平家のかび占い
江浦揚の宇佐八幡神社由来
福岡県みやま市(高田町)
江浦八幡神社の粥占いと案内板
西鉄電車が終点の大牟田駅に近くなる江浦駅を通過するあたりに、「宇佐八幡神社」の額を掲げた由緒ありげなお宮さんが建っている。矢部川や飯江川がやがて有明海に流れ込むすぐ手前だ。
この神社、粥につく黴の具合を見てその年の収獲を占うことで知られている。粥占いを執り行う宮司の永井さんを訪ねた。お話しを聞いているうちに、永井さんが実は平家の末裔であることを知らされ、改めて占いの重さを感じさせられた次第。
写真は、江浦八幡神社本殿
落ち延びた平家が江浦に
文治元(1185)年の壇ノ浦(関門海峡)合戦後、九州や本州に落ち延びた平家の武将や兵士たちの行く先は・・・。
江浦村に、主従らしい男2人が現われた。明らかに武将とわかる男の体を身分の低そうな者が支えている。
「平家のお侍さんとお見受けしたが・・・」、晋吉と名乗る若い漁師が声をかけた。主従は一瞬身構えたが、足元がふらついてその場にしゃがみこんでしまった。
主従は、10軒ほど並んだうちの一軒の、粗末な家に案内された。
「お察しのとおり、我らは先の合戦で源氏方に破れた平家一門の者でござる。拙者の名は長井十郎と申す。これなるは下男の権助である」
「・・・源氏の追手と戦って、生き残った10人ほどで海(有明海)を目指した。だが、気がつけば仲間の姿はなく、川原で我ら2人だけが眠りこけていたというわけ」
長井十郎正明は、落ちぶれた姿を晒していることが情けないと言って、目に涙した。
「いつまでいたってかまわないよ。何だったら、ここで漁師をやらないかい」と、晋吉が誘った。
川底に光る霊石が
追手の心配も遠のき、いつの間にか3年が経過した。今では長井十郎と権助主従も、いっぱしの漁師として落ち着いている。
現在の江の浦風景
その日も漁を終えて、有明の海から矢部川を遡って港へ急いでいた。
「あそこに光るものが…」、水底の砂に混じって、鈍い光を放っている石を見つけた。
「そんなことより、先を急ぎましょうよ」、一時も早く港に着かなければ、獲物の買い付け人が帰ってしまうと晋吉は二人をせかせた。
十郎が深い眠りについた後、枕辺に長い杖を持った白髪の老人が立った。
「長井十郎正明よ、我れは宇佐八幡神の遣いである。そなたは今日港に帰る接尾、光る石に気付きながらそのまま放置したであろう。あれなる石はもったいなくも、八幡の神の分身である。残された平家一門の者の安泰を願うなら、おろそかにするでない。霊石を抱えて村中を回るのじゃ。重さに耐え切れなくなった場所に八幡神を祀れ」
老人が語り終えると目が覚めた。その時、老人の姿も消えていた。
宇佐八幡神社拝殿
楠田川の岸辺に八幡神を
十郎は、夜明けを待って港に急いだ。引き潮を待ち、権助と晋吉を伴って、霊石のありかへ。「あった!」、確かに3個の石が鈍い光を放っている。
舟から降りた権助が、川底から直径20センチほどの丸い石を拾い上げて甲板に載せた。小さな漁船は、3個の重い石で傾いた。
「権助・晋吉。お告げのとおり、この石を抱えて、江の浦の村を回ろうぞ」
港に着くなり、3人がそれぞれに1個づつ抱え上げて村に繰り出した。石の重さは約15キログラム、結構腰に堪える重量である。
漁師3人の奇妙な行進に、村のあちこちの家から人が飛び出してきた。5人・10人から、やがて村中の者が。中には、杖を頼りの老人や、青洟小僧までが、「よいしょよいしょ」と掛け声をかけながら後についてきた。
行列が楠田川のほとりにたどり着いたとき、まず権助が音を上げた。彼の尻餅を合図に十郎も晋吉も、霊石を地べたに下ろした。
「この場所に社を建てようぞ。ご祭神はこの霊石だ」
漁を終えて港に帰る漁船
「それで、お宮さんの名前は?」
「夢枕に立たれたお方は、宇佐八幡神のお遣いだと申されていた」
永井十郎の発案で造られたのが、現在楠田川べりに建つ江浦八幡、別名「宇佐八幡神社」だと。その日は、壇ノ浦合戦から3年が経過した文治3(1187)年3月3日だったそうな。そして、長井十郎藤原正明の血は、現在の神職の永井澪氏へと引き継がれているとのこと。(完)
江の浦八幡神社で有名な粥占いについてだが。始まりは江戸期に入ってからだとか。平家縁の神さまが、お世話になった江の浦の民へのお返しとして、豊年万作へとお導きくださるための行事なのかな。
旧年中に収獲した米を1升2合、新年の初め神前に供える。15日間お供えした米を粥として焚き、銅製の鍋に1ヶ月間安置する。2月15日に鍋を開け、粥についた黴の具合を見て、その年の運を占うというもの。占いの対象は、主に農作物と海産物だ。
因みに、今年(平成19年)に占われた結果は、右図のとおりであった。数値が「五分=50%)を超えれば、「概ね良」と判断される。「地球温暖化のせいで最近の占いも難しくなりました」と、永井さんは悩まれる。
八幡神社をあとにして、矢部川の堤防に上った。有明海での漁を終えた漁船が、エンジンの音を響かせながら、対岸の漁港に入るところであった。回れ右して神社の方角を望む。江戸時代初期の柳川藩主田中吉政が造り上げた干拓地が、稲の収獲を終えて寒々と横たわっていた。
さて、新しい年の粥占いは、吉と出るのかそれとも…。非情に気になるところではある。
八幡神:八幡宮の祭神。応神天皇を首座とし、弓矢の神として尊崇され、古来広く信仰されてきた。
江浦八幡神社:祭神=応神天皇・神功皇后・・武内宿祢
江浦:中世には、現在の高田町・江浦町の地域を含めて江浦村といっていた。(日本地名大事典)
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