来迎寺のご本尊
みやま市瀬高町
来迎寺の山門
旧瀬高町の上庄に、「来迎寺」という古刹が建っている。柳川から瀬高に通じる国道443号の旧道沿いで、矢部川に差し掛かるすぐ手前のところ。貫禄十分の山門と本堂が、折りしも真っ盛りの梅の花とマッチして、まるで極楽浄土に迷い込んだよう。
ご本尊・阿弥陀如来像が平安時代に彫られたと伝えられることから、寺の歴史は既に900年を超えている。そのご本尊にまつわるお話だ。
ご本尊が姿を消した
時は安永2(1773)年というから、今から230年もむかしの江戸時代のこと。下庄から上庄(かみのしょう)を経て本郷に至る薩摩街道の往来は賑やかだった。来迎寺もお向かいの八坂神社も、それはもうお詣りが後を絶たなかった。
このお寺、戦国の世に一度は荒れ果てたというが、江戸期に入って奇特なお方の力添えで立派な山門と本堂が復興した。住職の永伝和尚は、感謝の気持ちを忘れまいと、毎朝のお勤めには特に念を入れていた。そんなある日のこと。
「ありゃ、ご本尊さまが・・・」
中央祭壇に祭られているはずのご本尊の姿が見えない。腰もぬかさんばかりに驚いた和尚は、急遽檀家衆を召集した。
「仏さまが一人で出て行くわけはないし・・・」、どこにお隠れあそばしたかと、勝手な推測が本堂内を行き交った。
白鷺が和尚らを案内
「和尚さん!」
表で小僧の良安が叫んでいる。思案投げ首の檀家衆が、いっせいに庭に出て山門の屋根を見上げた。
来迎寺本堂
「白鷺ですよ。先ほど、大川(矢部川)からふわっと飛び上がって、あそこにとまったんです。私に何か言いたかようですばってん、鳥の言葉はわからんとです」
良安が説明してる間に、屋根の上の白鷺は、檀家衆を手招きするようにしながら、南へ飛び立った。万兵衛を先頭に、和尚や檀家衆が後を追った。
白鷺は、上庄から2里ほど下った津留の浜近くの小高い丘の上空を旋回した後、一際高い槙の梢にとまった。槙の木の下には、髭面の大男が高いびきをかいて寝ている。脇には、1尺ほどの風呂敷包が。
「おい、そこな男!起きろ」、 万兵衛が、怒鳴ると、男は眠気眼を擦りながら起き上がった。
「ひょっとして、この川は淀川か?」
「何を寝ぼけたことを・・・。淀川ちは、京の都を流れる大川じゃろが」
「・・・あそこに見ゆるは男山じゃ」
男は、万兵衛の話など聞こえぬげだった。
おかしなことを口走る泥棒
和尚が男に問うた。
「そなたの横にある風呂敷の中は?」と。
確かに中身は、来迎寺の阿弥陀如来像であった。
「罰当たりの泥棒め。こいつを大川に投げ込め!」
万兵衛の号令で皆んなが男を取り囲んだ。
矢部川を跨ぐ瀬高橋
「待ちなされ、その手を離して」
「どうして?和尚さん」
「このお人は、ここが男山と言った」
和尚が言うには、「男山とは京都の淀川べりの丘(標高143b)のことで、人呼んで鶴ヶ峰と称し、源氏の守り神である岩清水八幡神が祀られている所。この男は、何かの縁で如来さまを懐かしい大川(淀川)まで案内したのではあるまいか。そのことを神の遣いである白鷺が、わしらに教えてくれたのかもしれない」と。
矢部川の神が本尊を救った
こうして、ご本尊の阿弥陀如来さまは、無事元の祭壇に戻られた。
「不思議なことですね、和尚さん」
「何がだい、良安?」
小僧の独り言に、和尚さんが反応した。
「あの白鷺ですよ。鳥のくせして、どうして阿弥陀如来さまのことがわかるのですかね」
良安は、小さな首を左右に捻りっぱなしであった。
「わしにもようわからんのじゃが・・・」と前置きして永伝和尚は、ご本尊の前に正座した。
「あの白い鳥は、矢部川を守る神さまのお遣いなんだよ、きっと。神さまは、人間が末永く川を大切にするよう、阿弥陀如来さまに託されたんだね。だから・・・」
「あっ、そうか。川を守るご本尊を泥棒に持っていかれたら困りますよね、和尚さん。でも、泥棒がどうして、和尚さんに淀川のことなど喋ったんです?」
「うむ、それはおそらく・・・。槙の木の上の神さまのお遣いである白鷺が、泥棒にそう言わせたんだよ。なんまいだ。なんまいだ」(完)
来迎寺は、大提灯祭りで有名な八坂神社の正面にある。一歩境内に踏み入れた途端、正直心が引き締まる思いになった。それほどまでに、狭い境内は仏の世界にはまり込んでいる。
盗まれたご本尊が、どのような経過で元の鞘に納まったか。やはりすぐ側を流れる矢部川と無関係ではないと推測した。間もなく有明海に達しようとする川は、仏の里にぴったりの雰囲気を有しているからだ。
何時間眺めていても飽きない、そんな風格を持つ川なのである。
瀬高荘:その領域が現瀬高町・大和町・三橋町に跨る大荘園で、大治6年に矢部川を挟んで右岸を上庄、左岸を下庄とした。この呼称は今日まで用いられている。瀬高は瀬高荘の中心として、中世後期には都市的正確を持つようになったと思われる。(角川日本地名大事典より)
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