伝説紀行 永田ヶ里の長者原 佐賀県吉野ヶ里町 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第337話 2008年07月20日版

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。
永田ヶ里の長者
続満腹長者


第20話 満腹長者

佐賀県吉野ヶ里町
(旧東脊振村)


永田ヶ里の長者原

 環濠遺跡で全国的に名を馳せる吉野ヶ里公園のすぐ北側に、「永田ヶ里(ながたがり)」という集落がある。集落の一角の高台を、土地の人は「中ノ原の長者原(なかのはるのちょうじゃばる)」と呼んできた。長者屋敷の跡という意味らしい。
 よくよく検証すると、第20話「筑後川の龍王・満腹長者」と、物語が関連していることがわかる。

幸運の手箱を貰って

 時は江戸時代の中期。
 永田ヶ里(ながたがり)村の中ノ原で暮らす茂七夫婦は、喜寿を迎えた母親とともに、貧乏ながらも穏やかに暮らしていた。村の衆は茂七のことを、よく働くなかなかの親孝行者だと褒め称えた。
 質素をモットーとする茂七にも、たった一つだけ贅沢な望みがあった。それは、家に覆いかぶさる雑木林を切り拓いて家を明るくし、母親に快適な暮らしをしてもらうことだった。
「ところであんた。昨日どこかで貰うてきた桐の箱のことばってん。ありゃどげんしたと?」

 昼時、女房のお種が、昨日持ち帰った手箱のことを問い質した。
「ああ、あれね。高良さん参りの帰り道、筑後川の土堤で見知らぬ女の人に、子蛇ば援けた礼にち。この箱は、幸運をもたらす手箱げな。ばってん…」写真は、田手川から望む背振山地
「ばってん、何ね?」
「箱の中は絶対に見ちゃいかんち」
 話はそこで途切れた。貰った桐の箱は神棚に置いたままで、夫婦の記憶からも遠ざかっていった。

たちまち大富豪に

 田手川(たでがわ)岸辺が菜の花でまっ黄色に染まり、雲雀(ひばり)が天高くピーチクパーチク(さえず)る季節、茂七は再び高良さん(高良神社)参りに出かけた。拝殿では、「いつもの年の2倍も米や麦が獲れました。どうしてでっしょか?不思議でしょうがなかですよ、神さま」と、話しかけた。

「それはですね…」
 拝み終わって参道の石段を下り始めたとき、1年前に桐の箱をくれたあの美しい女性に声をかけられた。
「先ほど貴方は、2倍もの豊作になったわけを神さまに尋ねていましたね。それは、去年私が差し上げた手箱が、貴方に幸運をもたらせたのです」だって。写真は、高良山参道の石段
「貴女は?」と尋ねると、「高良の神さまの遣いです」と言ったきり、姿を消した。
 それからというもの、茂七には、自分でも信じられないほど良いことが続いた。倍々ゲームで豊作が続き、気がつけば、吉野ヶ里から背振山脈の麓までのすべてが自分の土地になっていた。必然、使用人も10人から100人、1000人と大所帯化していった。そして、中ノ原の広大な敷地には豪華な家が建ち、金蔵が何棟も軒を連ねた。
「ほんなこつ、御殿のごたる」
「さすが、中ノ原の長者さまたいね」
 茂七は、村人の羨望の的になった。そうなると、あれほど質素で働き者だった茂七の態度も一変した。
「もっと、もっと働け!」
 長者気分になりきった茂七は、数えきれないほどに増えた使用人を怒鳴りつけては働かせた。

欲張った末に

「お母しゃんは、どげんしよるか?久しゅう顔ば見とらんが…」
 取り入れもすんで、使用人らを(はべ)らしての酒宴の最中であった。茂七は母親のことをお種に訊いた。
「何ば言いよるですか。半年も前に死なしゃったでっしょが。お母しゃんは、死ぬ間際に、あんたに何か言いたかこつがあるち言うとられたばってん…」
「そげなこつはどげんでんよか。ところで…」
 茂七は、神棚の奥にしまっていた桐の手箱を持ってくるよう、お種に言いつけた。
「こいば、どげんすっとですか?」
 不吉な予感を抑えきれずにお種が訊いた。
「本当の長者ちいうもんは、こんくらい儲けたからちいうて満足しちゃならん。肥前国の田畑ば全部自分のもんにせにゃならんとたい。そこで、こん手箱の中にあとどんくらいの【福】が残っとるもんか…」
「何ば言いよるですか、あんた。あの箱はけっして覗いちゃいかんち言われとるとでっしょが」 
 かまわず手箱を奪い取った茂七が、強引に蓋を開けた。その時、天は掻き曇り、四方八方から稲光が中ノ原の長者屋敷に襲いかかった。

神さまはお見通し

「あん頃はよかったない、お種」
 最近の茂七の口癖である。カミナリに撃たれて屋敷は灰になり、見渡す限りの田畑も、あっと言う間に人手に渡ってしまった。1文無しになった夫婦は、長者原の屋敷を追われ、田手川岸にみすぼらしい小屋を建てて侘しく暮らしている。
写真は、吉野ヶ里遺跡

「ところでお種、いつかお母しゃんが俺に言いたかこつがあったち言うとったが、あれはどげなこつな?」
 絶頂期には気にもしなかった亡き母親の言葉が、今更ながら気になっていた。
「お母しゃんな、あんたが長者になってからも、1日も欠かさんで下のほうの田手神社にお参りしよりなさった。あんたが高良さんに参らんごつなった分まで代わって拝みなさった。ある日の帰り道、吉野ヶ里の川のそばで女の人に呼び止められなさったげな。茂七の運はここまでち。これ以上田畑を欲しがると、その日のうちに元の貧乏に戻るち、女の人が宣告しなさったそうな」
 黙って聞いていた茂七が、ぼそっと一言、「手箱の中を覗くなちは、俺に、欲もほどほどにしておけち言うとられたつばいね、高良の神さまは」
(完)

 福岡市内から「長者屋敷跡」の永田ヶ里までは、東脊振トンネルを抜けるとすぐである。「私が若い頃まで、このあたりはキツネやタヌキが棲む淋しいところでした」と、長者原に住む中島さん。
 長者原には、屋敷の礎石が残っているのではと話を向けると、「確かにそれらしい石はありましたが、住宅建築の工事の際、ブルドーザーが掘り起こしてしもうて、今では…」それらしいものはなくなったのだと。さらに、「長者が宝物を埋めた場所には、目印に白い椿を植えたと言われていて、それを信じた人が白い椿の木を探し回ったという話も聞いていましたが…」
「ところで…」、帰り際に中島さん。「このあたりには
【里】のつく地名が多いのに気がつきませんか?」と。
 なるほど、あの有名な吉野ヶ里をはじめ、石井ヶ里、南里ヶ里、曽根ヶ里、野目ヶ里など次々に「里」のつく地名が飛び込んでくる。北方に屏風のように並ぶ背振の山々、そして南には、豊富な水を蓄えながら、身をくねらせるようにして伸びる筑後川。吉野ヶ里は、人が住む最高の条件を兼ね備えた場所に発展したのだと、つくずく感じさせられた。

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