第5章
性徴
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「ちょっと貸して」

 そのナイフで何をするのかと思ったら、杳はそれを光にかざして影に当てた。

 ギギギ…。

 明かに、それと分かる嫌悪の声。

「こいつ、まさか」

 よく見ると、相手は体育館の陰から出て来ようとしていないのだ。そこにいた生徒達は襲われたが、日光の当たっているグラウンドには一歩も踏み出していなかった。まさしく、「影」だと思った。

「ね、鏡、持ってる?」

 杳は先程助けた女生徒に声をかける。気丈な彼女は、杳の言葉にうなずいて、ポケットの中から折り畳み式の薄い鏡を取り出した。杳は急いでその鏡で光を反射した。

 怯みあがる影は、手に掴んでいたもう一人の女生徒を投げ出すと、陰の中へ逃げて行こうとした。

「逃げんじゃねぇっ」

 駆け出した寛也は、バットで影の足を思いっきり殴りつけた。さすがによろけたところを、もう一発殴りつけると、影の体は短くなっていた陰から飛び出してしまった。

 キキギィ…。

 悲鳴なのだろうか、低く金属の擦れるような音を発して、その黒い体から煙のようなものが上り始めた。

「よしっ」

 寛也が勝利したと思った次の瞬間、陽が陰った。

「…えっ?」

 つい今し方まで雲ひとつない晴天であったのにと思って見上げ、そこに見たもの――天を覆いつくすかのように大きな青い翼を広げた、爪とクチバシを持つ巨鳥が空を舞っていた。その目が寛也を見やった。

 ぞっとする程に冷たい気と、巨大な力を感じた。

「ヒロッ」

 杳の声に我に返って、目の前の影の化け物を見やると、地面に消えて行く瞬間だった。

「しまった…」

 慌てて捕まえようとする寛也の手が届く前に、それは陰の落ちるグラウンドの中へ全身を消していった。

「くそ…っ」

 取り逃がしてしまった。が、それよりも天を覆う鳥の方が気になると見上げたそこに、既に何の姿もなかった。

 忌ま忌ましげに天を睨む横で、杳が女生徒に手を貸して助け起こしている姿が見えた。

 そんな寛也達の周りを、あっと言う間に生徒達が取り囲んできた。先程追いかけられていた者や、近くで見ていた者達だった。

「すっげー」
「結崎くん、カッコイイー」
「勇気、あるー」

 口々に発せられるのは称賛の言葉だった。拍手や口笛が巻き起こる中、杳が慌てたように寛也の背に隠れてきた。

「ヒロ、何とかしてよ」
「何とかって…」

 完全に取り囲まれて、揉みくちゃにされそうになって、逃げられないと思った瞬間、いきなりピタリと周囲が静まり返った。

「え…?」

 寛也と杳以外の生徒達全員がその場で動きを止めたまま、固まっていたのだった。潤也か翔が何かしたのだろうと咄嗟に思って、寛也は杳の手を取った。

「逃げるぞ、今のうちだ」

 言って、動かない人込みをかき分けるようにして杳の手を引いた。途中、何人か転ばせてしまったが、これは仕方ないと目をつむった。

 取り敢えず、騒ぎが収まるまで逃げておこうと思った。


   * * *



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