伝説紀行 江浦八幡由来 みやま市(江浦) 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第320話 2007年12月16日版
再編:2017年2月14日

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

平家のかび占い

江浦揚の宇佐八幡神社由来

福岡県みやま市(高田町)


江浦八幡神社の粥占いと案内板

 西鉄電車が終点の大牟田駅に近くなる江浦駅(えのうらえき)を通過するあたりに、「宇佐八幡神社」の額を掲げた由緒ありげなお宮さんが建っている。矢部川や飯江川(はえがわ)がやがて有明海に流れ込むすぐ手前だ。
 この神社、(かゆ)につく(かび)の具合を見てその年の収獲を占うことで知られている。粥占いを執り行う宮司の永井さんを訪ねた。お話しを聞いているうちに、永井さんが実は平家の末裔であることを知らされ、改めて占いの重さを感じさせられた次第。


写真は、江浦八幡神社本殿

落ち延びた平家が江浦に

 文治元(1185)年の壇ノ浦(関門海峡)合戦後、九州や本州に落ち延びた平家の武将や兵士たちの行く先は・・・。
 江浦(えのうら)村に、主従らしい男2人が現われた。明らかに武将とわかる男の体を身分の低そうな者が支えている。
「平家のお侍さんとお見受けしたが・・・」、晋吉と名乗る若い漁師が声をかけた。主従は一瞬身構えたが、足元がふらついてその場にしゃがみこんでしまった。
 主従は、10軒ほど並んだうちの一軒の、粗末な家に案内された。
「お察しのとおり、我らは先の合戦で源氏方に破れた平家一門の者でござる。拙者の名は長井十郎と申す。これなるは下男の権助である」
「・・・源氏の追手と戦って、生き残った10人ほどで海(有明海)を目指した。だが、気がつけば仲間の姿はなく、川原で我ら2人だけが眠りこけていたというわけ」
 長井十郎正明は、落ちぶれた姿を晒していることが情けないと言って、目に涙した。
「いつまでいたってかまわないよ。何だったら、ここで漁師をやらないかい」と、晋吉が誘った。

川底に光る霊石が

 追手の心配も遠のき、いつの間にか3年が経過した。今では長井十郎と権助主従も、いっぱしの漁師として落ち着いている。


現在の江の浦風景

 その日も漁を終えて、有明の海から矢部川を遡って港へ急いでいた。
「あそこに光るものが…」、水底の砂に混じって、鈍い光を放っている石を見つけた。
「そんなことより、先を急ぎましょうよ」、一時も早く港に着かなければ、獲物の買い付け人が帰ってしまうと晋吉は二人をせかせた。
 十郎が深い眠りについた後、枕辺に長い杖を持った白髪の老人が立った。
「長井十郎正明よ、我れは宇佐八幡神の遣いである。そなたは今日港に帰る接尾(すがら)、光る石に気付きながらそのまま放置したであろう。あれなる石はもったいなくも、八幡の神の分身である。残された平家一門の者の安泰を願うなら、おろそかにするでない。霊石を抱えて村中を回るのじゃ。重さに耐え切れなくなった場所に八幡神を祀れ」
 老人が語り終えると目が覚めた。その時、老人の姿も消えていた。


宇佐八幡神社拝殿

楠田川の岸辺に八幡神を

 十郎は、夜明けを待って港に急いだ。引き潮を待ち、権助と晋吉を伴って、霊石のありかへ。「あった!」、確かに3個の石が鈍い光を放っている。
 舟から降りた権助が、川底から直径20センチほどの丸い石を拾い上げて甲板に載せた。小さな漁船は、3個の重い石で傾いた。
「権助・晋吉。お告げのとおり、この石を抱えて、江の浦の村を回ろうぞ」
 港に着くなり、3人がそれぞれに1個づつ抱え上げて村に繰り出した。石の重さは約15キログラム、結構腰に堪える重量である。
 漁師3人の奇妙な行進に、村のあちこちの家から人が飛び出してきた。5人・10人から、やがて村中の者が。中には、杖を頼りの老人や、青洟小僧までが、「よいしょよいしょ」と掛け声をかけながら後についてきた。
 行列が楠田川のほとりにたどり着いたとき、まず権助が音を上げた。彼の尻餅を合図に十郎も晋吉も、霊石を地べたに下ろした。
「この場所に(やしろ)を建てようぞ。ご祭神はこの霊石だ」


漁を終えて港に帰る漁船


「それで、お宮さんの名前は?」
「夢枕に立たれたお方は、宇佐八幡神のお遣いだと申されていた」
 永井十郎の発案で造られたのが、現在楠田川べりに建つ江浦八幡、別名「宇佐八幡神社」だと。その日は、壇ノ浦合戦から3年が経過した文治3(1187)年3月3日だったそうな。そして、長井十郎藤原正明の血は、現在の神職の永井澪氏へと引き継がれているとのこと。(完)

 江の浦八幡神社で有名な粥占いについてだが。始まりは江戸期に入ってからだとか。平家縁の神さまが、お世話になった江の浦の民へのお返しとして、豊年万作へとお導きくださるための行事なのかな。
 旧年中に収獲した米を1升2合、新年の初め神前に供える。15日間お供えした米を粥として焚き、銅製の鍋に1ヶ月間安置する。2月15日に鍋を開け、粥についた
(かび)の具合を見て、その年の運を占うというもの。占いの対象は、主に農作物と海産物だ。
 因みに、今年(平成19年)に占われた結果は、右図のとおりであった。数値が「五分=50%)を超えれば、「概ね良」と判断される。「地球温暖化のせいで最近の占いも難しくなりました」と、永井さんは悩まれる。
 八幡神社をあとにして、矢部川の堤防に上った。有明海での漁を終えた漁船が、エンジンの音を響かせながら、対岸の漁港に入るところであった。回れ右して神社の方角を望む。江戸時代初期の柳川藩主田中吉政が造り上げた干拓地が、稲の収獲を終えて寒々と横たわっていた。
 さて、新しい年の粥占いは、吉と出るのかそれとも…。非情に気になるところではある。

八幡神:八幡宮の祭神。応神天皇を首座とし、弓矢の神として尊崇され、古来広く信仰されてきた。

江浦八幡神社:祭神=応神天皇・神功皇后・・武内宿祢

江浦:中世には、現在の高田町・江浦町の地域を含めて江浦村といっていた。(日本地名大事典)

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