佐久間象山は、鎖国令により閉ざされた幕藩体制の中にあつた日本国を、世界に号する国にする為、天皇を中心として、諸藩がこれを守り、国論を統一して、他国の侵略に備えることの必要性を説き、早くから幕府や朝廷に意見を上申し続け、一井においては塾を開き、若者に、この思想を教え、身を賭して実現に東奔西走した日本開明の先覚者です。

佐久間象山 概説

信州松代藩の下級武士の子として生まれ、幼くして聡明、文武両道に優れ、末は藩の重鎮にと期待されるも"井の中の蛙"に飽き足らず江戸に出て学ぶ。
時の日本国は鎖国政策の中にあり、一部の貿易が許された国からの情報しかなかったが、進んで国外に眼を向け、諸外国からの遅れを知り、直ちに西洋の学問を学ぶ。
長く続いた大平の世も、漏れ聞く世界情勢を知るにつけ、幕府の内部や遠く離れた諸藩から徳川の鎖国政策と幕藩体制に批判が高まり、揺るぎをみせ始める。
世相は国体(幕藩体制)と海防(外交政策)を変えようとする長州、薩摩、土佐の若き藩士たちが続々と江戸や京都に上り幕府への批判が高まり始める。こんな時節、江戸に塾を開いて公武合体開国の思想を持ち、西洋の海防や技術を教える象山の下に多くの心ある若者が教えを請うて集まり、共に教え学ぶ。こんな時期が数年続いた。
この時期、突然米艦(黒船)が浦賀沖に現れ開国を強く迫る。幕府は動揺し狼狽する。
象山の教えを受ける門弟、向学の志に燃える若者吉田松陰が海外の実状を知るべく渡航を試みるが、いまだ鎖国政策をしいている幕府の役人によって捕らえられ投獄され、象山も吉田松陰の渡航をそそのかした罪で捕らえられ投獄される。心ならずも刑は重く生国信州松代に蟄居謹慎させられる。
蟄居生活実に九年、この間数々の国政に関する意見書や賦を作り、西洋の技術や医学を学び、且つ実験をし、訪れるものがあれば、教え学び意見の交換をし時世の流れを見ながら静かに過す。
時節も変わり徳川家も代替わりとなる頃、国政に力を持ち始めた朝廷の計らいで安政の大獄により罪人となっていた政治犯は罪を赦され投獄幽閉中の者も釈放され象山も蟄居赦免となった。
蟄居赦免となっても、象山は松代藩内では公職にも就けず、年令も53歳になろうとする老人の意見をまともに聴く者も、無くなっていた。

このころ幕府と朝廷との対立が激化
     
幕府に味方する佐幕派と朝廷を尊ぶ尊皇派(尊皇攘夷論者)は互いに反目し合っていた

この時(1864年象山54歳の春)突然、京都の治安を守る為、将軍家茂より上洛の命が下る。
14代将軍家茂(いえもち)は上洛して二条城に入り、尊皇攘夷派の長州勢と共に京を出た急進派の公家らに替わって京の都を治め、尊王攘夷論を唱え幕府に敵対する者どもの取締りを強化する為、上洛した象山に海陸御備向係を仰せ付けられた。
大望ある象山に取っては京都市中警備の役など不満であり、ひとり国体維持のために持論を持つて朝廷と幕府の間の橋渡しに東奔西走する。朝廷側は山階宮(やましなのみや)、幕府側は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)です。
持論[公武合体論]を持って説得し、山階宮には国論の統一による天下治平を急がせ公武合体を説き、一橋慶喜には国論の統一と朝廷優先を説き、諸藩の禄高に応じて朝廷に
献金させる。その一部を持って幕府が御所警備の充実を図れば諸藩と共に朝廷への忠勤を果たすことになると説いて廻る。
時局いよいよ険悪となり、長州藩士ら尊皇攘夷者が続々と京に上ってくるにつけ、天皇の安泰と京都を兵火から救うため、御座所を一時彦根城に移すよう策したが、すんでの処で実らなかった。
 山階宮は現在の孝明天皇の御養子、皇族の一人として朝政に参与
 一橋慶喜は将軍家茂の後見、御所守衛総督の任にあり後の15代将軍

公武合体論の趣旨
 「 この内外多事多端の折、同胞相食むような争いは国家の前途を誤る源となる国論を統一して挙国一致の体制を固めることが第一要件であり情実に囚われることなく、朝廷に対しては攘夷の方針を改め開国進取の道を勧め、幕府に対しては朝廷中心の統一した政体を確立する。」

こうして寸暇を惜しんで走り回っている最中に、志し半ばにして、三条木屋町の路上で尊皇攘夷派の一味と思われる暴漢らに襲われ殺害された。

佐久間象山が暗殺されてから、僅か4年後15代将軍慶喜(旧姓一橋)は、『大政奉還』政権を朝廷に返して王政復古の大号令が発せられ幕藩体制や摂関制度化廃止され、新しい時代近代日本の第一歩が踏み出された。

 新政府と成った明治22年帝国憲法発布の日、明治天皇から正四位を賜る。

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