天狗の磨ぎ汁
白水鉱泉由来
大分県由布市(庄内町)
九重高原は、筑後川と大分川の水源を背中合わせに持つところ。黒岳(むかしは黒嶽と書いた)の麓には、文字通り汚れを知らない清水がコンコンと湧き出ている。
原生林が保存される麓の男池公園から、紅葉真っ盛りのトンネルを東に進むと、「白水鉱泉」と書かれた看板が見えてくる。そこには、ポリバケツを持ち込んだ人で溢れていた。写真は、黒岳
水場を見張るおじさん曰く、「ここの水はな、全国名水百選に入っちょる男池湧水群の中の白水鉱泉ち言うんじゃ」だと。「なるほど、それで流れる水が白いんですな?」と、真顔で問うと、「そうじゃねえ、あれは川底を白う塗っとるから白ろう見ゆるだけたい。本当は無色透明なんじゃ、飲んでみい、ラムネの味がするけん」と、素っ気無く教えてくれる。
「ほんじゃ、なしてここん水ば、白水鉱泉ち言うとですか?」と食い下がったら、おじさん、待ってましたとばかりにそもそもを語りだした。写真は、男池から見上げる黒岳
鉱泉:鉱物質またはガスを多量に含む泉。単純泉・塩類泉・酸性泉・硫黄泉などがある。本編の水は、「天然炭酸水」だって。
猟師が山で迷った
「むかしむかし」と言うから、仮に1000年も前の話ということにしておこうか。
阿蘇野(庄内町の字名)に住む猟師の岩吉。今日も愛犬のシロを連れて、黒嶽の山中で獲物を追いかけている。紅葉もそろそろ散り始めて、湧き出る水が温かく感じる時節だ。
どうしたことか、この日ばかりはウサギも鳥もいっこうに現れない。シロも退屈そうにあっちウロウロこっちウロウロしているばかり。その内に、釣瓶落としの日が落ちて、あたりが真っ暗になった。黒嶽を我が庭と思って走り回ってきた岩吉のこと、普段なら帰り道を心配することもないのだが…。
写真は、男池の源泉
大木の隙間から見える黒嶽が、鶏冠を怒らせた怪鳥に見え、身震いが止まらなくなった。
「ワンワン・・・」、突然シロが吠え出した。森の向こうに灯りが見える。人家だ。
「もーし、どなたか?」
粗末な茅葺の軒下で呼ぶと、年齢の頃なら60にはなりそうな白髪の爺さんが姿を見せた。
天狗と山姥が餅を搗く
「泊るのはいっこうに構わんがの。今晩は大切な客人がくるで、何のもてなしもできんぞ」と気の毒そうに言った。
「屋根の下に寝せてもらうだけでよかですけん…」ということで、泊めてもらうことになった。シロは軒下に繋いだ。
「いくらなんでも、なんにも食わせんちいうわけにもいかんじゃろう。これば食っとけ」と、爺さんはどんぐりをひとまわりり大きくしたようなまん丸の木の実を一つさしだした。
「ありがたかことで…」と礼を言う。
「今晩の客は、人に見られるのをとても嫌うお方じゃ。話し声が聞こえても、絶対に覗き見しちゃでけんぞ」と、爺さんが念を押した。
木の実1個で腹が太るとも思わないが、食わないよりましだろうと、噛まずに呑んだ。
「ポッタン、ポッタン」、杵の音と、人の声で目が覚めた岩吉。爺さんの言いつけも忘れて、障子の破れ目から台所を覗いてびっくり。
真っ赤な顔に人の何倍もあるすごい鼻の天狗が、汗をたらたら流しながら杵を振り下ろしている。大きな臼を挟んで、白い襦袢姿の老女が餅をこねていた。振り乱す白髪の隙間から見える顔は、口が耳まで裂け、皺だらけの皮膚が目を覆っている。いつか祖母ちゃんに聞いたことのある、山姥だ。
1年間眠って帰り道わからず
どのくらい眠ったものやら、鶏の鳴き声で目が覚めた。「天狗も山姥もみんな夢だったんだ」と思いながら、起きだした。「よく眠っていたな」と、爺さんがニコニコ顔で朝飯を運んできた。
帰ろうとして軒先のシロを捜すがどこにもいない。
「ほら、そこに白骨があるじゃろ。それがおぬしのイヌコロの屍骸じゃ」
「どうしてまた、俺の大切なイヌば殺した」
めらめらと湧き上がる怒りを爺さんに向けた。
「なんば寝惚けとるか。おまえは1年間も眠っとったんだぞ。1年間何も食わなきゃ、イヌコロだって生きてはおられまいよ」
「そんでも、俺は生きちょるが・・・」
「お前は、木の実を食ったじゃなかか。あの実は黒嶽の岩場に1本だけ生えちょる特別な檪の実じゃわい。あれを1個食えば、1年間生きられるけん」
聞いている岩吉の頭の方がおかしくなりかけた。写真は、白水鉱泉のある宿
「寝る前に、大切な客人が来ると言っていたが・・・?」
「ああ、あのお方なら昨夜も来た。黒嶽の秩序を守るための掟をつくる婆さんじゃ。年齢は300歳、つまり、これまでに檪の実ば餅に擦りこんで300個食べなさったからじゃ」
家では己の1周忌
昨夜の餅搗きは夢ではなかった。となれば、目の前の爺さんの本性はやっぱり・・・。
「帰らせてもらいますが、俺の家の方向がさっぱりわからん」
太陽が昇る方が東で沈む方が西のはず。だが、朝起きたときに見えたお天道さんは真上にあったのに、今は東の花牟礼山に沈もうとしている。シロでもいれば匂いで帰り道を知らせてくれるだろうに」
「心配はいらん。黒嶽からおぬしの家のある阿蘇野に出るまで、白い印をつけておいた。それから…」
爺さんは、彼方の白い線を指差しながら妙なことを言った。
「こん白か筋からは、万病に効く水が湧き出ることになっちょるけん。これがおぬしへのせめてもの餞別たい」
「そげなありがたい白かもんとはいったい何?」
「餅米の磨ぎ汁じゃ。そん中には檪の成分も入っちょるけん、人間の体にもよかこつがある」
米の磨ぎ汁を頼りに、ようやく我が家にたどり着くと、中では坊さんのお経の真っ最中。
「何事ですな?」
見知らぬ女に訊くと、「跡取りの岩吉さんちいう人が亡くなって、1周忌の法要じゃが」と。
「それで、あんたは?」
「はい、半年前に隣に嫁にきたもんです」(完)
無色透明の炭酸水が、実は天狗が流した米の磨ぎ汁がにじみ出たものと聞かされても、なかなか理解しにくい。「伝説」とはそんなものだ。特に、1970年まではこの地へ車で行くことすらできない秘境だったと聞けば、尚更のこと。
大正5年に、佐藤定平という人が、初めて飲用水としての許可を得たという。その頃は、牛車とか馬車で湯布院駅まで運んで商売にしていたらしい。丁寧な説明書きと、効能を知れば放っておけないのが我が連れ合い。早速ポリバケツを求めて愛車に積み込みなさった。
効用:便秘・糖尿病・アトピー・皮膚病・胃痛食欲不振などなど
いろいろな伝説を持つ黒岳とその麓の男池は、お邪魔したときが丁度紅葉の見頃だった。尽きることのない湧き水を掬って口にする。これで何年か長生きできるような気がした。
この日は、並み居る久住連山を1周して、山の雄雄しさや麓の原始林、それに放牧風景などを堪能してきた。お陰でうっかり、伝説紀行の取材を忘れるところだった。
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