孝子与吉伝
八女市(旧上陽町)
山里の集落 仏尾
八女市上陽町北河内から県道798号を8キロほど上っていくと、仏尾という集落に出る。山村風景が嬉しいスポットだ。江戸時代の村名は「上妻郡北河内村」といったそうな。
この山里にも、江戸時代の「親孝行」話が残っている。
母の病を治すため
18歳になる与吉は、仏尾の里で暮らしている。彼は、病弱の母親と幼い弟の面倒を見ながら、炭焼き小屋で一日中働きづめだった。
そんな折、母親の具合が急変した。医者に診てもらうにも金はなく、集落の婆さんに占ってもらうと、余命幾ばくもないとのこと。
「もうよかよ、母ちゃんのこつは。早よう死んで、父ちゃんのとこに行きたか」
母が諦め顔で言うと、「なんば言いよるとね。母ちゃんには元気になってもらわにゃ困ると」と、与吉は剥きになる。
切羽詰った与吉は、高良大社への30日間祈願を決意した。仏尾の里から高良大社までの距離は4里(12`)。当時の山道だから、急ぎ足でもたっぷり4時間はかかる。写真は、下横山の谷間
高良神へのお詣りを済ませて帰路につこうとすると、神主に呼び止められた。
「境内を出たところに清水が湧き出とるから、飲んでいったらええ」と。掌にすくって飲んだら、五臓六腑に染みとおり、それまでの疲れがいっぺんに吹き飛んだ。
「母ちゃんに、こげなうまか水ば飲ませてやりたかね」
高良大社:久留米市御井町にある神社。祭神は高良玉垂宮・八幡大神・住吉大神など。創建は、履中天皇元年(古墳時代)と伝えるが、資料上の初見は延暦14(西暦795)年となる。(角川地名事典より)
古くから筑後の国そのものである国魂として、人々の衣食住にわたる生活全般をお守り下さるとともに、芸能・延命長寿・厄除けの神さまとして、厚く信仰されてきました。(高良大社HPより)
丑三つ刻:丑の刻を4刻に分け、その第3にあたる時。おおよそ今の午前2時から2時半。
丑の刻:午前1時から午前3時までの間。
五臓六腑:五臓(漢方で肺・心臓・肝臓・脾臓・腎臓の総称)と六腑(漢方で大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱の総称)
丑三つ刻にお百度
隣村の逆瀬谷に嫁いでいる姉のつる子が、与吉が願掛けをする1ヵ月間実家にに泊り込んでくれることになった。母や幼い弟のことが心配の与吉には、こんな嬉しい援軍はない。時節は、寒さが身に染みる師走であった。
現在の時間で午後10時に仏尾を出る。夜中に到着してお百度を踏む。終ると、神官に教わった清水を、持ってきた竹筒に入れて帰路についた。帰り着く頃には、東の空がうっすら白みかかっている。
「うまかね、こん水は…」、母は、与吉が持ち帰った水を目を細めて飲み乾した。
高良神詣では、天気のよい日ばかりではない。打ち付けるような雨の日もあれば、体ごと吹き飛ばされそうな強風の晩も。ある時には、天狗のような生き物が低空飛行して、肝を冷やすこともしばしばであった。
お百度(百度参):社寺に詣で、その境内の一定の距離を100回往復し、その度に拝すること。
立ち往生したら高良の神が
そして1ヵ月が過ぎた。いつもと変わらずお百度参りを済ませると、また母が喜ぶ湧き水を水筒に注いだ。満願の日の水が、母親の病気を治す決め手になるような気がした。
神域を出る頃降り出した雪は、耳納の尾根を過ぎる頃には、提灯も役立たないくらいの猛吹雪になった。途中、目の前に大きな岩が転がり落ちて、道を完全に塞いでいる。そこに座り込んだとたん、夢の中へ。図は、高良神社本殿
「これ与吉よ」
振り向くと、顎鬚が立派な老人が立っていた。
「神さま、早く帰って母ちゃんにこの水を飲ませなきゃいかん。目の前の岩ばどかしてください」
与吉は、地面に額をこすりつけて頼んだ。
「心配するでない。それなる神水は、母の元に必ず届けるゆえ。さすれば、病も治癒するであろう。そなたはそこでゆっくり休んでおけ」
神さまは、用件を告げるとすぐに姿を消した。そして与吉は濃い闇夜の世界に。
病の母が神の水を
その時刻、仏尾の家では母親の具合が更に悪化していた。熱がうなぎ上りで、息も絶え絶えであった。付きっ切りで看病するつる子は、ただオロオロするばかり。その時、表戸を叩く音がして土間に下りたが、人の気配はない。
「これは…?」
玄関先に竹筒が置いてある。与吉が腰に下げていたいつもの竹筒であった。
「忘れていったんじゃろか」
出て行く時は空だった筒に、水が入っているとは不思議なことだ。つる子は、何はともあれその竹筒を母の口に当てた。
「うまかね、ほんに…」
一気に飲み乾すと、母はそのまま深い眠りについた。気のせいか、その頬に紅がさしたように見えた。額に手をやると、確かに熱が下がっている。寝息も安らかだ。
翌日昼すぎ、足を引き摺りながら与吉が帰ってきた。吹雪の中で道に迷い、その上清水の入った竹筒もどこかでなくしてしまって、どこをどう通ってきたかも覚えていないと言う。
「お帰り、与吉」
血色のよい母が、土間に倒れこんだ息子を嬉しそうに見下ろしていた。
「母ちゃん、病気治ったんかい?」
「ああ、おまえがくれた水を飲んだら、ほんに気持ちがようなってな」
「母ちゃんの病気はもう大丈夫。これも、高良の神さまのお陰たいね」
つる子は、表に出ると、高良山の方向に向かって手を合わせた。
後日談だが…。この親孝行話は久留米城内にも伝わり、与吉は殿さまからたいそうなご褒美をいただいたとのこと。(完)
集落にカメラを向けたら、前方遠くに超近代的な大橋が目に入った。2002年に完成した朧大橋である。全長300bもあるアーチ式の芸術品だが、この橋を渡る人や車はほとんどない。と言うのも、完成から5年経った今も、前後の道路がほとんど手付かずのままだから。たまに訪れる人が「美しか橋ねえ」とか、「建設費が何百億円かかったじゃろか」とか言いながらため息をついている。 与吉の高良神詣でをした谷間の真上に、朧大橋は架けられている。つまり、与吉は、谷を下りまた上って耳納の尾根を目指していたわけだ。地下に眠る与吉やつる子が、こんな大仰な橋を見たら、どんな感想を述べるものやら。写真は、朧大橋
与吉が生きた17世紀末から18世紀初頭にかけて、日本国内の事情はどんなであったか。徳川の世に代わって100年が経過し、幕藩体制は安定期に入っていた。為政者は、人々の身分の上下を厳しくすることで、秩序をより強固なものにしようとする。そこで持ち出されるのが、「忠孝と礼儀」であった。つまり、親には孝行、君(天皇・大名)には忠義をなせと言うこと。与吉の命がけの願掛けは、当時の人々の共感とあわせて、幕府や大名にも賞賛されたわけだ。
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