続 佐久間象山の生涯
象山41歳の春、藩の許可を得て一家を挙げ江戸に出て木挽町に住居を定める。
早速に「五月塾」を開いて象山書院で教えた朱子学や経書のほかに西洋直伝の砲術と兵学を教える。
この時名声を聞きつけ、入学を希望する者全国各藩から集い、門前市をなす盛況だったという。
この10月大砲の構造や砲丸の尺度重量等細かく図解した『砲学図編』という本を書き上げる。諸藩からの大砲製作の依頼を受け製作や試射実験などを行うも完成までには度々の失敗があった。
42歳の夏、藩公真田幸貫が亡くなる。象山の最大の理解者で大恩人、物心両面の支援者を失う。
この年の12月15日門人の幕臣旗本勝麟太郎(海舟)の妹順子を正室に迎え結婚する。
43歳、この頃よりペリーの黒船など度々日本に寄港し開国、開港を迫る。
※ 安政5年日米通商条約に調印、下田、函館、長崎、神戸、新潟を開港、翌年横浜を開港する。
象山は国家百年の大計に発し、これより5年も前から幕府に横浜開港を説いていた主唱者で、現在横浜の発展があるのは、象山の功績によるところが大きい。いまでも横浜には象山の碑が立っている。
44歳の春、門弟吉田松陰の密航を唆した罪で捕らえられ江戸伝馬町の牢に投獄される。半年の獄中生活の後判決が言い渡され、佐久間象山信州松代に蟄居、吉田松陰長州萩に蟄居を命じられ、それぞれ施錠付の籠で国元に護送された。 師弟久遠の別離となる。
44歳の秋、松代に謹慎蟄居となつた象山は、藩重役江戸詰家老望月主水の下屋敷(別荘)を借りて移り住む。屋敷は三千坪もあり広い庭の中央には池があり、居住の家屋は二階建で眺望がよく、北には飯綱・戸隠の山々、西には西岳など北アルプス連峰が一望できた。
この庭園を高義園、家を聚遠楼(しゅうえんろう・聚は集めるの意)と名付け、蟄居が許され上洛する日までの九年に亘る長い晩年をここで過した。高義亭は現存する唯一の建物て象山神社境内にある。
『省侃録』(せいけんろく・侃はあやまちの意*下に言)を執筆(獄中での所感や日ごろの考えをまとめた書)し子孫に自分の思想や考えを伝える為に書き残した。
"古より忠を懐きて罪せられる者何ぞ限らん。われ怨むことなし。"
この間、和漢洋の書物を読み科学の実験をしたり、『桜賦』を作る等詩歌を詠んだり、念願の文武学校が創設されたので非常勤講師をしたり、時には幕府に国政や国防等の意見書を上申したりしている。
訪ねる者も多く高杉晋作、久坂玄瑞、山縣半蔵、山岡慎太郎等来訪し教えを請う。
52歳の晦日29日、蟄居赦免となる。この年幕府は朝廷の趣旨に基づいて安政の大獄以来幕府に反し死刑、投獄幽閉中の多くの関係者の罪も赦し釈放した。
蟄居が解けた象山に朝廷や諸藩から仕官の声がかかったが実らず、孤独の中に一人馬を走らせ過す。
54歳の春14代将軍家茂より上洛の命が下り、象山一行16名は急ぎ「北国西往還」を通り京都に上る。上洛は、尊皇攘夷論者を排斥し京を守る職に就く為で、海陸御備向係手付御雇を仰せつかる。
京都警備の役に飽き足らず幕府と朝廷の間を取り持ち、天下国家の平安を守る為に奔走するが、松代を発って僅か4ヶ月、過激な尊皇攘夷派の一味によって三条木屋町の路上で襲撃を受け殺害された。
中心人物は肥後の河上彦斎と隠岐の松浦虎太郎と見られている。
※ 北国西往還を上るについては数々の逸話あり、信州浪人徳さんの故郷の話。 別項照覧
公武合体、朝廷優先、国論の統一の思想を持って、天下治平を急務とし東奔西走、尽力したが功ならず、明治の御代建設の尊い捨石となった。[天皇を中心に各藩がこれを支える体制にし、外に国を開く思想]
年 号 | 西暦 | 事 暦 |
文化 8年 | 1811 | 2月11日信州松代(現在長野市松代)にて出生 父一学56歳、母まん37歳 |
文政 8年 | 1825 | 元服 真田幸貫に謁す 象山15歳 |
9年 | 1826 | 松代藩の儒者鎌原桐山(江戸佐藤一斎に学ぶ)の塾に入門 |
11年 | 1828 | 家督を継ぐ 象山18歳 |
天保 3年 | 1832 | 父一学没77歳 象山22歳 |
4年 | 1833 | 江戸佐藤一斎の塾に文学修行の為入門 |
10年 | 1839 | 江戸お玉が池に象山書院を開く |
13年 | 1842 | 高島流砲術家江川太郎左衛門の塾に入門し砲術を学ぶ |
弘化 3年 | 1846 | 藩の命により信州松代に帰国し藩務に励む一方大砲を製作し実演する |
嘉永 2年 | 1849 | 電信実験に成功 |
4年 | 1851 | 藩から江戸居住を認められ木挽町に五月塾を開く 全家江戸に移り住む [ 門人・吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・坂本竜馬等多数 ] |
5年 | 1852 | 勝海舟の妹順子と結婚 象山42歳 |
6年 | 1853 | ペリー黒船浦賀に現れ、吉田松陰等とこれを視察。後日松陰渡航を試みるが失敗 |
安政元年 | 1854 | ペリー再び来航、幕府軍議役として横浜警備に当る。松陰渡航に再び失敗 |
同年 | 4.6 | 吉田松陰密航を唆した罪で伝馬町の牢に投獄の後、松代に蟄居謹慎 象山44歳 |
文久元年 | 1861 | 母まん没87歳 象山51歳 |
2年 | 1862 | 12月29日蟄居赦免になる。象山52歳 |
元治元年 | 1864 | 3月7日徳川将軍家茂より上洛の命を受け京都に上る。海軍御備向係に就く |
同年 | 7.11 | 三条木屋町にて皇国忠義士を名乗る攘夷論者らにより殺害される 象山54歳 |
同年 | 7.13 | 京都花園の妙心寺大法院(臨済宗妙心寺派の大本山)に葬られる |
同年 | 7.14 | 殺害後佐久間家は断絶した。松代藩は家の再興を認めず家禄、家屋敷没収 |
明治元年 | 1868 | 幕府より朝廷に大政が奉還され、天皇の王政復古の大号令が発せられる |
※ 3年 | 1870 | 御家再興がゆるされ、一子恪二朗(当時17歳)が当主となる |
※ 22年 | 1889 | 帝国憲法発布の日明治天皇は佐久間象山に正四位を贈る |
佐 久 間 象 山 年 譜