佐賀市(富士町)
古湯温泉から嘉瀬川に沿って国道323号を北上していくと、前方にテレビ塔の林立する山が見えてくる。福岡県前原市と旧富士町の境に建つ羽金山(900b)だ。国道を左折して林道に入った。道の両側には、人の背丈を遥かに超す岩が無数に転がっている。「羽金山巨石群」と呼ぶ。
「浮岳羽金山線」と刻んだ記念石碑のすぐ脇には、ここは「黄金秘境、羽金山埋蔵金伝説の地」であることを知らせる札が立っていた。「霞ヶ関埋蔵金」が騒がれているこの時期、こちらの埋蔵金とは?
折り重なる巨石の群れを、目を凝らして進んでいく。ふと我れに返り、己の腹の皮も欲という字で突っ張っていることに気付き、思わず身震いした。
道なき道にやってきた
時は元禄年間の初め頃というから、今から300年以上もむかしのこと。上無津呂村(かみむつろむら)から羽金山に向かう道なき道を、眼の鋭い小男が登ってきた。写真は、林道から垣間見る羽金山
「ズドーン」、すぐ傍で激しい鉄砲の音が響き、男は尻餅をついた。
「すまねえ、すまねえ。まさかこんなところに人がいようとは考えてもいなかったでな。命中しなくてよかった」
笹薮から顔を出したのは、一目して猟師とわかる毛むじゃらの男だった。手には火縄銃を持っている。
「俺は山向こうの博多から来た半太郎という者だ。見たところお前はこの山中のことに詳しいようだが・・・」
「それはもう…。ガキの頃から鹿とかウサギとか追いかけてばかりで、山の主みてえなもんさ。俺の名前は無津呂の友蔵って言うんだ」
意気投合したところで半太郎、「ここで会ったも何かの縁だ。一つ俺の仕事を手伝ってくれないか」と切り出した。
消えた10万両
「仕事とは・・・
家に伝わる絵図面には、莫大な財宝の隠し場所が描かれていると、半太郎。そこが羽金山だと睨んだ根拠は、50年前の島原の乱にあった。 (下記「島原の乱」参照)
福岡藩からも2万人の兵が、島原半島へ向かった。山を越えて肥前に入り、2日間で島原に着くという強行日程であった。長い隊列が国境の長野峠を越えて間もなく、野盗に襲われた。暗闇から飛び出した盗賊は、他には目もくれずに隊列中央の軍用金を狙った。人的被害は皆無で、金目だけ10万両が持ち去られた。千両箱にして100個分だから、その価値たるや莫大である。
「絵図面と島原の一揆とどう関わりがあるって言うんだい?」
写真は、島原の乱の舞台となった原城址
財宝10万両と聞いて、欲の皮が突っ張りだした友蔵が訊いた。半太郎が懐から取り出した絵図には、三角(△)印の下の方にいくつもの丸(○)印が描かれている。
△印は、まさしく羽金山である。そして、いくつもの○印は、おそらく一帯に散らばる巨石群であろう。半太郎は、○印の一つを指して、そこまで案内してくれと頼んだ。
島原の乱
1637(寛永14年)〜38年 江戸前期のキリシタンを中心とした農民の反乱。肥前国島原領主松倉重政や肥後国天草領主寺沢氏の圧制と、幕府のキリシタン弾圧に反抗した農民は、天草四郎時貞を首領として旧藩主小西・有馬氏の浪人の指導のもとに、島原半島の原城に立て籠もって反乱。幕府軍の板倉重政は戦死、翌38年には松平信綱に鎮定された。
乱後、禁教はますます強化され、鎖国令の原因ともなった。(数研出版 日本史事典) |
埋蔵金にもからくりが
友蔵が、先に立ってさっさと歩き出した。
「お前が他人とは思えないから言うんだが・・・」
険しい山道を歩きながら、半太郎がとんでもないことを言い出した。
「実は、俺の祖父さんは島原の乱時に、福岡藩の兵糧部隊長だったんだ。部隊が出立する前の晩、街のやくざに、福岡藩の隊列を襲えと言いつけたんだ」
「長野峠の野盗ってのは、あんたの祖父さんが手引きした手下だったってわけかい。道理で、激しい斬りあいがあったって話も聞かないはずだ」
「島原での騒ぎはすぐに治まったが、祖父さんもすぐには動けねえ。ぐずぐずしているうちに、流行り病であの世に旅たってしもうた。あれから50年経って、祖父さんが残していった図面が、俺を埋蔵金探しに駆り立てたってわけだ」
聞きながら、友蔵が大きくため息をついた。
「あんたの祖父さんてのは、心からの悪だったんだ」
悪の悪口言う奴も
見晴らしのよい絶壁の場所に出て、断崖を背にした友蔵が半太郎に鉄砲を向けた。
「図面のどの○印が、お宝の隠し場所なんだい?それさえ教えてくれれば、命だけは援けてやるが」
突然変心した友蔵に戸惑い、後ずさりしながら半太郎が答えた。
「そ、それは・・・、その、も・・・」
言いかけたところで、火縄銃が火を噴いた。半太郎の小さな体は軽石のように崖下に転がっていった。
もか、もみじの印なら、確かに描いてある。そうだ、このもみじ印が財宝の隠し場所なんだ。
「俺も長者になれる!」、独り言を繰り返しながら、友蔵はもみじ印の巨石群にたどり着き、大小何百もの岩をつぶさに調べて回った。体の5倍も10倍もありそうな岩の隙間に潜ったり、横から手を差し込んでみたりする。10日、20日と日が経っても、お宝らしいものには出食わさない。体は痩せこけ、目玉も窪みの中に落ち込んでしまった。写真は、巨石公園の散策路
改めて図面を開いてみて愕然とした。岩の上に記されたもみじの模様は、よく見ると、図面に水が滲んでできたものだったのだ。
「騙されないぞ、お宝は絶対にここにある」
友蔵が、ふらつく足で向こうの岩に渡ろうとした瞬間その瞬間。
地元の猟師が、谷間に横たわる白骨体を見つけたのは、それから数年も経ってからであった。骨の傍には弾の詰まった鉄砲が一丁置かれてあった。(完)
「埋蔵金伝説の地」には、3度目にしてようやくたどり着いた。というのも、昨年秋の嵐で大規模な土砂崩れが起き、林道が塞がれてしまっていたからだ。もう大丈夫だろうと出かけた2度目もまだ修復されていなかった。今度もかと、半分諦め心で出かけた。旧七山村(佐賀県唐津市)の方から林道に入った。
人や車に出あうことはまずない。道端にはきれいな山百合が咲き誇っていた。下界ではとっくに終っているネムの花が、今を盛りと咲いていた。道路の真ん中に人の頭ほどもある石が転がっているのには肝を冷やされる。写真は、林道の土砂崩れ現場
「埋蔵金伝説の地」は、「羽金山巨石群」と同じ場所。巨石といっても形はいろいろ。そこで昔の人は薙刀石、畳石、戸棚石、燕石などとそれらしい名前をつけて見分けたらしい。
なるほど、人に見られたくない財宝を隠すには、絶好の環境だ。いかなる怪力者でも、何トンもある石を簡単に動かすことはできまい。下手をすると友蔵みたいに死の谷へまっ逆さまだ。それに適度の温度と湿気が保管物を腐敗から守ってくれる。
400年もむかしには、林道はおろか絶対に人を寄せ付けない樹林の中にあったはず。財宝を隠せば、よほど正確な地図でもない限り、2度と人目に触れることはなかったろう。
さて、福岡藩の隊列から消えた10万両は、その後どなたかの手に渡ったものやら、確かな情報は知らない。もし未だに羽金山巨石群のどこかに、今も眠っているとすれば・・・。
取材に訪れた時も、青年が2人、キャンプスタイルであちこち見渡しながら散策していた。
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