入所経験のない原告、遺族原告の被害


11月2日原告本尋問
あるべき人生を送れなかった・・

       入所経験のない原告



26年間、外出もせず
<原告番号1341番>

 トップバッターとなった原告番号1341番は、1934年に鹿児島県の離島で生まれた67才です。
 8、9才の頃、すぐ近所の20代の女性がハンセン病とのことで両脇を抱えられ、頭から毛布をかけられて強制収容され、その家が真白になるまで消毒されて、一家離散したという状況を直接体験しています。
 このため、ひとたびハンセン病と診断されれば、療養所に収容され、家は消毒されて家族は悲惨な被害にあうとの強烈なおそれを植え付けられてしまいました。 同原告が京大病院でハンセン病と診断されたのは、1975(昭和55)年7月のことで、妻と2人の子がいましたが、こうした幼い頃の体験から、離婚し自殺する以外に家族を守るすべはないと決心するに至りました。奥さんの必死の説得で自殺を思いとどまりましたが、約半年の京大病院の入院を経た後は、自宅に引きこもり年に1〜2回の京大病院への通院以外には全く外に出たことがないという生活を26年間も続けてきたのです。
 法廷はまさに、彼が26年間の忍従と沈黙を破って、心の奥底深く塗り込めていた思いを解き放つ人間復権の場となりました。
 何度も何度も涙で声を詰まらせながら、自らの苦衷と妻や娘の暖かい支えを訴え続けたその姿に、法廷中が共感の涙を流しました。
 当初法廷に立つことをためらい続けた同原告でしたが、尋問終了後「未だ言いたりない、もう一度やらせてほしい」と繰り返していた笑顔が印象的でした。
(徳田靖之弁護士)


家族にも打ち明けられずに・・・
<原告番号1347番>

 私は、長島に近い岡山県南部のある町に住んでいる。昭和31年に阪大病院でハンセン病と診断された。最初1年間は、家族と別れて相生で生活しながら阪大病院に通院した。妻にも子どもにもハンセン病にかかっていることは絶対に内緒にした。
 妻にはこの裁判の原告になるため数ヶ月前に初めて話をした。家族にもハンセン病のことを話すことができないというのは、やはりハンセン病に対する差別を考えてのことである。もしそのことが地元にわかるととても激しい差別を受けて到底そこで生活することはできないくなる。
 長島の入所者がわたしの住んでいる町に買い物に来たりしていたが、そのとき町の人は色々な悪口を言っていた。そのことを聞くとやはり絶対にばれないように生活をしなければならない。家族にも話すことができないということで大変辛く苦しい思いをして生活してきた。現在でも子どもには一切話をしていない。
(大熊裕司弁護士)


首をくくる覚悟で・・・
<原告番号1176番>

 2番目に証言した彼が発病したのは昭和39年、沖縄の離島で妻と3人の幼い娘と暮らす20代の農協職員で、妻のお腹には4人目がいました。質問が、那覇の診療所でハンセン病を告げられたショックに及んだとき、彼は言葉を失い、うなだれ、肩を震わせて慟哭しました。
 彼は、ひとたび発病が明るみに出れば、患者は強制収容され、家族は離散に追い込まれることを、長年の経験からよく知っていました。その病気であると宣告され、妻や子との別れと、自身の社会的死に直面した彼は、逡巡した挙げ句、妻に打ち明けます。
離婚すると言われれば直ちに首を吊る覚悟でした。
 その彼を、一緒に頑張ろうと励まし、今日まで40年近い年月、秘密を共有して家族を守ってきた妻は、この日傍聴席にいました。
 ハンセン氏予防法が施行されていた沖縄でも、隔離政策の実態は変わりなく、それによる被害の大きさにも変わりないことを、改めて明らかにした証言でした。
(久保井摂弁護士)


ひとり小さな小屋の中で30年
<原告番号1346番>

 1346番さんは,長女が発病して和光園に収容されてまもなく発病(再発)しました。自殺に失敗した彼女は,離婚され,実家のすぐ横のサトウキビ畑の隅っこの木の茂みの中に小さな小屋を建てて,そこに一人暮らすことになります。昭和40年頃のことです。
 彼女は,島の厳しい差別偏見の中で,人目に付くのを怖れて日中はけっして外に出ることなく,風呂もない,長い間電気も水道もトイレさえもない,訪れる者もほとんどない,その小さな小屋に閉じこもる孤独でみじめな暮らしを,平成6年頃まで30年間も続けました。傷をつくっても差別を怖れて病院に行けなかったため,両手に重い後遺症を残しました。自分は人から嫌われる病気だから,そのハンセン病とわかる手を見られるのが「恥ずかしい」。
 「みじめでした」「辛かったです」と泣きながら語った彼女の人生を奪ったのも,まさに国の隔離政策とそれによってつくられた強烈な差別偏見にほかなりません。
(大槻倫子弁護士)



12月7日結審弁論より


意見陳述
〜遠かった2キロの道のり〜

原告番号1187番の2 赤塚興一

 元ハンセン病患者・Aの長男・赤塚興一でございます。奄美大島の名瀬市からやってまいりました。私の父は平成2年11月28日に死亡しました。

 父は、現在の大島高校の前身であった大島農学校を卒業し、若い頃は農業技師として働いたあと、サイパンに行き、会社勤務をしていたそうです。当時は奄美大島では、進学する者などあまりなく、父は自分の過去の経歴を誇りに思っていたと思います。

 父が優れた農業技師として働いていたことは後に村の人から聞きました。特にミカンの接木の技術は優れており、私も若い頃、父から接木の技法を習った覚えがあります。また、奄美大島は黒糖の産地であり、農家は冬にはキビを刈り、黒糖づくりに励みます。良質の黒糖を作るには、石灰の混合が大事だと言っておりました。

 父が奄美和光園に収容されたのは、私が小学校3年生、すぐ下の弟が小2、一番下は入学前でした。学費のこと、生活のこと、母は何かと心配だったと思います。

 父が収容されるのが決まってからすぐのことですが、私は友人にこじき呼ばわりされ、学校で喧嘩になったことがありました。島ではハンセン病者のことを「こじき」と呼んでおりました。その喧嘩で私は相手を泣かしてしまいました。すると向こうの父親が学校まで来て、私は廊下で顔が腫れるまで殴られました。帰宅して、母に何があったか問い詰められても、どう答えてよいかわからず、自分ばかりが責められているようで、ただ泣き崩れるばかりでした。泣き泣き語る私の話を、父は終始黙って聞き、ただ最後に、「喧嘩には負けるな」とだけ言いました。相手の親をとがめに行くこともできず、父は無念の思いだったと思います。そうして、そのまま私たちは父が収容される日を迎えたのでした。

 幾月かして、暗い雰囲気だった我が家に父が帰ってきました。その時私には父がどこから帰ってきたか検討もつかず、母との会話の中で、鉄条網を乗り越えてきたと聞いたのを覚えています。父は収容された和光園から、必死の思いで抜け出してきたのでしょう。

 そういうことはその後も度々ありました。特に台風の多い夏場は、その頃の家の作りが茅葺きでしたから、心配でしょうがなかったのだと思います。父は屋根が気にかかるのですが、自分が家に戻っていることがばれれば困るので、私を屋根に登らせました。暗い中強い風に飛ばされそうになりながら、登っていたのを覚えています。

 時間が経過するにつれ、私も父の病気が周囲からどのように思われているか理解するようになりました。

 そんな状況の中でも弟たちが運動会で一番を取ってくると、父は「自分の血を引いているなあ・・・」と誉めてくれました。

 私自身も父の自慢の息子でありました。当時高校まで進学する人は少なく、父は、貧しい中、高校に進学した息子の自慢話を園内でするものですから、子どもを持つことのできなかった他の療養者の方に不評だったという話を聞いたことがあります。

 しかし、そんな父に対して、私は次第に嫌悪感を抱きつつありました。家族の生活は、母の失業対策事業で入るわずかな収入と、私が休日に山で木を切り、薪にして売った金で何とか持ちこたえていました。私はなんとかして、地元の普通高校を卒業して、貧しい家を、そして差別の渦巻く故郷を離れたい一心で東京に出ていきました。もっと言えば、私は父のもとを離れたかったのです。それが昭和32年のことでした。

 その頃の私は、父に対する理解よりも「何故自分達ばかりがこんな目に遭うんだ」といった被害者意識のようなものでいっぱいだったと思います。

 それでも、切り捨てたかった父にまつわる思いは、私についてまわりました。東京で、少し体調が悪くなり、医者にかかるときは、もしかしたら父と同じ病気ではないのか、という不安がいつも私の頭をかすめました。その度に、私はいっそう父への嫌悪の気持ちを強くしていきました。

 父からは、時々手紙が来ました。しかし、私は一度も返事を書きませんでした。

 父を疎ましく思う私の気持ちが父に伝わらないはずがありません。息子たちの成長だけを楽しみに隔離に耐えてきた父でした。自慢に思ってきた長男のこの冷たい仕打ちを、一体どんな気持ちで受け止めていたのだろうと思います。この時期が父にとっては一番辛い時期だったのではないでしょうか。

 私が田舎に帰ろうと思ったきっかけは、有名な映画ベン・ハーを観たことです。主人公がライ病にかかった母と妹に会うシーンに心を痛めました。昭和37年夏頃のことです。

 その後、私たち兄弟3人もそれぞれ家族を持ち、少しづつ落ち着いていきましたが、らい予防法による誤解や偏見は社会全般、そして私たちの中にも浸透しておりました。

 私の家から和光園まではたった2キロの道のりです。しかし、父は私達兄弟3人の結婚式には1度も参加しておらず、また私達からも必死になって参加させようとはしませんでした。父は、老いてからは盆と正月ぐらいにしか帰ってきませんでしたが、昼間に堂々と帰ってきたことはなく、常に人目を気遣って日が暮れた頃に私達が車で迎えに行っておりました。たった2キロの道のりですが、私達にとってこれがどれだけ長い距離であったか。これは、当事者にしか分からないものです。

 平成2年11月に父は亡くなりました。弟の嫁は父の葬儀の翌日から実家に帰り、いまだに戻っていません。育ち盛りの子ども3名を残してでした。原因は、弟が父についてきちんと話していなかったせいかもしれません。

 この場で42年間の間にあったこと全てを話すことは到底出来ません。ただ私達遺族は長い間、人権を侵害してきたらい予防法によって多くの社会的打撃を受けてきました。その責任を国はきちんと果たして頂きたい、私はそう思っております。らい予防法廃止も、5月にあった裁判の判決も、国の控訴断念の喜びをも知ることなく亡くなっていった父や、同じ境遇だった多くの被害者の人々の無念の思い、その思いに対して国はしっかりと向き合っていただきたい。亡くなった方々の名誉の回復のためにも、公正な判断をお願い申し上げて、私の意見陳述終わりたいと思います。



意見陳述書
〜母を慕い続けた夫の無念〜 

原告番号 1289番 

1 私は、菊池恵楓園の入所者です。現在、82歳になります。

   この裁判には、3年前に亡くなった夫の遺族として参加しています。

2 私は、昭和16年、22歳のときに恵楓園に入所しました。

   私は、早くに両親を亡くし、叔母のところに預けられていましたが、ハンセン病を発病したために、療養所に入れられたのでした。

   夫は、熊本の出身で、海軍に入り、中国に行っていたところ、発病して強制送還され、中国からそのまま恵楓園に送られてきたそうです。私よりもほんの少し前に入所していました。

   私と夫は、入所者の人の仲立ちで知り合い、昭和20年に結婚しました。

3 夫の実家は熊本県の○○郡にあり、夫の父親は亡くなっていましたが、実家には、母親が、夫の兄やその妻や子どもと一緒に住んでいました。夫は、私から見て、どこかいつまでも母親離れできていないところがあり、結婚後も、ときおり、母親に会いたい一心で、自転車で何時間もかけては実家に帰っていました。もちろん看守の目を盗んでの無断外出です。また、実家の近所の人たちの目に付かないように、夜、人目を忍んで帰っていました。

   このようにして、苦労して実家に帰っても、夫は、家族からあまり歓迎はされなかったようでした。夫から、実家で食事をするときは、自分のお膳は他の家族とは別で、使った食器も消毒されていると聞いたことがあります。夫は、一度、入所者のお友達に招かれてその友達の実家に遊びにいったことがあるのですが、そのときはお友達の家族と一緒のお膳で食事ができたということを、とても羨ましそうに話していました。

   それでも、夫は、母親を慕って、折にふれては実家に帰っていました。だけども、兄の子が大きくなるにつれ、夫に対する実家の態度は、ますます冷たくなっていったようでした。ある日、実家から戻ってきた夫が、母親から、「子どもが嫌っているから早く帰れ。」と言われたと話していたことがあります。夫の母にすれば、兄や兄嫁に対する気兼ねがあったのでしょうが、慕っている母親から「早く帰れ。」と言われ、夫は、どんなにつらかったことでしょう。

   夫の母親は、私たちが結婚してから10年後くらいに亡くなりました。しかし、その連絡があったのは、母親が亡くなった後で、夫も私も葬式には呼んでもらえませんでした。

   夫は、母親が亡くなった後も、ときどき、実家のある町に出かけて行っていました。自分が生まれ育った実家が、あるいは亡き母親が、よほど恋しかったのでしょう。家に入れてもらえるわけでもないのに、実家まで行っては、外から家だけ見て帰ってきていました。実家やその近所の写真を撮ってきたこともありました。

   私は、そのような夫が不憫でなりませんでした。そこで、せめて、夫が死んだら、骨になったら、ふるさとに戻してその両親と一緒に葬ってやりたいと思っていましたし、また、実家のほうでもそうしてくれるものと思っていました。

4 その後、夫は腎臓を患って闘病生活に入り、ついに平成10年8月14日に亡くなりました。その前から少し意識がおかしくなることがあり、うわごとで「お母さん。お母さん。」と口走っていました。最後まで母親離れのできない夫でした。

     葬式には、このころ実家をついでいた夫の甥のほか、何人かの親族が来てくれました。

   私は、甥たちが、夫の遺骨を引き取ってくれるものとばかり思っていました。これでやっと夫もふるさとに帰れると思っていました。でも、いくら待っても、甥たちから、「遺骨を引き取って帰る。」という言葉が出ることはありませんでした。

     夫の遺骨は、結局、恵楓園の納骨堂に納められました。

5 夫も、生きている間は故郷に戻れないと諦めていたと思います。療養所に強制入所させられた者が、そのような夢をもつことは許されませんでした。

   でも、夫は、死んで骨になったら、ふるさとの父母のもとで眠ることができると信じていたはずです。それが夫にとっては、せめてもの望みであり慰めだったのです。

     その、せめてもの望みさえかなえられず、夫はどれほど無念でしょう。それこそ死んでも死にきれないでいるにちがいありません。

   私は、この、夫の無念を晴らしたいと思い、この裁判に参加しました。

   この裁判は、お金のためにするのではありません。

     私が夫の無念を晴らさなければ、ほかには誰もしてくれる人はいないからです。

   そして、この裁判が、今の私が、妻として、夫にしてあげられる、たった一つの、そして最後のことだと思うからです。

     おわりに、私が、夫を想ってつくった短歌がありますので、お聞きいただければ幸いです。

 

      心いまいずくにあそぶ

   幼子となりて母呼ぶ声しずまりぬ




意見陳述
〜初めて明かした過去〜

原告番号1352番 

私は、日本の植民地で生まれ、小学校5年生の頃発病し、昭和15年頃植民地のハンセン病療養所に収容されました。

植民地における強制的な隔離政策は、内地と変わらなかったと思います。院内では、鉄条網にて社会とも断絶され、日に2回ほど守衛の点呼があったと記憶しています。

 脱柵して、家に逃げ帰った現地の人が官憲に連行され、院内の暗い独房に入れられていたのを、こわごわ見に行ったのを覚えております。

私の場合は、私より先に母が隔離されていましたので、寂しさは、さほど感じてなかったと思いますが、同年輩の子ども達はいつも母恋しさに泣いていました。

小学5年に入ったばかりでしたので、将来の夢も破られ、情けない思いでした。

患者の方々から、この病は、一生治らず、死ぬまでここからは出られないとの話を聞いたからです。

 

戦もたけなわの昭和18年、どういう訳か私だけ母を残して内地に帰ることが出来ましたが、帰国後、元気な母が数ヶ月の内に亡くなったことを聞き、自殺したに違いないと確信し、なぜ、母ひとりだけ残して、帰ったのかと、今も母の面影を思い出すと、後悔の念にかられています。

 

私は、昭和18年に帰国してからは、一度もハンセン病について、診察を受けたり、治療を受けたことはありません。ごらんの通り、外からわかる後遺症もありません。

けれど帰国してからは、隔離施設にいたこと、ハンセン病だったことに、ずっと苦しんできました。

兄弟から疎まれ、やけになって家を飛び出し、警察にやっかいになったりしている間に、父親が病死しました。

その父親が、亡くなる直前まで、所在の知れない私のことを一番に気に掛けていた話を、私はつい先頃、たまたま再会した義理の姉から聞き知りました。

ハンセン病であったことの負い目から逃れられず、兄弟達の気に沿わない仕事をしてきたために、疎遠になり、兄弟とは今も事実上断絶している状態です。

 

患者の苦悩はもとより、家族の、世間に知れぬようにと、小さくなって暮らしてきた悲しみは、当事者にしかわからないと思います。

小説で、らい病やみは、故郷を追われ、巡礼などして、乞食のごとき一生を送り、また、家族の者も村八分にされたと読んだ記憶があります。

私も、病気のことは決して知られてはならないと、思い定め、帰国してこれまで60年近い間、一度もらい病やハンセン病のことを、口にしたことはありませんでした。

結婚し、子どももいますが、28年前に亡くなった妻にも、子ども達にも、かたく秘密にして来ました。

忌み嫌われ、差別された病ゆえに、幼少より隔離され、教育もまともに受けず、性格も内気になってしまい、自分の運命をのろい、職業を転々としながら、苦しい生活を送ってきました。悪事に走らなかったことだけが、せめてもの誇りです。

 

そんな私が、この訴訟を知ったのは、ある大学で、ハンセン病に関する集会があるという新聞記事を読んだことがきっかけでした。

患者の方の発言もあると聞き、なぜか懐かしい思いにかられ、参加しました。

そこで、話されていた被害の実態は、まさに私が体験し耐えてきた苦難そのものでした。原告の話に思わず聞き入り、また、大勢の学生や一般のみなさんが熱心にメモを取る姿を目にして、感激で胸がいっぱいになりました。

集会の終了後、もっと患者の話を聞きたい人は残って別室に来てくださいという案内があり、我知らず夢遊病のような足取りで、ついていきました。

部屋に入り、話を聞いている間に、身につまされ、思わず自分から「実は」と一言口にした瞬間、嗚咽してしまい、あとは涙を止めることが出来ませんでした。泣きながら、自分も病で隔離されていたこと、これまでずっと胸に秘めてきたことを、告白しましたが、何をしゃべったか、今ではまったく覚えていません。

けれど、長年の間、誰にも話せなかった過去を、はじめて口にすることができて、胸のつかえがおりたような思いがしました。

 

しかしながら、元患者も、その家族の方々も、まだまだ苦難の道を歩くと思います。

最近、老人会の会合で、5月の判決が話題になったとき、ある年輩の方が、この病は前世に悪いことをした罰でなるのだと、あしざまに言うのを聞き、寂しく、情けなく、病にかかったことは絶対に、死ぬまで一人胸におさめておかねばと、改めて決心しました。未だに、この病に関しては世間の差別・偏見は根強いものです。

本日も、私の真情としては、両親のこと、兄弟のこと、お話ししたいことがたくさんありますが、詳しく申し上げると、私の素性があきらかになってしまうと思い、秘密を守り抜くため、詳しいお話ができません。まことに無念です。

今回の訴訟を起こしたほかの方々も含め、その現状を推察くださいまして、一日も早く救済してくださるようお願い申し上げるとともに、世間の方々が、この病に対する理解を深め、認識を改めてくださることを切望します。




意 見 陳 述
〜妻にさえも病名を偽って〜

原告番号1353番
            担当:大槻倫子

 原告番号1353番さんは,在宅治療制度の不備のために診断・治療が遅れ,重い後遺症を刻んでおられます。今ではほとんど目も見えませんので,私の方で彼の被害の概略を説明した上で,彼に陳述していただきたいと思います。

  彼は、昭和27年,22歳の頃から左手の小指がしびれるようになり,地元の大きな病院を転々としましたが,どの病院でも診断がつきませんでした。適切な治療を受けられないまま,昭和44年,39歳になってようやくハンセン病の診断を受けた時には,彼の身体はすでに重い後遺症を刻んでいたのです。彼はその重い障害を抱えながら,妻子を養うために,懸命に働いてきました。

 ハンセン病の診断を受けた際,彼はこの病気のことを全く知りませんでした。

 ところが,入院した京大病院で,患者らから,この病気がどのような病気なのかを具体的に聞かされていきます。その中で,彼は,「誰かに知られ,家族に迫害が及ぶ前に,この病気を自らの一身に背負って闇に葬ってしまおう」と,一時真剣に自殺を考えました。

 なんとか死を思いとどまった彼は,そのかわり,生き続ける限り,この病気のことは誰にも言わない,と固く心に誓います。

 それ以降,彼は,絶えず,病気が発覚するのではないかと脅えながら暮らしています。いまだに,最愛の妻に対してさえも,自分の病名を偽り続け,日々,嘘の上に嘘を重ねる生活を続けています。

 また,退院後,子どもへの感染をおそれて,嘘をついてまで,子どもを京大病院に検査に連れて行った彼は,いまだに,頭ではわかっていながらも,子どもや孫への感染をおそれ続けています。子ども達を自分と同じような辛い目に遭わせるのではないか,という不安にさいなまれ続けています。

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□あなたが,この病気にかかって,辛かったことは,どんなことですか

 京大病院で,患者達から「療養所に隔離される」,「保健所に通知され,自宅が消毒される」などと聞かされ,誰かにばれる前に,保健所から消毒に来る前に,一人でこの病気を抱えて死を選んだほうがいいのではないか,と夜も眠れずに悩む日々が続きました。

 もう一つ辛かったこととしてあげたいのは,退院後,子どもに感染しているのではないか,との不安から,妻に嘘をついて夏休みに子どもを連れだし,京大病院で検査を受けさせたことです。菌検査の痛さというのは,受けた人じゃないとわからないと思います。身体のあちこちを太い針のようなものでさして組織をとるので,ものすごく痛いのです。

 薄暗い廊下で待っていると,診察室からの子どもの泣き声が廊下中に響き渡り,親として,なぜ子どもにまでこんな思いをさせなければならないのか,と,辛くて辛くて涙が出ました。

 最近,孫にあせも(湿疹)ができたときには,この病気になったのではないか,と本当にビクッとしました。いまだに子どもや孫に感染するのではないか,との不安から抜けられません。

□国に対して言いたいことがあれば,おっしゃってください。

 私は病院をたらいまわしにされ,診断を受けられないままに後遺症が悪化してしまいました。

 地域で,近くできちんと診てもらえる病院があれば,そのような体制があれば,このようなことにはならなかった。今からでもきちんとしてほしいと思います。

 そして,二度と,私のような苦しみを持つ人が出ないようにしてほしいです。


 

意見陳述
〜入所歴なき原告を担当して〜

弁護士 神 谷 誠 人 

1 入所歴なき者の訴訟は,北は北陸から南は沖縄までの原告が,ここ熊本地裁に結集しなければならない訴訟でした。そのため,私は瀬戸内訴訟弁護団でありながら,熊本地裁訴訟の代理人となったのです。

2 私は,原告番号1348の女性原告を担当しました。

  彼女の住む場所は,山裾の雪深いところです。古くは,養蚕と農業を中心としていたところで,今もその面影が残る,静かで慎ましやかな集落です。そのような部落の中で,彼女は「らい病」の宣告を受けました。結婚し,長女も生まれ,幸せの絶頂の中での事件でした。彼女が「らい病」であることはたちまち部落中に広がり,いたたまれなくなった彼女は,京大病院に自らを隔離しました。

  彼女の病が癒え,退院しても,部落の人々の恐怖心が消えることはありませんでした。「周囲の声がうるさく,らい病の親がいる子は,小学校に入学させることはできない。」,市の職員のこの言葉で,彼女は再び京大病院に入院することを決意しました。一人娘を,小学校に行かせるためには,選択の余地のない入院でした。

  「どこそこの家に,よそから人が来た。」そういう噂が,たちまち広まるような,それほど監視の厳しい小さな集落です。針で刺すような周囲の偏見差別は,彼女の家族を,孤立させました。

  以来,彼女は,家族に対する加害者意識を持ち続けて生きてきました。彼女は,その忌まわしい記憶とともに,自らを自宅に封印することで,家族を偏見差別から守ろうとしました。長年の隠遁生活は,彼女の性格さえも屈折させました。彼女を気遣う家族は,ガラス細工のような家族関係を築いていたのです。

3 熊本地裁判決は,こうした彼女たちにも,光明と開放感をもたらしました。

  彼女は,一度は法廷に立つことを決意しました。彼女は,妹や娘の汚名を晴らすために,自らが人前に姿をさらし,自分の,そして妹,娘の被害を語らなければならない,という,強い思いにかられたのでした。しかし,尋問準備は,彼女にとって,封印したはずの忌まわしい記憶を呼び覚ますものでした。「再び,家族に迷惑をかけるかもしれない。」そういう思いが,彼女を苦しめるようになりました。彼女は苦悩し,その葛藤は家族関係にまで及びました。ついに彼女は,健康に変調を来たし,出廷を断念せざるをえませんでした。

4 11月2日に行なわれた原告本人尋問後,法廷で,自らの被害を語り,家族への思いを吐露した原告たちの,開放感に満ちた姿がありました。ある男性原告は「もう一度,証言台に立ちたい」と語り,ある女性原告は,裁判官にも見せることを拒んだ手を差し出して,娘や周りの人たちと握手を交わしていました。

  その光景を見たとき,私は,担当した女性原告に,法廷で自らの被害を語り,家族への思いを語る機会を,与えてあげられなかったことを,心底,残念に思いました。

  結局,自分がしたことは,ガラス細工のような,彼女の,心と家庭に,手を突っ込み,粉々にしただけで,それを修復することもできていないのです。

  もっと早くこの裁判を起こしていれば,彼女が法廷に立ち,家族との絆を深める時間的余裕があったはずです。

  そして,静かな,小さな部落の中で,突き刺さるような周囲の偏見差別に耐えながら,ガラス細工にも似た家族の絆を築いてきた,彼女とその家族の被害を,裁判所の前に示せたはずです。彼女らの人間としての開放の手助けを少しでもできたはずです。

  弁護士としての後悔と無念が,黒点のように,私の胸の中にあります。

5 私は,心から彼女とその家族に,わびなければなりません。彼女たちだけではありません。いまだに,辛いとか,悲しいということを,口に出すことさえできず,息を潜めるように暮らしている全国の被害者に,わびなければなりません。

  そのため,今日は,彼女らの,無念の思いの一端でも理解していただくよう,妹さんからの手紙をご紹介することで,私の意見陳述の結びとさせていただきます。

 

【妹の手紙】

私は,今年の9月,京大病院で初めて姉が弁護士さんと会って,自分の生い立ちを語ったとき,横で聞いていて,話の間じゅう,あふれる涙をこらえきれずに泣き続けていました。

これまで頭の片隅にずっと染みついていながら,あえて思い出さないようにしてきた辛い出来事が,次々と目の前に浮かんできて涙が止まらなかったのです。

 

姉は,役所からの度重なる入所勧奨の結果,昭和24年に京大病院に入院しました。

姉が入院したその日か,翌日のことでした。

保健所の人たちや地域の2人の組長が,大勢で自宅に押し寄せ,家の中に土足でズカズカとあがりこんで,家中を真っ白に消毒したのです。

父は,大切な床の間だけは消毒しないでほしいと頼みましたが,かないませんでした。畳も全てびしょびしょにぬれていました。その日,どのようにして寝たのでしょう。思い出そうとしましたが思い出せません。

家の外まわりも全部消毒されました。花が好きだった父が大切にしていた菖蒲もすべて刈り取られてしまいました。

そして,私たち一家は,組長から村八分の宣告を受けたのです。

家の前を通る人は誰もいなくなり,みんな裏の田んぼのあぜ道を通るようになりました。

それまで親しくしていた友達ともピタッと行き来が途絶え,たまたま道ですれ違っても,ぎこちなく挨拶を交わすだけになりました。

村の集会にも呼んでもらえません。外に勤めに出ることなど到底できませんでした。

ましてや表に出ていた父親の苦しみは,どれほど大きかったか。気の強い父親でしたが,悪し様に言う人の家の門口で首をくくって死んだらびっくりするやろな,と言うほど,思い詰めていました。

ある日,父が「ちょっと来てみぃやー」と私を呼ぶので行ってみると,刈り取られた菖蒲の中に,不思議なことに,黄色い花が一輪パッと咲いていたのです。父の「こんなことされていても花が咲くことがある。だから頑張らなあかん」との言葉に,父と二人,涙しました。

いっそ出ていこうか,という話をしたこともありました。しかし,「出ていったら負けや。姉が病気を治して帰ってくるまで頑張ろう。」と言って,歯を食いしばって耐える日々でした。

 

姉の娘のよっちゃんは,姉が入院したとき,まだ3歳でした。まもなく父親も離婚して家を去り,父親も母親もいない可哀想な幼少時代を過ごしました。

近所にはよっちゃんの同級生が4人いました。しかし,小学校に上がったよっちゃんは,学校からの帰り道,いつもひとりぼっちでした。親の態度がとてもきつく,悪口を言い回るような人だったので,子どもにもよっちゃんに近寄らないよう強く言い聞かせていたようです。心配して国道のあたりまで見に行くたびに,一人でとぼとぼと帰ってくる彼女の姿が不憫でなりませんでした。

 

姉は完全に病気を治して帰ってきました。しかし,たとえ村八分を解消すると口先で言ったところで,すぐに元通りになるわけがありません。

いつも小さくなって,こちらから話しかけるのも遠慮するという状態がずっと続きました。

最近は,表向きは話もするようになっています。

しかし,今でもどうしても遠慮してしまいますし,「こんなんされた」「あんなんされた」といういろいろな思いが,頭のそこここに残っていますので,とても元通りにいくものではありません。

姉は,ずっと家の中に閉じこもったままです。

 

姉が裁判に加わることができると知ったとき,私は,これでやっと世に出られるようになった,と本当に嬉しく思いました。

けれど,この裁判がもっともっと早かったら,と思わずにはいられません。私も72歳になり,いまさら勤めに行くこともできません。

一番苦労した父が生きているうちに,大手を振って歩ける世の中になっていれば,どれだけよかったか,と思います。

姉も,その思いをもっと強くもっていると思います。

 

しかしその一方で,姉は,裁判に加わったことによって,思い出したくもない辛い過去を思い出さざるを得なくなり,精神的にとても不安定になってしまいました。

自宅に弁護士さんに来てもらうことさえ,「近所の人が誰か変わった人が来たと目を光らせている,周りにばれたらまた当時の状況が再燃してしまう」などと言って,嫌がっていました。本人尋問に出てほしい,と言われたときも,私は姉が出るなら是非一緒についていきたいと思っていたのに,「妹がそんなとこ行かんと言ってるから,妹の機嫌を損ねたら申し訳ないから絶対に行かない」などと私のせいにして断ってしまいました。実際に,10月の終わりから体調を崩してしまい,1ヶ月ほど入院したのですが,「弁護士さんが来たから体調が悪くなった」などと言っていました。今もときどきひどい言葉を投げかけられ,同居している娘夫婦ともども辛い思いをすることもありますが,姉も,やり場のない苦しみをどうしようもないのだろうと思います。

 

遅すぎるとはいえ,この裁判には必ず勝って,亡くなった父にも喜んでもらいたい。

そして,村が少しでも明るくなれば。

姉ともども,大手を振って歩けるようになりたい。

それが私の願いです。

 

弁論要旨
人間回復の光を遺族と入所歴なき患者たちにも
 

原告ら訴訟代理人 弁護士 豊 田   誠

1 永松裁判長、ならびに裁判官のみなさん。

  遺族や入所歴なき元患者たちの、これまでの訴えを、どう受けとめられたでしょうか。この法廷での審理で明らかになった、遺族や入所歴なきハンセン病元患者たちの被害は、心臓を停止させるに足りるほどの悲惨、かつ強烈なものでした。

  確定判決が判示するように、「無らい県運動が生みだした差別、偏見は、従前のそれとは明らかに性格を異にする今日の差別、偏見の原点である」(判決430頁)「新法の存在は、差別、偏見の作出、助長、維持に大きな役割を果たした」(同432頁)のです。

  ハンセン病とされ、あるいはハンセン病と思いこんだだけで、療養所に隔離されることが全くない状況のもとでも、自ら生命を絶つという事件があいついでいるのです(同446頁)。隔離されることもなく、かといって生命を絶つこともできずに隔離政策の生んだ差別、偏見のために社会の片隅に追いやられ、もだえ苦しみ、息をひそめて生きてくるしかなかった、遺族や入所歴なき患者たちに、人間の尊厳のひとかけらでもあったといえるのでありましょうか。

  裁かれるべきは、国の行政でなくて何でありましょうか。

2 さて、さる5月11日の熊本地裁確定判決が、ハンセン病元患者たちの人間回復の宣言として、大きな社会的共鳴と感動をもって受けとめられたことは、周知のとおりです。そして、被告国は、控訴を断念したのでありますから、すべてのハンセン病元患者たちの人間回復のための必要な措置をただちにとらなければならない立場に置かれるに至ったのです。

  こうしたなかで、御庁の「和解に関する所見」が、7月27日に示されたことは、きわめて時宜にかなったものであったばかりではなく、その内容においても「遺族原告についても相続法理に則り和解解決が図られるべきである」「療養所への入所歴のないハンセン病患者・元患者も上記精神的被害を被ったと認められるから、国家賠償請求権を有すると解すべきである」としている点では、全く正当であり、社会的常識にかなったものでありました。

3 ところが、9月12日、被告国は、こともあろうに和解拒否の意見書を提出したのです。和解拒否の三点の理由(@直接判断されていないA共通損害が不明B補償立法の対象になっていない)は、全く根拠薄弱なものであって、ここでいちいち反論するまでもないことです。

  被告国が和解を拒否する発想の根源は、確定判決が問いただしたハンセン病問題の本質を理解していないところにあるのです。ハンセン病問題で自らが犯した行政上の誤謬を真摯に反省していないからであるといわなければなりません。

  私は、すべてのハンセン病元患者と弁護団の名において、被告国のこの不誠実な対応が、人道上も法治国家の行政のあり方としても、断じて許されるものではないことを、怒りをもって訴えるものです。

  さらに、問題なのは、被告国の和解拒否の対応が、内閣総理大臣談話(平成13.5.25)、つまり、政府の方針にも反しているということであります。

  総理談話をよく読んでいただきたい。

  総理談話は、第1に、人権侵害行為を、入所、隔離という事実行為に限定せず、旧、新らい予防法を頂点とする隔離政策にあったことを認めていること、第2に、従って、入所歴の有無を問わず、すべてのハンセン病患者が強いられてきた苦痛と苦難に対しお詫びをするというものであり、つまり、すべてのハンセン病問題について誠意ある解決をするというものであり、しかも、第3に、総理談話は、「ハンセン病問題については、できる限り早期に、そして全面的な解決を図る」のが、政府の方針であるとしめくくっているのである。

  被告国の訴訟上の対応が、総理談話という政府方針に背いているのは、費用負担庁である厚生労働省の横車によるものであると断言してはばからない。このことは、現在、ハンセン原告団が厚生労働省との間で進めている、四課題(謝罪広告・真相究明・在園保障・退所者援護)の交渉の中でも、厚生労働省は、責任に基づく償いではなく、あくまでも恩恵的な福祉対策で進めようと抵抗している図式と同じものであるといってよい。

4 最後に、私は、貴裁判所が、一刻も早く公正な判決を言渡すことを、同時に、弁論終結後すみやかに賠償額を呈示した全面解決勧告をされることを求めます。

                          以 上