序 新たなる選定


恐怖は手の先から這い上ってくるようだった。
皺深い顔の中に刻まれた眼下は落ちくぼみ、ぽっかりと空いたその孔の中は何もない。
吸い込まれてゆく、奥底のしれない孔。在るべき物のない不気味な孔。
メリーナは、自分が悲鳴を上げていることにさえ気が付かなかった。それよりも、恐ろしい物が指先からじわじわと這う様の方が怖くて、熱くて冷たくて振り払うことも出来ない。
泣きたいのに顔はこわばり、助けを求めることもできず、誰も助けてくれないことが苦しかった。視線は、握りしめられた手首から動かせない。
唯のおじいさんだと思っていた。何処にでもいるおじいさんが突然怖い物に変わった。
何より恐ろしいのは、そのおじいさんには手がなかった。それなのに自分の手首はしっかりと握られている。
だまし絵のような錯覚は、メリーナには理解できなかった。老人の手は無かったのではなくて、闇に沈み見えないだけだった。だからといって、そんなことはメリーナの気休めにすらならない。
悲鳴は音のない声に変わった、メリーナの目はさらに開かれる。しっかりと握られたメリーナの両手が、指先から変わり始めた。肌色が灰色になり、爪の先から黒く変色してゆく。
そして黒から闇色へと、深い闇の色へと変わっていく、メリーナの髪の色よりも黒い闇色へ。
爪、指、掌、手首それから肘。まるで染料に漬けられた白無地のように、メリーナの肌が闇色に染め付けられていく。何かが、体の中に食い入ってくる。熱くて冷たい感触は、腕から先にも広がりメリーナの意識は朦朧としてきた。既に体中で同じように感じられ、このまま全てが染め変えられてゆくのかと思えた。おじいさんの口が動く、何かメリーナに話しかけているがもうその耳にはどんな音も届かなかった。
霞んでゆく意識と視界の中で、蠢くものが見える。闇よりもなお暗い輝きがメリーナに向かって話しかけてくる

 

──我が名を呼べ、我が声を聞け

 

声ならぬ声がそう聞こえた。
音にならない音がメリーナの頭の中でこだまする。響き渡る。
メリーナの幼い心は、もう耐えきれなかった。
老人に両の手首を取られたまま、メリーナの体から力は抜けていく。床に両膝を着き、細い首が頭を支えきれずにのけぞる。色を変えられた両手と同じ色の長い髪が広がりうねる、まるで最後の足掻きのように、そして力つきた。

 

──我が名を呼べ、我が声を聞け、我が力を纏え──
――我が最愛の巫女よ――

 

メリーナを圧倒した闇は、灼熱の暑さと極寒の冷たさを持って、密やかに囁き続ける。

 

             


present by nadesiko yasima