【入所歴なき患者・元患者 Q&A】

 

 

ハンセン病問題統一交渉団

 

 

 「らい予防法」下で,ハンセン病に罹った人の中には,療養所に隔離収容されなかった人々がいます。私たちは,「入所歴なき人々」,あるいは「非入所者」と呼んでいますが,このような人々も,国のハンセン病政策によって,療養所に隔離収容された人と全く同質の「人生被害」を受けてきました。

 2002年1月28日,国は,入所歴なき人々に対する責任を認め,ハンセン病政策により多大な苦痛と苦難を与えてきたことを謝罪し,精神的苦痛に対する賠償一時金を支払うことに合意しました。

 私たちは,さらに国に対し,在園者,退所者と同様,入所歴なき人々にも,人間らしい,平穏な安定した生活が保障されるよう,生活保障,医療体制の充実等の恒久対策を要求しています。ところが国は,入所歴なき人々たちも隔離政策の被害者であることを認めてから1年半以上が経過した今も,入所歴なき人々に対する恒久対策の実現については,極めて冷淡な姿勢をとり続けています。

 私たちは,入所歴なき人々を含めたハンセン病政策による被害者全員の人生被害の回復が実現しなければ,ハンセン病問題の真の全面解決はありえないと考えています。

 入所歴なき人々の被害実態をご理解いただき,ハンセン病問題の全面解決に向けて,今後ともさらなるご協力をいただくようお願いいたします。

 


Q:隔離されていないのに,何故,被害者といえるのでしょうか?


A:日本のハンセン病政策の特徴は,ハンセン病の罹患を疑われた全ての人を,その症状の如何を問わず,終生,療養所に隔離収容することを目的としてきた点にあります。

  国は,患者の収容を促進するため,無らい県運動に代表されるように「ハンセン病は恐ろしい伝染病だ」と間違った知識を喧伝し,大々的な消毒を行なう等して人々の恐怖心を煽り,患者が地域社会からあぶり出されるような仕組みを取ってきました。この過程で,社会にはハンセン病に対する根強い偏見差別が植え付けられてきました。

  また,国は,隔離政策によって,ハンセン病治療の場を療養所に限定し,社会内で治療を受けることができない体制を作り出しました。それにより,患者の在宅治療を困難にし,療養所への収容を促進してきたのです。

  その結果,かろうじて「あぶり出し」政策の網の目を逃れ,社会内で生活する患者たちは,「社会内で生活するがゆえ」に,かえって,@厳しい偏見差別に晒され,A適切な治療を受ける機会を奪われる,という被害を受け続けてきたのです。

  熊本地裁も,入所歴なき原告の被害について,

 「社会の中で生活を送っただけに,より一層ハンセン病に対する誤った社会認識(偏見)により様々な差別的取扱いを受けたこと,抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる違約品に含まれていなかったことなどの制度的欠陥により,ハンセン病の治療を受けられる医療機関が極めて限られていたため,入所者とは異なり,医療を受けることすらままならなかったこと,及び,ハンセン病に罹患していることを隠して社会生活を送らざるを得なかった等により極めて深刻な被害を共通して受けた」(平成13年12月7日付和解に関する所見)

 と認定し,国の加害責任を厳しく断罪しています。

 


Q:入所歴なき人々は,どのような被害を受けてきたのでしょうか?

 

A1:差別偏見による被害の最も激しい現れ方は,地域社会からの排除,「村八分」でした。

   厳しい偏見差別は,本人の生活を奪い,人格や心を深く傷つけ,さらには,その被害は家族にまで及びました。

 


 〔村八分〕


 Aさん(70代・女性)は,発病するや,村役場の職員から,しつこく入所を勧められました。Aさんの病気は,たちまち部落中に知れ渡り,Aさんは,家族を周        囲の偏見の目から守るため,生まれたばかりの子どもを残し,追われるようにして京大病院へ入院しました。

 Aさんが入院すると,大勢の保健所職員が自宅に押しかけ,土足で上がり込み,家の中から庭先まで,真っ白に消毒しました。

 「恐ろしい伝染病患者を出した家」というレッテルを貼られたAさん一家は,村八分の宣告を受けました。家の前を通る人は誰もいなくなり,それまで親しくしていた人ともパッタリ行き来が途絶えました。村の寄り合いにも呼んでもらえなくなりました。

 夫はまもなく家を去りました。娘は学校でいじめられ,いつも独りぼっちでした。Aさんの妹は外に働きに出ることもできず,結婚もできませんでした。

 病が癒え退院したAさんを待っていたのは,厳しい「村八分」と針で刺すような偏見差別の視線でした。偏見差別に脅える家族を守るため,快活だったAさんは,人目に自分の姿をさらさぬよう,家の中に閉じこもり,ひっそりと暮らす生活を続けています。(熊本地裁提出の陳述書より)


〔社会からの隔離−小さな小屋の中に隠れて30年−〕

 Bさん(70代・女性)は,南西諸島の小さな島の出身です。この島では,戦前,患者の大収容が行なわれました。

 Bさんが発病したのは,昭和40年頃のことでした。Bさんの噂は,またたく間に島中に知れ渡り,夫はBさんに,「療養所に行くか,離婚するか」と迫った結果,夫は幼い子どもを連れて,Bさんの元を離れました。

  厳しい偏見に絶望したBさんは,一時は青酸カリを飲んで自殺することまで考えました。           

 結局,Bさんは,周囲の目から逃れるために,外から見えないよう,茂みの中に,6畳一間の小さな小屋を建て,そこで蟄居生活を送ることを決意しました。風呂も,トイレも,電気もありませんでした。人目を避けるために,昼間は外に出ることもなく小屋の中に閉じこもった生活を,30年間,平成6年まで続けなければなりませんでした。

 Bさんにとって,偏見差別から逃れるためには,他人と接することを避け続け,自らを小屋の中に「隔離」するしかなかったのです。

 しかも,Bさんは,傷が原因で,手指の肉が腐り骨が突き出すような状態になっても,差別を受け,治療を拒否されるとの怖れから,決して島の病院に行こうとはしませんでした。Bさんは,そこまで追いつめられた生活を強いられていたのです。

 Bさんは,島を離れた今でも,周囲に病気のことが知られたが最後,これまでと同じような差別扱いを受け,家を追われるのではないかという不安に怯えながら,細々と暮らしています。

 

A2:ハンセン病を告知された者にとって,自分の病気は,誰にも話してはならない「秘密」となります。自分と家族を厳しい偏見差別から守るには,この「秘密」を守り通すしかないのです。誰しも一度は,「秘密」を守るために,自殺を考えます。自殺が,「秘密」を守るための一番完璧な手段だからです。そして,自殺を思いとどまったても,この「秘密」を守る続けるため,家族にも話すことができず,他人との交友関係も絶ってしまわなければなりませんでした。自らを,社会から,人間関係から,「隔離」せざるをえなかったのです。


   秘密−家に鍵かけ閉じこもる生活−〕


 Cさん(60代・男性)が発病したのは,37才の頃(昭和47年)でした。当 初,一般病院で誤診され,不必要な胸腺切除手術を受けました。昭和50年夏,京大病院を受診して初めてハンセン病との診断を受けます。

 ハンセン病との診断を受けた以降,Cさんの明るく社交的だった性格は一変してしまいました。

 Cさんは,熊本地裁の法廷で,涙ながらに,こう語りました。

 「それはもう,ちっちゃい時に,田舎で,近所の方が連れて行かれたときのことが胸に焼き付いていますので,おそらくそんなことになるんじゃないかと思って,それだったら,もう死んでお詫びをしたほうがいいんじゃないかと思って,死のうと思いました。

  妻に話したら,『私は大丈夫だから。』という温かい返事をもらいました。その後は,妻が外で働いて,自分が家事をする生活です。妻が出かけると,内鍵掛けて,ジーと家の中に閉じこもったままでした。人が来ても,ジーとそれを耐えて,ジーッと返事もせずに閉じこもったままの生活でした。もし出て,後遺症のまひがありますので,それを見られるのが怖くて怖くて,それを見られたら,すぐ分かってから,保健所が来るかと思って,今でも思っています。京大病院に診察,治療してもらうほかは家の外に出ることはありませんでした。それから26年間,私の人生は,まさに,裏街道を歩いてきた人生でした。」


 〔秘密−出世も捨てて,隠し続ける−〕

 沖縄在住のDさん(60代・男性)が発病したのは,26才の頃(昭和37年)でした。工場で働くDさんには,3人の子どもと身重の奥さんがいました。

 Dさんは,熊本地裁の法廷で,病気を告知されたときの心情について,こう語っています。

 「ハッとして,ボーっとして,ただうなずいていました。医者から『薬を飲んでみなさい』と言われました。その薬を飲んで,よくならなければ自殺を図ると,それまで決心しました。先輩なんかがそういうふうにして,その家族がバラバラになったから,自分がそうなったら,奥さん,4名の子どももいるから,子供の将来のために大変だと思いました。

 世間から見ても,その病気は恐ろしい病気だと言われていましたから,家内に話せば,『夫婦別れしましょう』と言われるのではないかと思いました。もし,そうなれば,世の中で思いというものはないから,希望というものはないから,もう首を吊るつもりだったです。ようやく,家内に打ち明けると,家内はうなずいて,涙だけやってました。その日は返事がなく,翌日の夜,『あなた,治療して早くよくなりなさい』と励ましてくれたので,ちょっと力がつきました。後は,子どもにも,親兄弟にも,誰にも打ち明けていません。家内だけに打ち明けています。家内にも固く口止めをして,2人で40年間,この秘密を守り通してきました。

 那覇の診療所までは2日がかりでした。毎週とか,毎月とか行けないのでまとめて薬をもらっていました。薬や通院のことは知られないように隠してきました。もらった薬をいつも鞄に入れて,自分の体から片時も離しませんでした。家にも置きません。会社に行くと,着替えしますから,鞄をロッカーに入れて,鍵を締めてやってました。仕事も,もう希望はないと,表にでることはしないと決心しました。本当だったら,中央にも出て,幹部になれたはずです。」


A3:社会内医療体制の不備

   ハンセン病医療そのものが療養所に限定されていたため,一般の医療機関では診断がつかずに誤診されたり,ハンセン病とわかると病院から受診拒否,入院拒否をされ,病院を転々とさせられました。また,一部の医療機関がハンセン病の治療をしていましたが,自宅から遠かったり,また入院設備がなかったりと,社会内で治療を受けるには困難を極めました。

   このため,治療機会を逸して障害を重篤化させたり,病気を隠しながら通院するため学校を退学したり,職場を転々としなければならなかった人は少なくありません。


〔入院拒否〕


 近畿に住むEさん(80代・女性)が,発病したのは昭和63年末のことでした。

 最初,公立病院で診察を受けたところ,「膠原病」と誤診されました。なかなか症状がよくならず,大阪大学附属病院を受診して,ようやくハンセン病であることがわかったのです。家の近くの公立病院に一旦は入院することができましたが,結局,Eさんは,その病院を追い出されることになります。Eさんは,弁護士にこう語っています。

 「入院して数日すると,『専門外だから』『他の患者に感染する』と色んな理由をあげて,退院して欲しいと言われました。それでも,何とか置いてもらえないかと,一縷の希望を持っていました。ところがある医者から『大変な病気になりましたね。住宅はいかがしますか。焼き払いますか。』と言われ,この言葉で私は退院を覚悟しました。私の病気のことがどこからか近所の人達に知れ渡り,それまで通っていた美容院から『絶対感染しないという医者の診断書を持ってくるか,もう来ないで欲しい』と言われ,美容院にも行けなくなりました。私だけでなく,家族も公立病院や美容院に行くことができなくなったのです。」


   ハンセン病が発覚して,受診を拒否されたり,療養所に収容されることを恐れる余り,病気になっても,ほとんどの人が,病院に通うこともできませんでした。

 

〔病院をおそれて〕


 先に出てきたBさんやCさんも,法廷でこう語っています。

 「ちょっと傷つけたところが,骨が突き出て,もう肉はみんな腐れてしまいました。でも病院には行きませんでした。もう差別がひどいから,差別するから行っても治療してもらえないと思って行きませんでした。」

 「病院に行って,ハンセン病ということが分かるのが嫌でした。病気になれないことが,いちばん困りました。それで薬を家内に頼んで買うてきてもらって,風邪をひいたときは風邪薬を,しびれがあるときはバファリンを,セデスをというような状態で,自分で治すしかありませんでした。」


 

Q:入所歴なき人々は,今,どのような状況におかれているのでしょうか?

 

A:入所歴なき人々は,ハンセン病と診断された以降,ある人は外に働きに出ることができずに小屋や自宅に閉じこもり,ある人は病歴を隠すために低賃金・重労働の職業にしか就職できず,またある人は病歴の発覚を怖れて転職や転居を繰り返してきました。

  その結果,ずっと孤独で,経済的にも厳しい状況におかれてきました。年をとった今,十分な老後の蓄えも,満足な年金も受けられない人がほとんどです。

  また,身近に,自分の病歴を明かして安心して治療を受けられる医療機関がないことも,極めて深刻な問題を引き起こしています。ハンセン病の再発や後遺症の重篤化は,自己の病気の発覚につながります。偏見差別の厳しい社会においては,「ハンセン病の発覚」=「死」と考えている人も少なくありません。すなわち,身近に安心してかかることのできる医療機関がないため,再発・重篤化の恐怖に脅え,再発したり,後遺症が重くなったときは自ら死ぬことまでも考えながら生活しているのです。


 

〔死を覚悟しながら生きる〕


 東北に住むFさん(男性・70    代)は,弁護士にこう語っています。

 「もし,薬をもらえるところがなくなり,病気がどんどん悪くなったらどうしよう,という不安にいつも脅えています。もし悪くなることがあれば,人に知られる前に,分自身を始末しよう」という考えを,ずっと抱きながら生きてきました。」


 

Q:統一交渉団は,何を求めているのでしょうか?

 

A:これまで紹介してきたことは,入所歴なき人々の被害実態のほんの一部にすぎません。

  入所歴なき人々は,今も差別偏見の恐怖に脅え,また社会内医療体制の不備による不安を抱えながら,社会の片隅で,自らを社会から「隔離」しつつ,「死」と隣り合わせの生活を送っています。このような状況は,隔離政策によって人生を歪められ,あるいは隔離政策がなければ本来享受しうるはずの人生を奪われた,という意味で,在園者や退所者と全く同様の被害を受けているといわなければなりません。

  入所歴なき人々が,人間らしく,平穏な安定した生活を送るためには,

  @ 国の責任にもとづき経済的支援を行なうこと(退所者給与金と同種の制度の創設)

  A 安心して受診できる医療機関の設置と医療費自己負担分の減免等により,社会内での治療が適切かつ容易に受けられるような医療体制をつくること

 が必要不可欠です。

 

 

Q:これまでの交渉経過(国の姿勢)はどのようなものだったのでしょうか?

 

A:

1 国の約束違反と協議会の決裂

  国は,2002年1月30日,熊本地方裁判所の法廷において,入所歴なき人々に対する社会生活支援金等の恒久対策について,引き続き協議すると約束しました。

  ところが国(厚労省)は,この約束に反して,入所歴なき人々の問題は「賠償一時金で解決済みである」として,協議のテーブルにつくことすら拒み続けました。

  2003年1月20日,ハンセン病問題対策協議会において,統一交渉団は,「せめて副大臣は入所歴なき人々と会って,被害の実情を聞くべきだ」と訴えましたが,座長である木村義雄副大臣は,入所歴なき人々と会って被害の実情を聞くことさえも拒否し,その結果,協議会は決裂しました。

2 作業部会の設置と実態調査

  この協議会の決裂は,世論や統一交渉団の怒りにつながり,国会でも,厚労省や木村副大臣の背信的態度に対する厳しい追及がなされました。

  そして,世論の盛り上がりと,ねばり強い運動の結果,2003年4月,厚労省は,入所歴なき人々の恒久対策を協議するための作業部会を設置することを表明し,ようやく協議のテーブルに着きました。

  作業部会では,厚労省は,さらに「施策の必要性と内容を検討するため」に,入所歴なき人々に対する生活実態調査の実施の方針を提案しました。

  私たち統一交渉団は,入所歴なき人々の恒久対策の早期実現のために,この提案に応じ,6月末までに,1ヶ月という極めて短い期間で,全国91名の対象者のうち84名(92%)の調査を完了しました。

3 実態調査の結果

  この調査においては,

  @ 就学中に発症した人の半数以上が,偏見差別や病気発覚のおそれから退学し,または進学を断念したこと

  A 偏見差別や病気発覚の恐怖によって仕事に影響が出たと回答した人は,6割を超え,中でも雇用されていた人のうち,8割を超える人が偏見差別や病気発覚のおそれから解雇あるいは自主退職していたこと

  B 発症してから確定診断日(適切な治療が受けられるようになった日)までに,平均で65.3ヶ月(約5年半)も要しており,社会内で適切な治療を受ける機会がなく病気や後遺症を重篤化させたこと

  C 表面的には就学や就労に影響がなかった場合でも,偏見差別を恐れて周囲に病気を隠し続けた結果,自制的な経済活動や社会活動を余儀なくされてきたこと

 が,明らかとなりました。

  また,実態調査の結果では,入所歴なき人々の平均年間所得が約190万円しかなく,年収200万円以下の方が約7割を占めていることも明らかとなりました。この数字は,各種統計資料(賃金センサス,総務庁家計調査等)における平均的な所得水準を大きく下回るもので,その差額は月額にして,12〜26万円にもなるものです。

  この調査結果は,まさしく国の隔離政策が創設・助長した偏見差別によって,入所歴なき人々たちが,社会生活及び経済活動に著しい制限を受け,その結果,厳しい生活を余儀なくされていることを示すものです。

  国は,療養所入所歴のある退所者に対しては,隔離政策により経済的基盤を奪ったことを認め,その原状回復責任にもとづき,2002年4月,社会生活を支援するための給与金(年金)制度を実施しています。入所歴なき人々も,隔離政策による偏見差別によって,経済的基盤を奪われた点については,退所者と同様であることは,上記実態調査結果からも明らかとなりました。

  国は直ちに,入所歴なき人々に対しても,法的責任にもとづいて,社会生活を支援するための給与金(年金)制度を実現すべきなのです。

4 未だ実現を渋る厚労省

  ところが厚労省は,この調査結果が示す切実な経済実態を前にしても,施策実現につき極めて消極的な姿勢を示し続けており,いまだ予算要求の筋道すら付けようとしていない状況です。

 

 

Q:私たちは,今,何をしなければならないのでしょうか?

 

A:統一交渉団は,厚労省に対し,入所歴なき人々に対する月額最低12万円の給与金(年金)制度を来年度に実現すること,そして,この実現のために早期に本年度のハンセン病問題対策協議会の開催をすることを求めています。

  実は,国が背信的・消極的な姿勢をとり続け,給与金制度の実現を渋っている間に,前記のCさんはじめ何名もの入所歴なき人々が体調を崩し,施策実現を心待ちにしながら,あとどれだけ生きられるか分からないという状況におかれています。

  国が,これ以上,被害者を苦しめ続けることは断固として許してはなりません。

  国に,その法的責任に基づき,入所歴なき人々に対しても早急に,かつ十分な恒久対策を実施させるためには,熊本地裁勝訴判決や控訴断念のときのような,皆さんの絶大なるご支援とご協力が必要です。

  まずは,皆さんお一人お一人が,首相官邸,坂口力厚労大臣,木村義雄厚労副大臣に対し,「入所歴なき人々(非入所者)の給与金制度を来年度実現せよ」との要請書を,メールあるいはファックスで送ることから始めて下さい。メールアドレス,ファックス番号は下記のとおりです。ハンセン病問題の早期解決は,市民一人一人の要求であることを国に分からせる必要があります。

  今一度,ハンセン病問題の全面解決に向けて,大きな運動を展開していただくよう,お願いいたします。

 

【首相官邸】100-0014 東京都千代田区永田町2−3−1 小泉純一郎 殿

   http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html

【坂口力厚労大臣】

  〒100-8981 東京都千代田区永田町2−2−1 衆議院第1議員会館617号室

   (FAX)03−3508−3617

【木村義雄厚労副大臣】

  〒100-8982 東京都千代田区永田町2−1−2 衆議院第2議員会館329号室

   (FAX)03−3502−5235

【厚生労働省】〒100-8916 東京都千代田区霞が関1−2−2

  http://www.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html

 



[参考] 入所経験のない原告、遺族の被害