もくじ
1.始まりは1通のメール
1.始まりは1通のメール
2001年も11月に入り、季節は徐々に冬に移行していくころでした。
2.自分にできること
HPを見ました。単行本用の原稿を書いていただきたい―メールには確かにそうあったのです。私と夫は思わずPCの前で「すごいや、こりゃすごいぞ」と小躍りしてしまいました。HPを立ち上げて半年過ぎ、いつかはこんな日が来るのではないか、でも思ったよりずっと早かったね、と。そんなことをずっと心のどこかで待っていたような気がするのです。
3.執筆作業
締め切りは11月末とのこと、猶予は半月です。分量は確か14枚でした。
私の場合、HPに載せてある体験記があるので、これをもとにして規定の枚数に収めればよいのです。手術をメインにするので、最初の手術編を中心に、その後の経過を多少付け加える構成にしました。本文の中から、「初めてこれを読む人がほしい情報は?」ということを考えつつエッセンスとなる部分を抜き出します。面白かったエピソードもあるけれど、全部を納めることはできません。登場人物もある程度絞りました。
4.ペンネーム &リストラの危機?
私はさっそく会社で、よく出てくる先輩たちであるSさんとMさんに「今度本を出すことになりました!」と自慢していました。「ほら、私ライターだからね!」と。先輩たちも私がHPを開いていることは知っていましたが、それでこういう話がくるとは思っていなかったようです。「ふるぼう、すごいな」と言ってくれました。自分で開いたHPが編集者の目に止まった、というのがすごいと思ってくれたのです。「普段の会社の仕事よりよっぽど世の中に対しては役に立つよ。ぜひ書いたらいい」と勧めてくれました。もちろん出版の日が具体的になるまで他の人には誰にも言いませんでした。
5.コンセプトのこと
この本ができるまでの間、「はたして内容的にこれでよいのだろうか?」という議論が仲間の間でもなかったわけではありません。それは、執筆者の選考についてなのです。
2.自分にできること
3.執筆作業
4.ペンネーム &リストラの危機?
5.コンセプトのこと
6.校正から完成へ
〜おまけ サイン会〜
相変わらず私は多忙な毎日を過ごしていました。仕事のほうはある実験系を組み立てるために四苦八苦していました。仕事以外でも2回の英会話のレッスンがあり、料理教室にも相変わらず通い、オフの日はプライベートな予定が・・・そんな中でも1日に必ず1回はHPに向かって一緒にがんばる仲間にメッセージを書く、というのはもう私の中でかけがえのないことになっていました。
もはや他の人から見たら私がそのような手術をしたとはとても思えなかったでしょう。復職後しばらくはどのように私を扱ったらよいか分からなくなっていた上司も、このころようやく何も気にせずに仕事に取り組ませてくれるようになっていました。
そのころまで私は「病気の事を少しでも忘れて日常に戻るため」に仕事をしていたという面が多分にありました。まだまだ以前のように仕事第一という気分には自分自身なれなかったのです。もちろん仕事だけが人生にとって大事なことではありませんが、このころ「また以前のようにもっとポジティブに仕事に向かおう」という気持ちが出てきているのを感じていました。入社してそろそろ4年経ち、いつまでも社歴が浅いと言っているわけにもいかない、そろそろ自分が主体となるべきではないか、と。
ベル・プロダクションの編集者であるレイコさんからのメールを受け取ったのはちょうどそんな時でした。
次の日の昼休み、私はさっそくメールにあった連絡先に電話をかけてみました。レイコさんは不在だったのですが、年配の男性編集者が出てくれました。今回企画される本は婦人生活社からの出版ということになっています。「マタニティ」や「プチファンタン」といった育児雑誌、料理や裁縫などの家事に関する本、介護、家庭医学などの出版社ということは私も知っていました。でも、自社の編集者だけではなく、このように編集作業を別の編集プロダクションに依頼するんだというのは初めて知ったことでちょっと新鮮でした。そして、大手出版社からの依頼を受けて編集する小さなプロダクションの存在、マスコミもなかなか厳しい世界だなということを感じたのです。
さて、話がずれてしまいました。編集者の方が言うには、今度の本は「患者側から医療をとらえた本」にしたいというのが第一のコンセプトだというのです。これまでに乳がんを始めとする各種がんにまつわる本は、それこそ五万と出ています。中には驚異の○○でガンが治った!というのもありますね。
でも、それらのガンに関する本は大抵は医師が解説したものです。診断、治療法など、それらは確かに役に立つのですが、もちろん中には再発、転移の話、そうなったときにどうするかということも書いてあります。ガンの治療において再発、転移のことは避けられないことですが、医師の立場からそれらの事実が冷静に述べられていると、これから手術を受ける患者さんにとってはますます不安をもってしまうのではないか、というのです。そこで、患者さんからの立場で治療をとらえ、心配しないで、と元気付ける内容の本ができないかと考えたのだそうです。さまざまな立場の女性の体験記、それだけでは不十分ですので医師からの解説は聖路加国際病院の中村清吾先生が執筆される、ということでした。
「そうですね。その趣旨は大変共感できますね」と私は賛同していました。執筆者の候補は、夏ごろからこの種のHPを探して選考していたそうです。HPで自らの体験を発信している人は、比較的若い患者さんですので、その中から6人、また横浜にある乳がん患者会「ソレイユ」を取材して数人執筆者を依頼したそうです。
「あなたの場合、年齢的にもまだお若いので、さまざまな年代の患者さんの中から若い患者さんとして選ばせていただきました」と言われると、まるで「日本の若い乳がん患者の代表」になったような気がしてきました。もともと私はひそかに「目立とう精神」が旺盛なのです(笑)。学級委員なんかも選ばれるとまんざらでもなくやっていました。
「体験記ですが、HPを見ていただければお分かりになりますが、私は東京にいながら義父の紹介で松山の病院で手術しています」と言いますと、その設定はそのまま残して欲しいということです。そして「四国の先生が大変的確な判断をされていてとてもよかったんですよ。いい先生ですね」と編集者さんに言われると、「いえ、いえ」とまるで自分が誉められたような気になってきました。まさか、「先生はおふとりさまです」なんて言えないですもの(笑)。
その夜私はレイコさんに返事を書き、執筆するという意思を伝えました。「そういえば、そろそろ仕事が・・・っていうのはどうなったの?」と夫が冗談のように言ったのですが、「まずは締め切りのあるこっちが先よ。仕事の本腰はそれからよ」と私は答えました。会社での仕事は、もちろん第一。本業なんだから当然です。でも、この仕事は多少理科系をかじった人なら、教えられれば誰でもできる。学べれば誰にでも伸ばせるチャンスがある、でもこの体験記の執筆は私じゃなきゃできないこと、実際に体験した私だからこそ書けるし、私だから伝えられる部分も大きいのではないかと思うのです。年齢的なことももちろんあるし、もちろん私が強靭な意志をもって試練をくぐりぬけたのでも何でもなく、泣き笑いしながら日々を過ごし、仕事もこれまで通りにやっていますよ、ということをインターネット以外の手段でも伝えたいと思ったのです。
出だしをどうするか、という点で最初は筆が進まなかったのですが、のってくると順調に書き進み、ほぼ1日かけて原稿ができました。原稿を何度も読み直します。大丈夫だろうか・・・緊張してきました。だって、HP原稿は自分で勝手に書いて公表したものです。いわば「自己満足」の産物です。でもこれは出版社からの依頼原稿なのです。出版社によって世に出て、多くの読者の目に触れるのです。これに耐えうる原稿にしなくてはなりません。自分では客観的に判断できず、夫にも目を通してもらい、何日もかけて手直ししました。
そして、ようやく納得のいく原稿ができ、締め切り前日となりました。レイコさんからもメールが来て「仕上がりはどうですか?」と聞いてきます。締め切り当日にメールで原稿を送る予定でした。
ところが・・・締め切り前日になって私はとんでもないミスをおかしていたことに気付いたのです!その日「ガーベラハウス」のオフ会があり、シュガーさんとご一緒しました。シュガーさんも執筆を依頼されていたのです。明日が締め切りですよね、という話から、原稿の分量は「原稿用紙14枚分」って書いてあったわよね、と。
「え、原稿用紙14枚分でしたっけ?」私はあせりました。たしか先日の電話で編集者の方は「ワードでどんどん書いてほしいのです」と言っていました。それを「ワードで14枚分」と思い込み、その分量にまとめたのです。それだけでも充分圧縮したと思っていました。でもシュガーさんは原稿用紙14枚分で、それはワードA4用紙に直す4枚半ほどだと言います。
帰ってからもう一度レイコさんからのメールを見直すと、確かに「原稿用紙14枚分」とあるのです。なんで最初に確認しなかったんだ・・・私は泣きそうになりました。もう時間は深夜12時です。明日には提出です。今出来ている原稿はワードで書いていてA4で14枚分ありました。これをさらに、4枚半まで減らさなくてはなりません。
「とにかくやれるだけやってみようよ」と夫が言ってくれました。翌日夫は仕事が休みなので、徹夜作業になっても付き合ってくれるというのです。とにかくもう一度圧縮作業に取り掛かります。でも頭に血が上ってしまい、もう自分では考えられません。「もう書けないよ」というと夫が原稿を見て、「ここと、ここを抜き出せばいいよ。ほら、こうつなげればいいだろ」とためしにやってくれました。難しくないから、最初の原稿を作ったように、さらに必要な骨組みだけ組めばいいのだから・・・少しずつ私も落ち着いてきて、原稿の圧縮作業を進めていきました。そして、明け方ごろようやく原稿が再度できあがったのです。とりあえずこれで送り、訂正事項があればまた送りなおすことにしました。そして原稿は締め切り当日に編集部に送られ、私はちょっと仮眠をとってから朦朧として会社に向かいました。でも、原稿を今はメールの添付書類で送る時代になったのですね。
原稿のタイトルは、最初から"Happy Summer Operation"に決めていました。これはHP手記のタイトルにもなっています。手術を受けた体験はHappyでは決してなかったけど、でも愛媛のお父さんのそばで手術を受けたのは、やっぱりHappyだったのです。その後の結果も。もちろん由来はモーニング娘。の「ハッピーサマーウエディング」です。♪父さん、母さん、ありがとう ってね。
さて、原稿は出来たものの、私はペンネームで迷っていました。HP上では「ふるぼう」というハンドルネームにしています。しかし本になった時、執筆者名が「ふるぼう」で違和感がないか、ということを迷いました。編集の方は、本名でも、匿名や仮名でも、ハンドルネームでもなんでもいいですよ、と言ってくれましたが、本に載った時に、ちゃんと姓+名が書いてあった方が読みやすいんじゃないか、特にインターネットを普段やらない人にとってはしっくりくるんじゃないか、と思ったのです。
しかし本名で出すことはできません。SさんもMさんも「本名はヤバイぞ」と言います。それは会社の体質でした。
私が手術を受けることになった時、真っ先に「どんなに親しい人にも言うな」と言ってきたのは会社の総務部と上司でした。盲腸の手術を受けるのではないだから、生死に関わる病気だから、誰にも知られない方がよいというのです。それは私が職場復帰しても「決して誰にも知られてはならない」とことあるごとに言われてきました。だから他の社員に「バレる」恐れのある健康診断は受けなくてもいいし、慰安旅行には行かないでくれと言われていたのです。
確かに、私のことを直接は知らない社員の間で尾ひれのついたウワサになってはよくないのだ、という総務の考えも分からなくはないのです。しかし、どんなに親しい同僚にも言ってはいけないというのも極端な話です。誰彼に言う話でもないですが、誰にも言わずに黙って心の中に封じておくのも苦しいのです。その辺を見かねた先輩のSさんは、信頼できる人には話してもいいんじゃないかと言ってくださり、私も日頃お世話になっている親しい同僚には話すことにして、少数の社員が知っているという状況になっています。
そんな風にして「何もなかったのだ」と会社は隠しておきたいのに、私は自ら世間にばらすようなことをしているのです。私を知っている人が読んだらすぐに私だと分かってしまうはずです。会社の方針に逆らってこんなことをしたら、最悪の場合リストラされてしまうかもしれません。
「ふるぼう」が一番自然なままだと思うけどな、とSさんは言いました。もうハンドルネームとして確立しているし、ペンネームを新たに考えるより「ふるぼう」のままにしたら、というのです。それに「ふるぼう」で勤務先も書かなければ、私だと断言できる証拠は残らない訳だから、会社に対して問題にはならない、と言ってくれました。それに本も読者が限定されてくると思われるので、それほど多くの人の目につくこともないだろう、と。
私も「ふるぼう」に代わるペンネームを考えましたが、結局何も思い浮かびませんでした。そこでやっぱり「ふるぼう」のままいくことにしたのです。会社に対しては、もちろん黙ったままにすることにしましたが、現在までバレてはないようです。もしこの先バレることがあったとしても、その時は何も悪いことはしていないと胸を張るつもりです。だって、会社のための人生なんて自分のものじゃないですからね。
今回執筆を呼びかけられたメンバーは、全員「初回治療だけで今のところ済んでいる人」−つまり再発していない人です。編集の方でも今回は「治った人」を選考し、診断から完治に到るまで、再建手術をした人はその記述も合わせての手記を作成したい、という方向でした。そして、私も含めてですが、出来上がった手記は検査、診断、入院、手術、術後の補助療法、現在にいたるまで(+再建手術)という流れになっています。監修の中村先生による解説も、手術を中心とするあくまで「癌診断後の初回治療」を中心とするものになっています。
しかし残念ながら、どんなに気をつけても、治療をきっちり受けて定期検診を忘れずにやっても、また手術時にそれほど進行していないと診断された方でも、数年後に再発・転移してしまうケースは一定の割合で存在します。もちろん今では治療法も日々進化していますので、決してあきらめることなく「生活の質」を保ちながら治療を続けるということが充分可能なのですが、今回の本には、その辺の手記は掲載されていませんし、先生もその点には特に触れていません。あくまで「再発を防ぐ」ための治療法について述べられています。
「これでいいのかしら?これでは片手落ちではないの?これだけを読んだら、乳がんは切ってしまえばなんとかなる病気、というイメージだけが植え付けられてしまうのでは?」と私も執筆後、編集の過程を経て考えてしまったのです。それに、私も他の執筆者も、大半は自分が完治したとは思っていません。手術後10年何事もなく過ぎなければ治癒したとはいえないのです。だから手術後1〜3年ごろまでの日が浅い間は、常に不安と隣り合わせというのが現状なのです。
そんな風に「治療の一面しか伝えていないのでは?」と思われる面もあった本なのですが、実際に製本され完成したものを読んでみると、体験者だからこそ書けるいろいろな思いというものが伝わってきて、実際の本以上の厚さを感じさせました。
思えば、自分が手術をしなくてはならなくなった時、一番始めに参考にしたのは、同じ手術を受けた方の体験でした。HANAさんの体験記から始まり、さまざまな方の体験記を食い入るように読みました。そのころ出版されていた本には医師の解説はありましたが、等身大の体験記を大きく掲載しているものはあまりなかったようです。
しかし、治療を受け始めたばかりのころは、それらの体験記が「再発してしまった人」であった場合、「やっぱりこういうことになるんだ・・・」と読み終わった後ひどく落ち込んでしまいました。実際私は、千葉敦子さんのシリーズや、松井真知子さんのアメリカでの治療の話、などは未だに読んでいないのです。それは、千葉さんも松井さんも、いろいろ治療を受けて前向きにがんばったけど、最後には亡くなってしまった、という事実を知っていたので、それらを読むのが非常に怖かったのです。反対に、参考にしたのが小説家中島梓(栗本薫)さんの体験記「アマゾネスのように」です。手術を受けても変わらずパワフルな中島梓さん、もちろん今でもお元気でいらっしゃいます。また、綾戸智絵さん、島倉千代子さんや女優の音無美紀子さんの話も大変元気になれるものでした。
この本は、今不安の真っ只中にいる人、手術を受けなくてはならなくなってしまった人など、「治療の入り口」に立ってしまった人にとって、「大丈夫、不安にならずに元気になろう!」というパワーを与えられる本になるのではないかと思います。先生の解説も分かりやすく簡潔にまとまっているので、アウトラインは充分分かると思いますし、手軽に手にとって読める大きさです。等身大の体験記は、今はネットでたくさん読むことができますが、インターネットに普段触れない人にも読んでいただくことができ、また情報の入手源としてのインターネットの利点に触れられていますので、出版の意義は充二分にあったのではないでしょうか?私も、「最初に読む1冊」としておススメしたいと思います。
*この本が最初の「乳がん治療の入門書」とするのであれば、いわば「専門書」にあたるのが、最近出版された「乳がん全書」(福田 護(聖マリアンナ医科大教授)編、法研より出版)でしょう。執筆陣は外科を始めとして放射線科、リハビリ部、看護学、栄養学、そしてガーベラハウスのそのえさん、と本当に多岐にわたっています。診断、治療(初回だけでなく再発時も含めて)、リンパ浮腫について、再建手術、メンタル面でのケア、緩和ケア、代替医療、体験記(あけぼの会の方による)など、これ1冊で全て分かる内容の本です。そして、ドラマのような展開がありました。この本を企画、編集された編集者さんは、なんと編集中にご自身に乳がんが見つかり、福田先生の手術を受けられたそうです。編集者の立場から患者の立場へ−そんな思いが伝わって、編集者さんの患者さんとしての視点も加わり、一層充実した内容となっています。