JR久大線の大石駅(うきは市大字高見)あたり。大むかしは「大石郷」と呼び、更に江戸期には「大石村」と呼んでいた。村の中心に建つ弓立神社の境内には、「木樵大明神」の祠が建っている。この大明神、実は上流の三日月の滝(大分県玖珠町)と深い縁があるらしい。
大石村(現高見地区)には、「清原」とか「野上」といった姓が多いと聞いたことがある。そう言えば、神社の北方を流れる筑後川上流の玖珠地方にも、同じ姓が多かった。しかも、上流の清原さんは、都との関わりの深い歴史上の人物だとか。これもまた、筑紫次郎が取り持つ縁なのかな。
玖珠の木こりが流れ着く
もう1100年以上もむかしの平安時代。大石郷に住む権造は、今日も千歳川(筑後川の古名)に出て投網を打っている。
「あれは何だ!」、流木にひっかかっているのは、人間の水死体のようだ。びっくり仰天の権造は、そのことを村長に知らせた。集まってきた里人たちは、死体を遠巻きにしながらひそひそ話。
「この仏さんはな、掌の皮の厚さや指だこから診て、上流で木を伐るお人だ」とは、村長の診断である。
「お身内が心配なさっているだろうな」ということで、第一発見者である権造が身元を捜す役割を仰せつかった。
夜明けとともに旅立った権造は、千歳川を伝うようにして歩き出した。日田から大太郎峠を越えて玖珠の戸畑郷に着いたのは、大石郷を出立してから3日目だった。
「木こりの卯之さんのことじゃろ、皆んな心配しとるが・・・。あん人も、旅のご婦人方にさえ会わなんだら・・・」
洗濯物を干している農家の嫁らしい女が、意味ありげなことを言った。
写真:上流の三日月の滝
「三日月の滝のお寺さんに訊いてみなされ」
女は、寺への道順を教えた。
旅の女性が滝壺に
50尋(1尋は約1間)ほどの三日月形をした豪快な滝が、権造を迎えてくれた。川幅いっぱいに、大量の水がまるで簾のように流れ落ちている。強力な水圧に抉り取られた滝壺は、その深さが想像も尽かないほどに青黒く澱んでいた。
「どこまで流されたか、心配しておったで」
訪ねた寺の老僧が、身元を捜しに遥々やってきた権造を労った。老僧は、木こりの卯之が流される前後のことを、額に縦皺を寄せながら語り始めた。
「あれは、伐株山のヤマザクラが満開の頃じゃった・・・」、女子衆だけの12人連れが三日月の滝にやってきた。
「清原正高という、都からおいでのお方をご存じないか?」。
一行の1人が、通りがかりの初老の男に尋ねた。訊かれた木こりの卯之は、深く考えることもなく答えた。
「そのお方なら、、玖珠検校(郡司)であられる矢野兼久さまの娘婿どのですよ。お子もあってそれはもうたいそう幸せに暮らしておられます」と。
侍女と木こりの会話を傍で聞いていた主人らしい女性が、、突然都の方に向かって手を合わせた。そのすぐ後である、目の前のどす黒く渦巻く滝壺に身を投げたのは。
「わらわは、清原正高さまの行方を聞いただけなのに。女院さまの前で余計なことまで話さずとも・・・」
木樵神社近くを流れる筑後川
侍女らしい女は卯之を睨みつけながら、精一杯の恨み節を唱えた。その後、主人の女院を追うように、次々に滝壺に飛び込んだ。
投身したのは帝の妃
最初に飛び込んだのは、小松女院という帝(光孝天皇)の妃であった。あとの11人は女院の侍女たちである。かつて女院は帝の傍にありながら、横笛の名手とうたわれた清原正高卿と越えてはならぬ恋に落ちた。そのことを知った帝は激怒し、正高卿を豊後国に追放し、女院も監禁の身に処せられた。
数年を経て、なお正高卿のことが忘れられない女院は、11人の侍女を従えて、遥か豊後の地まで会いに来たのであった。
木こりの卯之は、繰広げられる悲劇を目の当たりにして、気が動転した。その後も、恨み節を唱えて絶えた女に慄く夜が続いた。そしてある大雨の晩、12人が沈んだ滝壺に愛用の斧を投げ込むと、自らも身を沈めたのであった。
女院:天皇の母や三后・内親王などに対する尊称。
筑後川がもたらす縁
「そうでしたか、卯之爺は遥か筑後の地まで流されておったか。正高さまは、今はお養父上の跡を継いでなさり、そこに見える小松女院と11人のお墓を造られましたのじゃ」
権造からわけを聞いた老僧は、このことを必ず検校さま(清原正高)にお知らせすると約束した。
あれから何十年経ったろうか、清原正高の曾孫にあたる清原通村という人が大石郷の権造を訪ねてきた。
滝の淵に建つ小松女院の墓
「一時期玖珠の村人は、木こり卯之の亡霊に悩まされて困っておった。それが治まった理由が、こちらで懇ろに弔ってくれたお陰だと知り、お礼に参上した次第」と感謝の意を述べた。
加えて、弓立宮の殿宇楼門を築き、「木樵大明神」を境内に祀った。その際、神田25町歩と社家料5町歩も寄進したと縁起書には記されている。(清原正高公入部2020年記念誌「続船岡山」より)
そんな縁でか、千歳川(後の筑後川)の上流と大石郷の人々の行き来が盛んになった。「清原」とか「野上」の姓を持つ人がこの地に定着したのも、そんなことがあってのことだったろうとは、後の人々の推理である。(完)
高見地区(むかしの大石村)をじっくり見て回った。
「木樵大明神」は、弓立神社本殿の真裏に建つ。おおむかしは、すぐ裏手を流れていたはずの筑後川は、北に約1キロ離れていた。筆者は、神社と大川の間の町並み(特に旧道)がすこぶる気に入った。由緒ありげな寺院や古木の立つ神社、旧家や大きな墓石などが、整然と立ち並ぶ。取材のたびに通過するこの地だが、足で歩いてみると、古の香りが漂い、また新しい場所を発見した気分になったもんだ。これらもまた、豊後から筑後へと富を運んでくれる筑後川がもたらす遺産なのだろう。
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