信州松代が生んだ幕末の明星日本開明の大先覚者であり
国家の前途を憂慮し該博なる知識と高邁なる見識を以っ
て日本の行くべき道を明示し孤軍奮闘進んで国難に赴き
遂に凶刃に斃れた幕末希代の英傑である。
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佐久間象山(ぞうざん)は、信州松代藩の下級武士の家に生まれる。
幼少の頃より英知に優れ3歳にして字を書く等天才児と呼ばれる。
少年時代は腕白者で「妻女山から槍がふる。佐久間の家から石が飛ぶ」と言って騒がれるほど負けず嫌いの気性で喧嘩も強かった。
ある日家老の息子と挨拶をした、しないで大喧嘩となり、父一学に「礼 儀」について諭され、人の道「道徳」を学ぶ為に三年間の謹慎を約束させられる。
これより三年の間、聡明な象山は父の命に従い「心機一転」外出もせず朝夕机に向かい詩文や経書の勉学に励んだ。
15歳の春元服し佐久間一学の嫡子として公式に認められ、松代藩主『真田幸貫』に拝謁を賜る。
藩の儒者鎌原桐山の塾に入門し本格的に詩文、経書の勉学をはじめ刻苦勉励し成績も大いに上がり、20歳の時に学業勉励の廉によって藩の表彰を受け銀三枚を賜る。
21歳にして藩主の世子幸良の近習役に抜擢されるも、これを辞退し遊学を希望する。
36歳の初夏(弘化3年5月)松代に帰り伊勢町の御使者屋の一部を借りて仮寓する。これは、藩から郡中横目付役を仰せ付けられ藩務遂行の為に松代に返るよう、度々督促が来ていたが二年余りも引き延ばし相変わらず蘭学の勉強に没頭していた、堪えられず遂に帰藩を決心しお玉が池の塾を閉じて帰国する。
このとき藩内三ヶ村(志賀高原一帯の山地を含む沓野、湯田中、佐野村)の利用係を仰せ付けられ殖産振興、資源開発等の業務を担当しており、江戸から帰る際、数等の豚を運んで養豚を勧め自らも養育したといわれ朝鮮人参、甘草等の薬草の栽培法や植林、石灰、ぶどう酒等の製法を教え、各地を踏査し温泉や鉱脈など発見している。
41歳までは松代にあり藩務の傍ら、大砲を造って実演したり、鐘楼で電信実験をしたり、翻訳辞書を出版したり、現実の海防に意見書を出したりして東奔西走大忙な日々を送っている。
※ 『善光寺大地震』1847.3.24pm10:00M7.4 全壊家屋35,000死者12,000犀川の決壊(鉄砲水)死者2,800
41歳の春、藩から江戸居住を認められ一家を挙げて江戸木挽町五丁目に居住を定める。
江戸に出た佐久間象山は五月塾を開き、新しい時代を拓く若者に学問を授ける。
教育思想
とうようどうとく せいようげいじゅつ そそうのこさず ひょうりけんかい
東洋道徳、西洋芸術、精粗遺さず、表裏兼該
よりてもってみんぶつをうるおし こくおんにむくいん
因りて以って民物を沢し、国恩に報いん
東洋の精神文化や儒学、西洋の物質文明や科学などの両方を兼ね備えてこそ完全な力となって国力や国民生活を潤おすことが出来る。
佐久間象山の五月塾で学んだ著名な門下生
吉田寅次郎(松陰)・小林虎三郎・勝麟太郎(海舟)・坂本竜馬・橋本左内
武田斐三郎・河井継之助・山本覚馬・加藤弘之
五月塾への来訪者 西郷隆盛
高義亭への来訪者 中岡新太郎
弟子の吉田松陰の松下村塾で学んだ著名な門下生
伊藤博文・高杉晋作・山縣(半蔵)有朋・久坂玄瑞
幕末の動乱期から明治維新にかけて、各層各界で活躍した人たちです。
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