伝説紀行 正子姫の墓 福岡県矢部村 古賀 勝作


http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/

作:古賀 勝

第333話 2008年04月20日版

   プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です
             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

正子姫の墓

福岡県矢部村


竹林の中の正子姫の墓

 2004年に発行された「矢部村誌」に、大変興味をそそられる記述があった。それは、田出尾(たでお)地区に住む小関ミツヨさんが、お祖母さんから聞いた話として紹介されている。
 宝暦年間(1751〜64)、先祖が公家の姫さまを嫁にしてこちらに住まわせた話だ。姫の名前は「正子」といい、結婚して2年目に突然の腹痛を起し、18歳の若さで他界した。それからというもの、この地方では消化器系の病気で亡くなる人が絶えなかったという。姫のお墓は現在も残っているとのこと。
 250年前に、都からやってきた姫の真相を知りたくて、矢部川を遡っていった。千本桜が咲き誇る日向神(ひゅうがみ)ダム(矢部村)を横目に、たどり着いた田出尾(たでお)の里。そこは、三国山(豊後・肥後・筑後の境)あたりを水源として、有明海に注ぐ矢部川の源流域であった。
 田出尾川を挟んで点在する民家のほとんどが「栗原」姓。小関ミツヨさんは留守だったが、運良くミツヨさんの弟さんに正子姫の墓まで案内してもらうことができた。

竹林の中の観音さま

 民家が途切れるあたりから更に小山を登って竹藪の中に。木漏れ日がわずかに差し込む孟宗竹林を、小枝をかき分けながら進む。「ボコボコ穴があいとるのは、猪が筍を掘って食った痕です」と説明してくれる弟さん。今にも獰猛(どうもう)な猪が牙をむいて襲いかかってきそうな恐怖にかられる。
「これが、お尋ねの墓です」と指をさされた先に、観音石像を載せた墓石が。台座には、「釋尼妙正信女」と戒名が彫られ、「宝暦十三年夭五月五日」と没年月日まではっきりと見える。若くしてあちらの世界に去った(夭)、地下に眠る正子姫とはどのような女性だったのか。期待で胸が高鳴った。

公家の姫君を嫁に

 宝暦年間、田出尾の里に住む栗原喜寿郎は、生来好奇心と探究心が旺盛な青年であった。山や川ばかりの山中に埋もらせるには、もったいないくらいに出来が良すぎる息子だと父親は考えていた。喜寿郎が20歳になったのを機会に、「都に出て、世の中を学んで来い」と言い渡した。
 京の都に出た喜寿郎は、伝手(つて)を頼りに公家奉公に上がった。邸内や庭の掃除などを務めながら、主人の言動のすべてを吸収すべく気持ちを集中した日々を送った。
 上京してから5年たった頃、主人から、「喜寿郎よ、そなたの働きぶりと勉学に対する努力を大いに評価する。近々故郷に帰って、世のために働け」と告げられた。いよいよ、都を後にする日が迫って、喜寿郎は再び主人に呼ばれ、予想だにしないお言葉を受ける。


田出尾地区の民家

「故郷へのみやげに、娘の正子をつかわそう」だって。日頃は雲上人だった姫君が、田舎者の自分の妻になる、夢ではないかと何度も頬をつねってみたほどだった。

腹痛がもとで…

 喜寿郎が、正子姫を伴って矢部の村に帰ってきた。その時新郎が24歳、新婦は16歳だった。喜寿郎は、妻の美貌と気品に酔いながら、村の子供たちに武芸と読み書きを教える平和な暮らしを送っていた。そのうちに、正子姫が元気な男の子を生み落とした。喜寿郎は秀丸と名づけた。


里を見下ろす正子姫墓からの眺望


 そんな幸せな日々は永くは続かず、正子姫はちょっとした腹痛がもとで、あっと言う間にこの世を去ってしまった。18歳という若過ぎる命の果てであった。都人にとって、山野で採取する食材が無理だったのかと悔んでみても、後の祭りであった。
 喜寿郎は、正子姫の亡骸を田出尾の(さと)が一望できる高台に埋葬した。姫が亡くなって、田出尾では、腹痛を訴える病気が蔓延するようになった。
「若くして世を去った姫の無念がなす災いなのか」と、気味悪がる者も多かったという。それからというもの、栗原家では正子姫の命日には墓参を欠かさなかった。

墓の主はなに想う

「代々の遺骨を新しくできた納骨堂に移すまでは、ここには竹藪はなく、見晴らしのよか墓地でした」
 観音さまに守られて地下に眠る正子姫は、あれから250年たった今何を想っているのか。遠い都への郷愁なのか、それとも荒波を生き抜く子孫を愛でる気持ちだろうか。
 山間部で聞く都人との関わりは、なにやら童話の世界に迷い込んだような、不思議な気持ちを持たせてくれる。
 さて、正子姫についてだが。ここ田出尾の郷では、他地から嫁をとることが非常に珍しい時代であったに違いない。それ故か、この地方では「栗原」という姓ばかりが目につく。
 村誌に紹介された小関ミツヨさんも、実は嫁入り前の姓が「栗原」であったし、もちろん案内してくれたミツヨさんの弟さんも「栗原」である。(完)

 東京での勤務期にお世話になった児童文学者の故栗原一登先生は、ここ矢部村の出身だった。先生はご存知の美人女優・栗原小巻さんのお父上である。案内してくれた栗原さんに「先生のご親戚ですか?」と尋ねたら、「この村は栗原姓ばかりですから」と一蹴された。
 お話しの矢部村は、大分県との県境に位置する人口1600人の典型的な山村だ。正子姫伝説は、古き時代に山郷(やまざと)で暮らす人々の、川下や都人への憧憬が下敷きにあるような気がする。交通手段もままならない時代には、旅人などから聞く情報がすべてだったに違いない。華やかな都を想像し、自らを別世界の人間に置き換えて夢を膨らませたのではあるまいか。


田出尾川下の日向神ダム

 西暦2008年の今日、福岡から矢部の田出尾まで、車で1時間半もあれば行き着く。道路だけではなく、通信や運搬手段も整備された。小学校や中学校も立派な校舎が目を惹く。都会と何の違いもないように思えるのだが…。
 でも、過疎化は確実に矢部村にも襲いかかっている。中学校を卒業して高校進学するにも、いったんは村外に出なければならない。やっと高校や大学を終了しても、再び村に帰る人は少ない。彼らに働く場所が保障されていないからだ。時代の歯車が、また江戸時代に逆転し始めたのではと不安になる。誰でも生れ育った場所に戻りたいのに、それができないのだ。
 訪れた時、道路を遮断しての公共工事の轟音だけが山々に木魂していた。

ページ頭へ    目次へ    表紙へ