伝説紀行 カササギ渡来 みやま市 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第322話 2008年01月13日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

キージャ、キージャと鳴くは?

カササギ渡来

みやま市瀬高町


収穫後に餌をあさるカササギ(三潴郡大木町で)

 佐賀県から筑後地方にかけて生息するカササギ(鵲)は、国の天然記念物である。黒と白のツートンカラーが美しく、田んぼや野原でよく見かける。この鳥、スズメ目カラス科に属する。
 カササギを、子供の頃に「勝ちガラス」と教わった記憶がある。朝鮮鳥、烏鵲(うちょう)ともいうそうな。もう一つの呼び名が「高麗がらす」。瀬高地方ではこれを、「こうげがらす」と発音する。ヨーロッパからアジアにかけて広く分布する鳥なのだが、現在の日本では、九州の狭い範囲でしか見られない。

戦場に珍しい鳥が

 時は慶長3(1598)年正月。朝鮮半島の南端・釜山(ぷさん)港を見下ろす丘の上で、幼馴染の2人が震えている。
(かか)や子供は、正月の餅食ったかな」と文平がため息を()いた。(いくさ)の合間の、しばしの休み時間である。孫六は独り身なのだが、文平には女房と3歳の男の子が留守宅を守っている。
「…珍しか鳥たいね」
 すぐ近くで餌を探す白と黒の羽毛を持つ2羽の鳥に、文平は興味を持ったようだ。
「腹が減っとるごたるない」
 文平は、懐の乾飯(ほしいい)を投げてやった。(つがい)の鳥は嬉しそうに跳ねて(ついば)んだ。
「高麗がらすち言うげな、こん鳥は。こげな美しか鳥が瀬高におったらよかない」
 文平は、孫六にとも高麗がらすにともなく話しかけながら、乾飯を投げた。
 瀬高で農業を営む孫六と文平が、柳河藩に召集されたのは昨年秋の取入れ直前だった。集められた百姓たちは名護屋(なごや)の藩陣屋に連れて行かれ、簡単な(よろい)と槍を与えられて特訓が始まった。師走の声と同時に、数十人単位で大きな船に乗せられて釜山へ。
 この戦い、文禄・慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)という。

文禄・慶長の役:1592〜98年、桃山時代、豊臣秀吉の2度の朝鮮侵略戦争。秀吉は大陸征服を企て、李氏朝鮮が明侵入の道案内を拒絶したのを怒って出兵。宇喜多秀家を総帥、加藤清正・小西行長を先鋒として平城(ピョンヤン)まで進出。明の援軍を破り講和となったが(文禄の役)、秀吉は明の国書中に「日本国王に封ず」とあったのを怒って、97年(慶長2)再び開戦となった。翌年秀吉の死によって撤兵(慶長の役)。数研出版刊「日本史事典」より
名護屋城:1591年、豊臣秀吉が朝鮮遠征軍の拠点として佐賀県東松浦半島先端に築城。兵站基地としたが、江戸初期に破壊された。
役:人民を徴発する…戦争
乾飯:乾燥して蓄えておく飯。

靄の中から怖ろしい大蛇が

 孫六や文平らの雑兵(ぞうひょう)は、夜明け前に叩き起こされた。「明軍(みんぐん)2万が日本軍の本陣に攻めてくる」との情報がもたらされたからだ。敵の大将は高策といい、名高い戦上手だとのこと。
「我ら柳河の800は、海上で敵軍を迎え討つ」
 指令を発する藩士が、疲弊した兵士を鼓舞するようにだみ声を張り上げた。5間(9b)先も見えない朝靄(あさもや)の中で、孫六と文平は敵の来襲を見張った。
「あれは…?」、文平が指差す舳先に、黒と白の羽を持つ(つがい)の鳥がとまっている。「もしかして…」、昨日見かけた高麗がらすではないか。また乾飯を強請(ねだ)りにでもきたのか。。
 その時、2羽の鳥が騒ぎ出した。間もなく、目の前に巨大な生き物が牙を剥いて迫った。
「大蛇だ!逃げろ!」、誰かが叫んだ。
 その時、舳先の高麗がらすが大きく羽ばたいて空を舞った。更に文平の頭上で鳴き声を荒げた。

「あれは、彫り物」

「邪魔だ、邪魔だ、そこな鳥め。斬り落とせ」
 一人の武士が叫ぶと、もう一人が剣を抜いた。
「お待ちください。その鳥は、私らに何かを訴えているように思えますが…」
 孫六が、今にも切り付けそうな武士の前に進み出た。
「何を寝ぼけたことを。たかが鳥が、人間の我らに何を言おうというのか?」
「私めには、あの鳴き声が『キージャ、キージャ』と聞こえます」
「だから、それが何だと言うのだ?」
「はい、キージャは『木蛇』とは考えられませんか?。あれなる大蛇は、木でできたもの、怖れることはない…、と」
 一瞬船上が静まり返った。なるほど、「キージャ」と聞こえる。
「あれなるは、彫り物を施した亀甲船である。恐れることはない、安心して突撃せよ」
 指令する武士が、声高らかに号令を発した。

亀甲船:むかし、軍船・荷船の船首につけた亀の甲状の厚板の囲い。水戦に用いた兵船。全体を楯で覆い、物見の狭間を前後しに設けた船。

戦友の分身をふるさとに

 大蛇が彫刻だと知った日本軍は、勢いずいた。まさかの反撃にあった明軍は、後退を余儀なくされた。この戦、「立花対般丹の戦い」として記録されている。
「助かった」、「これも、高麗がらすのお陰たい」、船上の武士や兵士は一応に、命永らえたことを喜び合った。
「あいつがいない」
 孫六があたりを見回すと、文平が流れ矢を額に受けて息耐えていた。
「文平!死んだらでけん。国じゃ嫁と子供が待っとるじゃろが」
 孫六は、心の中で泣きじゃくった。
「それにしても…」
 戦が遠のいても、文平の傍から離れない(つがい)の高麗がらすに、孫六は何か不思議な因縁を感じていた。
 司令官の武士は、黙ったまま、鳥籠と乾飯の入った袋を孫六に手渡した。

 翌年夏。豊臣秀吉の死去によって、6年間続いた「文禄・慶長の役」は終結した。開放された孫六は、文平の遺髪を抱いたまま瀬高の清水山(331b)に向かった。親友の分身とも思える、連れてきた(つがい)の高麗がらすを放つためである。写真は、矢部川付近から望む清水山
「戦死した文平の分まで長生きして、いっぱい子供を育ててくれ。そうして大きな声で、『キージャ、キージャ』と鳴いとくれ。そうすりゃ誰にでも、(いくさ)は嫌じゃと聴こえるじゃろけん」
 2羽の高麗がらすは、矢部川に向かって勢いよく飛び立っていった。(完)

 奈良時代に書かれた日本書紀には、推古天皇時(西暦592〜628)に新羅(しらぎ)(朝鮮)から2羽の鵲を持ち帰り難波の地で飼わせたという話が載っているそうな。
 また有名な小倉百人一首では、大伴家持(おおとものやかもち)(718〜785年奈良時代の政治家兼歌人)がカササギ(鵲)を歌った。日本におけるカササギの歴史は、意外にも古い。いずれにしても、ルーツは朝鮮半島にありそう。
 子供の頃、カササギが見れたのは佐賀県と山門郡の一部地域であった。ところが最近では、矢部川をわたって北上し、久留米や朝倉・浮羽地方でも見かけるようになった。昨日も、うきは市の電線上にいて、大きな声で鳴いていた。生命力の強い鳥である。
 今日国内では、北朝鮮による日本人拉致事件が大きな政治問題になっている。その日本人が、400年前には朝鮮国に土足で踏み入り、多くの現地人を殺したり拉致した。日本人たるもの、そんな歴史的事実も、しっかり心にとどめておかなければなるまい。

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