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登場人物紹介
【序章】

緑色の草が一面を覆う草原のただ中で、少女が佇んでいた。

風が少女の服に遊び、その裾を揺らしてゆく。

小さな彼女は、風に身を任せているように見えた。

おれそうに細い体を、強い風がなびかせる。

少女はその風に遊ばれながら微笑みをうかべ、

しかしその瞳に力を込め虚空に向かって顔を上げた。

高く細い旋律が、小さな唇から洩れて風がそれを巻き上げていく。

突然、風が遊ぶことを止め、少女の周りに渦を作る。

睫から、頬に向かって雫が落ち草の根本を濡らす。

風は緩やかに彼女を取り巻き、蒼穹のどこからか少女の高い声に
合わせるように新たな旋律が加わった。

しばらくの間、二つの旋律は重なり合い、追いかけ合いながら草原の
上を泳いでいく。

少女の頬が乾いた頃、二つの旋律は奏でることを終え風は強さを増してゆく。

そして一段と強い風が草の海を二つにわけ、少女の右手に一本の道を造りだした。

少女は空に向かい両手をさしのべると、まるで鳥が翼をはためかせるように
腕をおろし大地に額ずく。それから

「有り難う存じます、尊きお方」

初めて少女の口から漏れた声は子供の声ではなかった。

落ち着きと聡明さに裏打ちされた女性の声だった。

西に向かう、一筋の道を直と見つめながらゆっくりと身を起こすと、

彼女はそれに背を向け風に靡く草をかき分けるように歩き出し草の海に消えた。

風が低く唸りながら草を嬲っていく、まるで少女を引き留めたいとでも云うように。

しかし、少女は自らの足で進んでいった、決して振り向くことなく歩いていった。

 

この日を境に、風の声を聴く巫女は草原から姿を消した。

 

 

 

【一章】

 夕日は残照で草原を赤く染め、日没の風は冬の到来を告げるように冷たかった。最後の家畜を柵の中に追い込むとデイ・アナは馬上で小さくため息を付いた。これから城塞の中へ戻らなければならないと思うと、憂鬱を感じる。 冬が来て城塞に閉じこもる、毎年のことではあるが冬が来たことよりも、父親と同じ屋根の下で寝起きをしなければならない事の方が、デイ・アナにとって辛いことだった。もちろん、草原の冬は恐ろしい。元々草原には道がないから、道標もありはしない。
  吹雪の中で、迷ったりすればそれは死を意味すること。外にも草原で生きてゆく事は、たくさんの知恵が必要となる。だが、草原では必要な知恵も父親には通用しないと、デイ・アナはたった12年で悟った。

 デイ・アナの父親は、オー・タン国王と呼ばれている。
  国といっても出来てからまだ20年位しか経っていない。近在の部族を纏め、国を興したそれだけのことだ。しかし、デイ・アナの父王イルクーツクはそれだけで済ませるような男ではなかった。次から次へと余所の部族を併呑し逆らうものは容赦なく皆殺しにした。そうしてオー・タンは、大国と呼ばれるまでになった。「奸雄」とは正にイルクーツクの為にある言葉で、草原を取り巻く国々では、不気味な存在とされていた。何時、イルクーツクが草原を打って出るのか、手始めは何処の国が標的とされるのか。 その不安は的中し、オー・タン建国僅か15年で悪夢は現実となった。3年半で、南西における二つの国と三つの自由都市が滅ぼされた。平穏は破られ、乱世が始まろうとしていたが、南西諸国はラフリエルとオルバリスを筆頭に掲げて抵抗した。
  オー・タンの西進が始まって5年後、南西諸国連合と、オー・タンの間に休戦条約が結ばれた。イルクーツクにとっては不本意なことだったが、南西諸国連合にしてみれば取り敢えず、オー・タンの進撃を頓挫させたのだから喜ばしいことだった。 故にこの冬は父親の機嫌が余計に悪いと、デイ・アナにはため息を付くしかなった。 只でさえ、デイ・アナの姿を見るだけで機嫌が悪くなるのにそれ以上機嫌が悪くなられたら、どうすればいいのか見当も付かない。
  そもそもデイ・アナは物心着いたときから父親に嫌われていると感じて育った。  事実、イルクーツクはデイ・アナを嫌っていた。その訳がただ不器量だからでは、デイ・アナには何ともしようがない。更に、二親のどちらにも似てないことが余計にイルクーツクを苛立たせた。それこそ、デイ・アナのせいではないのに、不細工ではない父と美しい母から産まれた子供がこの程度かと、ことある毎に罵られた。どれ程罵られても、突然自分が美しくなったりはしない。そう答えれば余計にイルクーツクの怒りを買った。

  デイ・アナにとって不幸だったのは、将来母親よりも美しくなるだろうと言われる五つ違いの姉がいたことだ。姉が美しくとも妹までが美しく生まれるとは限らない、馬でも羊でも同じ親から生まれて同じ毛並みにはならない。美しい姉と違って顔つきから体つき、髪の色まで全てが違う。生き物として当然のことだとデイ・アナは知っていた。
  国王イルクーツクは弱いもの、惨めなもの、情けないものが嫌いだった。草原の奸雄は最も優れたものを好んだため、デイ・アナの姉ロリ・アナが美しかった分そうでなかったデイ・アナが腹立たしい。美しくなろうとする努力すらしない、その事がイルクーツクの気に障ることなのだが、その様なことは二次成長の始まらない子供に要求する事ではない。
  デイ・アナは同じ年の子供と比べてみても小さすぎた。しかし、理路整然と口答えをするデイ・アナにイルクーツクは自覚できない意識の奥で彼女をおそれていた。この幼い娘が誰よりも、父親たる己よりも優れた頭脳をも持っていると、それを認めたくはなかったからこそ自分の娘を悪し様に罵り続けるしかなかった。

  嫌だと思っていても、デイ・アナは城塞に戻らなければならない、日が沈めばとても外で過ごせるような温度ではなくなる。まだ子供のデイ・アナが一人で夜が明かせるほど冬の草原は優しくない。  デイ・アナは覚悟を決めると襟巻きで頭をしっかり包み直し手綱を持ち直すと、灯りがともり始めた城塞に向かって馬頭を巡らし歩き出すよう促した。城塞の壁に沿って歩き出せば、同じように家畜を作に追い込んだ男達が次々とデイ・アナの回りに集ってくる。部族の男達は仮にも王女であるのに家畜の世話だとか炊事ばかりをやらされているデイ・アナを不憫に思っていたが、同時に誇らしさも感じていた。デイ・アナは誰よりも草原の娘らしく子供達や家畜の面倒を見て、母親の手伝いをする孝行娘のようで好ましいと考えていた。
  国王イルクーツクには大勢の后とその子供達がいるが、デイ・アナを除いて誰一人として、自分達のような小物と気安く言葉を交わす王女はいなかった。草原の民として何一つまともに出来ない王女や王子達よりも、小さい体で毎日骨惜しまず働くデイ・アナが自分達と同じ様で嬉しかったからだろう。いつも男達は決まって同じ事を聴く。

「デイ・アナ様、明日のおてんとさんの塩梅はどうですか?」
 「あまり、良くないわ。たぶんお昼頃から雨になると思うけど?」

  デイ・アナは少し困ったように答える。男達は顔を見合わせやれやれと苦笑する。男達は知っていた、デイ・アナが決して自分達と同じではないと。例え自分達と同じように働いていても、このかわいくもなければ綺麗とも言えない王女がまさしく草原に選ばれた申し子だと言うことを。草原に選ばれたと云うことは、風に選ばれたと云うこと。そして風は駆けめぐり、一つ所に留まったりはしないものだと。
  かつて、デイ・アナの母がそうであったように彼女もまた草の海を巡る風の巫女である。イルクーツクは風の巫女を后としたが、それは巫女としての力よりもその美貌を欲しただけであり、風の巫女としての有用性を認めたからではない。 彼は、己の目に映らぬものを認めたりするような男ではなく、精霊達に払う敬意も持ち合わせてはいなかった。風の巫女アナ・イーは唯人となり巫女としての力を無くしたが、その力は娘デイ・アナに受け継がれた。風を読み天の具合を諮り、精霊達の声を届ける、大地の息吹を聴き、命の誕生に言祝ぎを贈る。例えイルクーツクがデイ・アナを認めなくとも草原も風も、そこに住む民も動物たちも彼女が新たな風の巫女であると解っていた。
 デイ・アナは気を取り直して男達に微笑むと

「さあ、早く戻りましょう。明日の雨は仕方のないことだけど、雪が降るにはまだ間があるわ。」
 「それもそうですな、天の具合は儂達ではどうにも出来ませんで。」

  男達の中で一番年かさの男が答えると、残りの者達も同意の声を上げ今日の夕餉は何が出るだろうと相談し始める。 デイ・アナはそんな男達を見つめながら、無い物ねだりと解っていても思わずにはいられない。彼らの一人が自分の父親であったのならと。 唯でさえ一日めいっぱい働いて疲れているのに、これから顔を合わせなければならない本当の父親により一層疲れがたまるようで、またため息を付く。両足の下で馬が鼻息荒く身を震わせ、せわしなく耳を動かした。デイ・アナは馬に元気を出せと言われたような気がした。

 

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