ったその言葉にも、寛也は動じなかった。翔の本気の雷は実際に身に受けて知っている恐ろしさではあったが、それでも怖いことはなかった。

「なあ杳、そうやって言い訳つけて色んな事から逃げるの、もうやめろよ」
「何言ってんの。オレは別に言い訳なんて…」
「だったら」

 寛也はベッドから起き上がって、そのまま杳を抱き寄せる。

「どこにも行くな。俺の側にいろ。俺はお前がいてくれたら、それだけで十分なんだ」

 耳元でそう囁く。

 しかし、ゆるやかに抱き締めた腕は、サラリと簡単に解かれてしまう。

「ごめん、ヒロ。オレはオレのやりたいことをする。誰にも邪魔はさせない」
「邪魔って…何だよ、それ。俺はお前にとって何なんだ?」

 まだ恋人とは認めてくれてはいないが、それでも好きだと言ってくれている。恋人なら当然するだろうことまで許す相手であるのに。

「オレね、今まで学校なんてつまんなかった。だけど、ヒロに合ってからの2年間、すごく楽しかった。そんなふうに思ったことなかったから…ありがとう、ヒロ」

 そう言って背を向けてきた。

「ヒロは幸せになって。学校を出て、就職して、結婚して、子ども作って…」
「ちょっと待てよ」

 肩を掴んで振り返らせようとするが、背けたままの顔はこちらを向いてはくれなかった。視線を合わせようともしなかった。

「俺の幸せなんて、そんなありきたりなもんじゃねぇよ。俺の幸せはお前がいなきゃ、ならねぇんだ。お前自身なんだ」
「…服、着て。母さん、帰ってくるから」

 聞く耳を持たない杳に、寛也の胸の内にもやもやと浮かぶもの。ぶちまけてしまいたいが、それ以上口を開けば怒鳴ってしまうかも知れなかった。脅えさせるようなことなんて絶対にできない。そう思って、ぐっと堪えるしかなかった。

 寛也は言われる通りに、黙って服を着込む。

 ぬるくなったミネラルウォーターのペットボトルを口にする杳。切ないくらいにいとおしい存在。とても別れるなんて考えられなかった。

 言い出したら頑として聞かないことも、他人の気持ちなんて考えないような言動も十分に分かっているのだが、そんな我が儘な杳がひどく憎たらしく思えて、そして何よりも愛しかった。


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