もいっさんの智慧
乙文殊宮のたもと石
佐賀県大和町
乙文殊宮とたもと石
世の中、いずこも受験戦争の真っ最中。やれることはすべてやった、あとは神仏に頼るのみ。先日お伺いした太宰府天満宮は、そんな受験生と関係者でごった返していた。未来を担う若者の味方を自認する筑紫次郎は考えた。こんなに大勢で「合格祈願」を頼み込まれたのでは、道真さんも困ってしまうのではないかと。そこで、身近で少しばかりお手すきの神さまはいらっしゃらないものかと。
そうしたら、いらっしゃいました。佐賀市に「もいっつさん」の愛称で信仰を集める智慧授けの神さまが。旧大和町の川上峡にある乙文殊宮の文殊菩薩さまのことだ。心臓バクバクを気にしながら、500bの急坂を登って上宮へ。そこでは、例によって獅子に跨った文殊さま(写真)が待っていてくれた。社の裏手には、それはもう、びっくりするように大きな石が居座っている。「もいっつさんのたもと石」というそうだが、何だか深いわけがありそうだ。
巨石を袂に入れて
時は1000年以上もむかしのこと。川上峡の右岸に建つ実相院では、大勢の修行僧たちが、武内坊に祀ってある文殊菩薩の周りの埃を掃っていた。坊内の掃除が終ると、次は広い庭園を隅々まで掃き清めなければならない。
「何とかならんかの、この馬鹿でっかい石は・・・」
本堂前に居座る途方もない大きな石のことである。ブツブツ言いながら足蹴にするのは、知念という僧。巨石の隙間に散らかった落ち葉を掃くのがなかなかの難儀だからだ。気分が乗らずついさぼってしまうと、その晩の夢枕には必ず武内坊の菩薩さまが登場なさる。今日も今日とて、獅子に乗った文殊さまが、右手に持った剣の先で知念の尻を小突きまくった。その痛いこと、痛いこと。
「あの石が邪魔なのでございます。何とかなりませんか、文殊さま!」
知念は、泣きながら智慧を授かろうとした。すると、菩薩さまがニタリ。「そんなに邪魔な石なら、我れが貰って帰るがそれでよろしいか?」だって。
持ってって風除けに
文殊さまが巨石を持ち上げると、人の背丈の5倍はありそうな巨石が掌サイズに縮んでしまい、それを左の袂に包み込まれた。
「長い間世話になったな。さらばじゃ」と会釈して、文殊さまは風のように消えてしまわれた。
「待ってください、そんな役立たずの石をいったいどうなさるおつもりで…」と叫んだところで、目が覚めた。写真は、実相院の本堂
実相院本堂
知念は慌てて前庭に出た。すると、本堂玄関を塞ぐように居座っていたあの巨石が影も形もなくなっている。踵を返して武内坊に飛び込んだ知念が二度びっくり。祭壇に祭ってあった文殊菩薩像も消えていなさるではないか。
「そんな馬鹿な!」、知念は体中の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
数日を経て、近くに住む老婆が茸狩りのために河上川(大むかしは、石井樋(大和町の南端)から上流を河上川といい、下流を嘉瀬川と呼んでいた)対面の山に入った。大小入り乱れて自然石が転がっている山道を登っていくと、大きな岩が行く手を遮った。岩のてっぺんを見上げて驚愕した。そこに、獅子に跨った文殊菩薩さまが立っておられる。確かに、いつも拝んでいる実相院の文殊さまなのだ。
「もいっさん、あなた、あげん流れの早か川ば、こげんおっか(大きな)石ば担いで、どげんして渡ってこられたとですか?」と老婆が声をかけた。すると菩薩さま、「そんなことは簡単なことである。袂に入れて持ってきたんじゃ」だと。
「ばってん、こげんおっか(大きな)石じゃけん、あんたさんの袂には入らんめえもん?」と、老婆の追求に少しばかりうんざり顔のもいっさん。
今度は自分のこめかみを指差さしながら、「これだ、これ」と囁きながら、岩の向こうに隠れられた。(完)
頭を使えば、少々難儀な問題でも解決するさ、ともいっつさんはおっしゃりたかったのかも。そこが、文殊菩薩を「智慧授けの神さま」と言う所以だろう。その菩薩さまを祭る乙文殊宮は、川上峡際の下宮と、そこから更に500b登ったところの上宮に分れている。
上宮菩薩堂の裏手に横たわる石は、高さが約5b、直径が約10b、重さにして10トン以上はありそう。文殊菩薩さまが、実相院からこの巨石を袂に入れて運んできたというので、地元では「もいっさんのたもと石」とも呼んできた。もいっさんは、知念の夢に登場してこの石を貰いうけ、実相院を跡にして川上峡を渡り、奥の院に永住されたらしい。はてこんな馬鹿でかい石をどうしようと考えてなさったのやら。庭石にでもなさるおつもりだったか、それとも、昼寝用の枕にか。
表の説明板には、奥の院からの眺めは、有明海や雲仙岳が眺望でき、眺望絶景とあるが、周囲の樹木が茂りすぎてそれも無理。お堂ときたら、一面落書きだらけ。これじゃ、さしもの文殊さまも、【合格祈願】が煩わしいのではなかろうか。
それでもかまわず、若者の味方の筑紫次郎は、熱心に拝んできましたぞ。
文殊:文殊師利の略。大乗般若の教説と深い関わりがあり、一般には普賢とともに釈尊の左に侍して知恵を司る菩薩。獅子に乗るのを常とし、中国の五台山がその浄土として尊信される。文殊菩薩は、右手に智慧を象徴する剣を持ち、左手に梵夾を載せた蓮華を持ち、獅子に跨る。智慧を司る神として、古来より庶民の篤い信仰を受けてきた。
実相院:1200年以上も前に行基僧が開基したと伝えられる。それから300年後に、比叡山の円尋僧正が河上山神護寺実相院を建立したと寺記にある。毎年4月10日より20日まで、国土安泰・死者の冥福を祈ってのお経会は、900年間も欠かさず続いているという。
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