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登場人物紹介
【五章】


デイ・アナは、熱に浮かされた眠りの中で夢を見ていた。

ぼんやりと浮かぶ風景は、いつもの見慣れたものであり草の香りが強くだたよい、虚空に遊ぶ風の精霊達の衣の裾がやけに鮮やかに見える事が、これを夢だと確認させる。人々が精霊達を見る術を失って久しい世界において、その姿を捕らえることはあまりに稀である。デイ・アナ自身、風の精霊王を除けば此程はっきりとした姿は見たことがない。
強い風が、草をなびかせ翻り駆け抜けてゆく。暫くして、その中を疾走してゆく騎影がある。瞬く間に近づくその影は、一人の青年だった。その頬に幼さを残し、瞳は行く手を見据え輝く。蹄の音も軽やかに夢と希望に満ちた未来へ向かおうとして。何処か懐かしい面影を持つ青年は、振り返ることなく草原を後に、旅立っていった。
見慣れた景色が更にぼやけて、辺りは光を無くした様に影の中に沈んだ。遙か草原の彼方、その領土の縁から赤黒い渦が近づき、風は唸りの声を上げた。その渦は、いくつも草原とやって来る。風が軋み大地がふるえる。

(これは、良くないもの。悪しきもの・・・)

精霊達も悲鳴を上げているのが、デイ・アナの耳に届く。

(これは一体・・・)

突然デイ・アナの視界が広がる、天の高みから草原を見下ろしてることに気が付いたが、驚きの声が漏れることはなかった。眼下に見下ろした草原の有様は声を出すことすら躊躇われた。
そこかしこで赤黒い渦が草原を蝕み、まるで虫食いにあった絨毯のように穴だらけになっていた。緑なす草、あちらこちらに顔を出す泉や小川、孔兎や鶉の鳴き声。狼たちの呼びかけの歌も、冠鷲達の望郷の歌も聞こえない。草原は命の音を無くし、ただ赤黒い渦が荒れ狂い精霊達が戸惑いと消滅の悲鳴を上げる。
その中で、デイ・アナは声を聞いた。
恐らく人の声。
それは、絶望と憎悪、憤怒と哀惜が入り交じる声。荒れ狂う渦の中から漏れ出す声は、どうすればそれ程の思いを抱けるのか不思議なほど暗くて、熱い激しさを持っていた。

(何かに・・・似ている?何に・・・)

思い出せそうで思い出せないもどかしさに、デイ・アナは焦れた。確かに自分は知っているはずだと、頭の中で何かが囁く。更にその声を聞こうと耳を澄ましたが、赤黒い渦も猛り狂う風も消えて、草原はいつもの姿に戻っていた。ただ、何処からも音が聞こえないだけでデイ・アナは寂寥感に包まれていた。追いつめられたような気になって草原を見回すと、赤黒い渦が来た方にまたもや騎影が見えた。
今度は影が近づくのではなく、デイ・アナの視界の方が近寄っていく。そしてデイ・アナは三度目の驚きに今度こそ心臓が止まるような気がした、馬上の人は先ほどの青年に違いなかった。
ぼろを纏い、そげた頬はあらゆる痛みに耐えた強靱さを持ち、柔らかさを失っていた。
夢と希望に満ちた瞳は、物狂しい思いに火を噴くかと思うほど強い光を止め、そして微笑みをうかべていた口元は、奇妙に歪んだ引き連れとなり歯ぎしりを繰り返す。
しかし、デイ・アナを驚かせたのはその青年の余りの変わり様ではなくて、懐かしさを感じさせた面影がなんであったのかを理解したことだった。
この青年こそ、父イルクーツクの若かりし頃の姿に他ならない。

(草原の外で何かがあったのだ・・・父上は・・そしてあの渦)

デイ・アナは唐突に気が付いてしまった。
あの赤黒い渦と怨嗟の声が父親の変容に関わりがあり、草原の外で父親が変わらざるを得ない出来事が起きたのだと。その時の事が、今のイルクーツクを作り上げたと確信する。
この夢はデイ・アナに送られた夢であり、その送り主が誰なのかさえもはっきりと解る。
風の精霊王は選択の時が来たと、デイ・アナに教えている。
 


突然、周囲の景色が変わった。今度は燃えさかる炎の中にいた。辺り一面が油脂を饗され踊り狂う炎の精霊達で一杯になる。怯え逃げまどう人々は困惑と怒りの声を上げていた。我が子を庇う母親も、老婆を支える孫娘も何もかもが火の洗礼を浴び苦痛を訴える。助けを求める声がかけられた方角には火の壁の向こうに、大勢の兵士達が手に松明や火矢を構えて立ち並ぶ。長柄の槍を持つ兵士は火の壁を越えようとする農夫を押し戻し、せめてこの子だけはと差し出された幼子すら矢をかけられ火炎に飲み込まれた。
さながら阿鼻叫喚の地獄絵図が、デイ・アナの周りで展開してゆく。輝く炎の中で、あの赤黒い渦がまたもやデイ・アナの視界を掠める、この渦が怨嗟や呪詛であることはもはや疑いようが無く、いつもデイ・アナを怯えさせていた物の正体はあまりに無惨な後景によって知らされた。
更なる恐怖は、その怨嗟の渦が焼かれる人々や大地のみならず炎の精霊達すら飲み込み始めたことで高まる。
全てを食らいつくすその赤黒い渦が、イルクーツクの内にある空洞と重なった時・・・・・

デイ・アナは声なき絶叫を放った。


デイ・アナは馬の背に揺られ草原を渡る風をただぼんやりと眺めていた。あの夜からすでに五日が過ぎ、冷たい怒りを纏う女達に碌な休息を取ることもなく男たちは草原に追い出され、既に手遅れではあるが冬篭りの支度に精を出す羽目になった。
デイ・アナの訴えは父イルクーツクではなくその妻達によって受け入れられた。無論イルクーツクの妻たちにとっても、ロリ・アナの所業は到底看過できぬ大事であり、家畜達が冬を越せるかどうかの瀬戸際に更なる厄介ごとを起こされたのではたまった物ではない。
デイ・アナの言ったことはあまりに正しすぎて、反論の余地さえない。イルクーツクの妻達の中で、姉妹の実母であるアナ・イーですら姉娘を庇うどころか平手で打ち据えたほどに怒りは深かった。
草原で生き抜くための戦いは男女共に同じ、なのに男達だけがそれを一方的に放り出しその皺寄せを背負わされた女達にしてみれば、ただ遊び呆ける怠け者に同情の余地はない。
どれ程イルクーツクが可愛がろうと、責任の所在は明らかにし怠れば罰を与えなければ、一族に対して示しがつく道理もない。
家畜達の飢えは城砦に集う一族総ての飢えに繋がる、例え家畜の数を減らし一時を凌いでも雪解けの後に必ずその付けはやってくる。それほどまでに冬越しの餌不足は深刻な問題だった。
最も手始めに絞められるのはロリ・アナがろくに面倒も見ず、徒に数を増やしていた羊達になったことは言うまでもない。それでも雪解けが十日ほど遅れれば致命的な被害になるのだが、こればかりは人の力でどうにか出来る訳もなく唯運を天に任せるばかりである。
流石のイルクーツクですら妻達の決定には逆らうことなく、ロリ・アナは城砦の中の子供部屋に閉じ込められている。これ以上厄介ごとを起こさせず、また忙しく働く者達の手を煩わせぬように。
 

意外と起伏に飛んでいる草原の小高い丘に登り振返れば、草原で唯一の建造物である城砦が見える。ただ雪をしのぐ為だけに作られた丸天幕の様な城砦は丸い大小が規則的に並んでいる。これから三月半から四月の間ひたすら雪をよけ城砦の中で過ごす。風の精霊達に冬篭りの挨拶のためと言うだけでなく、一日中でも文句を言い続ける姉から逃れるために、デイ・アナは愛馬と共に草原に出てきた。
霧のように細かい雨は穏やかな風に舞い上がり、草や馬の毛そしてデイ・アナの身に纏いつく。じっと見つめる目は父親と同じように鈍く光をたたえ、眼下に広がる城砦を見据えていた。男たちがそろって冬支度を終えると共に降り出した雨と共に、デイ・アナの中では嫌な予感が次第に形をとろうとしている。イルクーツクのあの言葉

「デイ・アナは何処に出しても恥ずかしくない娘だ。ラフリエルの国王もさぞかし喜んでくれる」

よくよく思い返してみればあの夜、必ずいる筈の男が父親の傍にいなかった。何時の間にか一族の中に溶け込んだ異邦の男アルブ・ザグエ、普段はあまりにも自然に草原の民として暮らしているせいかよそ者であることも忘れている。
その男の姿を城砦の中で全く見ていなかった事にデイ・アナは気が付いた。

「さて誰を使者にした者か・・」

父親が有言無言を問わず必ず実行を起こす人間だと、デイ・アナは長くもない人生経験から嫌というほど思い知らされている。イルクーツクの考えていることが自分の考えから導き出された答えと、さほど違いなど見られないだろう事にめまいがした。そして、精霊王自らが夢を通じて伝えた光景が何を示唆しているのか。
若き日のイルクーツク、西南諸国での過去、炎に焼かれる農民たちどれもが西を示していた。
父親の言葉とその懐刀の不在、それらもまた西を暗示させる。アルブ・ザグエは今頃ラフリエル王国を目指しているのだろうと、デイ・アナは思った。

デイ・アナにはロリ・アナ以外にも姉達がいた、デイ・サイの娘タワ・デイとエナ・デイ、サナ・エレの娘エリ・サナの三人である。しかし、その姉達はこの世にはいない。父親の決めた結婚に従い嫁いでいったのだがその嫁ぎ先ごとイルクーツクの軍勢によって滅ぼされ殺されたのだ。
わが子を二人まで失った母親はその夫を恨みながら突然の病で亡くなり、今一人の母親も娘の訃報を聞いた直後落馬事故により命を落としていた。
ザイナイルと、ダルクイルが父親に対して反抗的なのは強引かつ不自然な姉妹たちの死と悲しみの内に亡くなっていった母親たちの影響が大きい。
そして誰も口に上らせはしなかったが、デイ・アナは風の中から真実を知りえていた。三人の娘達だけではなくその母親達もイルクーツクの手によって命を奪われていたのだと。
イルクーツクにとって娘たちは己の敵を油断させるための駒にずぎず、死んだところで惜しいわけでもない。婚姻関係を結ぶことで味方に付くのか敵に回るかを見定める為であり、あくまでも反抗するなら滅ぼすだけの事である。
デイ・アナ自身次は自分の番だと知っていたが、その番がこれほど早く巡ってくるとは思いもしなかった。しかもその相手が、ラフリエル国王ではいくら父親の考えたことであろうと、無謀が過ぎると思った。いかにラフリエル国王が妻を亡くしたばかりとは言え全くの異民族であり、略奪と虐殺の限りを尽くしたイルクーツクの申し入れを受け入れることは考えられない。
おまけを言えばデイ・アナはまだ十二でしかないのだから、ラフリエルでは誰も真剣に聞き入れたりはしないだろう。
しかし、精霊王の伝えた夢からも西で何かが起きつつある事を伝えている。
デイ・アナは途方に暮れて呟いた。

「いったい私に何をお望みなのですか?風の御方・・・」

 

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