伝説紀行 五郎ヶ淵 日田市
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。 |
大分県日田市(旧大山町)
五郎ヶ淵(川向こうが目串の集落)
阿蘇外輪山に降った雨を集めて流れる大山川(筑後川の別称)が、やがて九重連山からの玖珠川と合流するすぐ手前のあたり(日田市)。国道212号沿いのドライブイン「木の花ガルテン」の裏手には、1キロにもわたって底なしの淵が連なっている。岸辺に 数ある淵の中の「五郎ヶ淵」もその一つ。ドライブインのすぐ裏手の、材木の集積所があったあたりがそうだ。水面から対岸を望むと数軒の民家が見える。お話しは、そんな深い淵の岸辺に住む人々の間に伝えられた、世にも不思議な出来事である。写真は、五郎ヶ淵(向こうの建物がドライブイン) 坊主がだんご欲しがる 時は江戸時代。ところは、山懐を流れる大山川を見下ろす目串村。村といっても、4軒しかない超ミニ集落である。人々は朝起きると、水辺に下りて淵の主にお供えをする。一度怒ると始末に終えなくなる主の心を鎮めるためである。 翌日もまたその翌日も 「だんごでよければ食っていけ」婆さんは、小麦を煉って作っただんごを、五つだけ竹の皮に置いた。 「うまかね、こげんうまかだんごば食うたのは生まれて初めてだ」 五郎は、同じことを何度も繰り返した。 翌日の昼下がりである。昼餉の仕度にとりかかったフエ婆さんの前に、再び五郎が現れた。「昨日食っただんごの味が忘れられんで…。すみまっせんばってん、もう一度あのうまかだんごば食べさせてください」ときた。 婆さんは、自分の作っただんごを誉められて嬉しくなり、今度は10個差し出した。ところがである。五郎の奴、そのまた翌日も現われた。 「どうしたんだい?まただんごかい?」 「うん」 「しようがなかね」、婆さんは独り言を呟きながら、また小麦粉を煉った。 「ご馳走さんでした」 五郎は、だんごを20個もたいらげて、勢いよく川に向かって走り出した。気になる婆さんが、後を追った。 跡をつけたら… 身の丈以上に生い茂る葦の葉を掻き分けているうちに、突然五郎の姿が消えた。葦林の向こうは、どす黒く澱む大川の淵であった。キツネに摘まれた気分で、フエ婆さんが岩場に座り込んだその時、1羽の水鳥が川の中から空に向かって飛び上がった。羽毛が真っ黒な 川鵜:体長80センチほどで両の翼を広げると150センチほどにもなる水鳥である。川魚を主食として本州と九州で繁殖する。最近では、観光用の「鵜飼い」として、原鶴温泉の風物詩にもなっている。 親切な町の長老が五郎ヶ淵を案内してくれた。「むかし、淵の深さは30尋(50b)もありました」と説明される。当時に比べて水深が浅くなったといっても、やっぱり五郎ヶ淵の底には主がいそう。 |