西鉄電車の朝倉街道駅を降り、「針摺」という名の住宅街をぶらぶら歩く。すると、渋い味わいの観音堂脇に、縦2.5b・横1.5bほどの平ぺったい自然石を見つけた。石面には「梵字」が刻まれている。説明板によると、「この石、針摺石」と呼ぶそうで、この地の名前の由来をなすもの。針摺は、そのむかしは「針磨」とも呼んでいたとか。
古文書には、「もともと山の麓にあったものを、近世になって道路の傍らの林の中に移した」とある(筑紫野市PR紙)。ここにいう「山の麓」とは、朝倉街道の途中に見かける針摺峠のことではないかと、役所では推測している。今は平らな幹線道路だが、大むかしは人も滅多に通らない峠だったのだろう。
この付近、大宰府が近いせいもあって、何かにつけて、菅原道真さんとの結びつきを強調される。
梵字:梵語即ちサンスクリットを記載するのに用いる文字(広辞苑)。阿弥陀三尊を表す文字(筑紫野市PR紙)
梵語:古代インドの文語であるサンスクリットの称。梵天がつくったという伝承から、中国・日本でいう。
自給自足の祖父と孫
時は10世紀初頭の平安時代。大宰府から西に向かう道路脇に粗末な家が建っており、爺さんと娘盛りの孫のやよいが暮らしていた。やよいは、拓いた山に粟や野菜を植えて自給自足をなしている。爺さんはというと、時折90度に曲がった腰を擦りながら、巨大な石に向かって錆びついた斧に磨きをかけていた。
写真は、針摺石のある観音堂に通じる道。
その時、西の方からススキの穂を掻き分けるようにして近づいてくるものがいた。前に立つのは、公達風の身なりをした身分の高そうな60歳くらいの男。それよりひと回り若そうな従者らしい男が爺さんに声をかけた。
「主人が少々お疲れのため、暫時休ませてはくれまいか」
来客の気配を感じて出てきたやよいが、腰掛代わりに庭の切り株を勧めた。次に、お椀に注いだ白湯(さゆ)を差し出した。
主人らしい初老の男が何度も小さく頭を下げた。
公達の思いを都へ
「このあたりでは、とんと聞きなれない言葉じゃが・・・」、爺さんが尋ねると、従者が答える。
「我らは最近、故あって都から大宰府に転じてきたもの。このお方の都でのご活躍は、それはもう・・・」
そこまで話したところで、主人が首を横に振った。それ以上の打ち明け話は無用との、叱りの合図だった。
「政庁への帰り道のようじゃが、何処までおいでなすったんで?」の問いにも、従者が答えた。
「西に聳える天判山(大昔の天拝山の呼称)まで。あの山から、都を望んで・・・」
「天判山から都に向かって、何を?」
「都に残されたものへの募る思いを届けたくて、主人は・・・」
そこでまた、しばらく沈黙が続いた。やよいが白湯の代わりを差し出しながら口を挟んだ。
「筑紫国は、よかとこでございましょう?」と。可愛らしいやよいの口もとを、主人が見つめている。
何のために斧を磨く
「いつの日だったか、頂上からの眺めのよさに酔いしれていると、下りるころには足元が見えないほどに暮れていたものよ。その際に、東に昇った満月の灯りの下で聞こえる虫の音は、都への思慕を更に強めたものでござった」
従者の話にも、もう一つ力がない。
針摺石のある観音堂
それからしばらくたって、主人が従者に耳打ちした。
「ご老体が刃物を石に摺りあてているのは何の目的かと、主人が訊いておるが・・・」
従者の問いに、爺さんが顔を上げた。
「斧を磨いでおるのじゃが」
「何のために斧を磨く?」
「硬い木を削り、着物を繕う針を作るためじゃ。孫娘は、川辺で採った麻を紡ぎ、それを織って布にする。その後に、これなる針に糸を通して着物に仕立てるのじゃが」
「衣食住をすべて賄うとは、大変なご苦労よのう」
爺さんと従者のやりとりを、そばの主人がいちいち頷きながら聞きいっている。
再び天判山へ
二人の話しが終わると、主人は従者を促して立ち上がった。
「もし、お公家さま。そちらは今来られた方向ですよ。政庁はあちらで・・・」
やよいの注意が聞こえないのか、急ぎ足で先を行く主人を従者が追った。しばらくして、従者が引き返してきた。
「主人は、もう一度天判山に登ると申しておられる。大宰府に追われた我が身が無実であることを都人に訴えるために」
道真の館と言われる榎社
「それはもう、すんだことでは?」
「ご老体から、食べものを口にするまで、着る物を袖に通すまでの気が遠くなるようなご苦労を聞き、自らの訴えや祈りの不十分さを悟られたのでござる。ご老体が金具を磨くその石は、必ずや主人の強い意思に通じよう」
遠くなる主人を目で追いながら、従者は口早に主人の心境を語った。
見えなくなるまで見送った爺さんと孫娘は、不思議な気持ちで顔を見合わせた。(完)
このお話し、「斧を磨いて針にする」の格言と関わりがありそう。やる気になれば不可能はない。そこから、どんなに困難なことでも忍耐と努力があれば成就するものだという例えになったもの。例え大宰府から京都までの道のりがあったとしても、心をこめて訴えれば、必ずや願いは通じるはずとの、道真公の意思を表したものだろう。
祖父と孫娘のもとから天判山に引き返した主従は、それから七日七夜の間、頂上の石の上に立ち、都に向かって無実を訴えたそうな。その時の石が、今も頂上に保存されているというが、筆者は未だ確認していない。写真:朱雀通など古代太宰府遺跡の所在
お気づきだろうが、天判山(天拝山257b)に登って都を偲ぶ主従は、菅原道真と従者の味酒安行である。榎社(菅公に与えられた館)から天拝山麓までの行程は、直線距離で約2キロ。その間、現在の二日市温泉を通過して武蔵寺境内から山道に入ったと考えられる。針摺峠は道筋からは少し離れるが、現在針摺石が置かれている場所は、ほぼ線上に位置している。
実は、針摺石の在り処にたどり着くのに苦労したものだ。駅前の交番に訊いてもわからない。そんなはずはないと、一日を無駄にする覚悟を決めて歩き出したら、間もなく観音堂が見つかった。マンションなどが立ち並ぶ住宅街だが、よく観るとその道形が何とも古道の雰囲気をかもし出している。
針摺石は、観音堂の脇に据えてあった。石像が取り囲み、その一角は神域の様相。菅原道真の威徳は、周辺一帯に隈なく巡らされていることを実感させられた取材ではあった。
|