伝説紀行 五郎ヶ淵 日田市


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作:古賀 勝

第313話 2007年09月16日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

五郎ヶ淵の大鯰

大分県日田市(旧大山町)


五郎ヶ淵(川向こうが目串の集落)

 阿蘇外輪山に降った雨を集めて流れる大山川(筑後川の別称)が、やがて九重連山からの玖珠川と合流するすぐ手前のあたり(日田市)。国道212号沿いのドライブイン「木の花ガルテン」の裏手には、1キロにもわたって底なしの淵が連なっている。岸辺に(たたず)んで(よど)んだ水面を見つめていると、うっかり吸い込まれてしまいそうな恐怖さえ覚える。
 数ある淵の中の「五郎ヶ淵」もその一つ。ドライブインのすぐ裏手の、材木の集積所があったあたりがそうだ。水面から対岸を望むと数軒の民家が見える。お話しは、そんな深い淵の岸辺に住む人々の間に伝えられた、世にも不思議な出来事である。
写真は、五郎ヶ淵(向こうの建物がドライブイン)

坊主がだんご欲しがる

 時は江戸時代。ところは、山懐を流れる大山川を見下ろす目串村。村といっても、4軒しかない超ミニ集落である。人々は朝起きると、水辺に下りて淵の主にお供えをする。一度怒ると始末に終えなくなる主の心を鎮めるためである。
 生まれてこの方目串を離れたことのないフエ婆さんもその一人だ。10年前に亭主に死に別れた後、猫の額ほどの畑を耕しながら、一人暮らしをしている。
その日も、爺さまが眠る墓に供えるだんごを作っているところだった。
「うまそうだな、お婆ちゃん。俺にも一つくれないか」
 顔を上げると、10歳を過ぎたくらいの男の子が立っていた。
「五郎というんだ。高瀬の向こうから魚獲りにきたんだが、腹が減って…」
 少年は、断りもせずに婆さんの真向かいに座り込んだ。

翌日もまたその翌日も

「だんごでよければ食っていけ」
 婆さんは、小麦を煉って作っただんごを、五つだけ竹の皮に置いた。
「うまかね、こげんうまかだんごば食うたのは生まれて初めてだ」
 五郎は、同じことを何度も繰り返した。
 翌日の昼下がりである。昼餉の仕度にとりかかったフエ婆さんの前に、再び五郎が現れた。「昨日食っただんごの味が忘れられんで…。すみまっせんばってん、もう一度あのうまかだんごば食べさせてください」ときた。
 婆さんは、自分の作っただんごを誉められて嬉しくなり、今度は10個差し出した。ところがである。五郎の奴、そのまた翌日も現われた。
「どうしたんだい?まただんごかい?」
「うん」
「しようがなかね」、婆さんは独り言を呟きながら、また小麦粉を煉った。
「ご馳走さんでした」
 五郎は、だんごを20個もたいらげて、勢いよく川に向かって走り出した。気になる婆さんが、後を追った。

跡をつけたら…

 身の丈以上に生い茂る葦の葉を掻き分けているうちに、突然五郎の姿が消えた。葦林の向こうは、どす黒く澱む大川の淵であった。キツネに摘まれた気分で、フエ婆さんが岩場に座り込んだその時、1羽の水鳥が川の中から空に向かって飛び上がった。羽毛が真っ黒な川鵜(かわう)である。飛び上がった川鵜は、岸辺に生えている柳の木に止まった。ひと休みするとまた急降下。川の中の獲物を狙って格闘中のようだ。
 水中と柳を何度も往復した後、川鵜は上流の鯉ヶ淵に向かって飛び去った。その直後である。川鵜が潜っていた水面に真っ赤な血潮が噴出したのは。その後人間の子供ほどもある大きな魚がプカリと浮いた。巨大なマスであった。
 フエ婆さんが、既に息絶えている大マスを岩場に引き上げてみると、裂かれたお腹から小麦粉を煉って丸めただんごが20個も出てきた。
「毎朝お供えしている『淵の主」ちゃ、こんマスのこつじゃったばいね。あたしのだんごが川鵜にまで好かれたちゃね」とは、フエ婆さん。
 そんなこともあってか、目串の辺りでは、小麦粉を煉ってつくっただんごのことを「ゴロウ」と言い、婆さんの家の下のことを「五郎ヶ淵」と呼ぶようになったそうな。
(完)

川鵜:体長80センチほどで両の翼を広げると150センチほどにもなる水鳥である。川魚を主食として本州と九州で繁殖する。最近では、観光用の「鵜飼い」として、原鶴温泉の風物詩にもなっている。

 親切な町の長老が五郎ヶ淵を案内してくれた。「むかし、淵の深さは30尋(50b)もありました」と説明される。当時に比べて水深が浅くなったといっても、やっぱり五郎ヶ淵の底には主がいそう。
 すぐ上流に二段構のダムができて、大山川の様相も変わってしまった。「穴があいている大きな岩がいくつも見えるでしょう。あれは、60年前まで山から伐り出した材木を流す水路を示すための目印を立てていた跡です。伐り出した木を川に落とし込み、男たちが竿で操って、目印を頼りに下流の日田まで運ぶとです」。「それから日田で筏を組んで、河口の大川などへ運ぶんですね」。「昭和28(1953)年に夜明ダムができるまで、材木の運搬手段は水路でしたから」
 子供の頃、下流域で見ていたあの筏流しの原点はここにあったんだ。過ぎ去ったことばかり話していても仕方がないと、「大山町は自然が豊かでいいところですね」と話を向けたら、「そうでもなかですよ。以前は一村一品で梅の生産が盛んじゃったが、今ではね。若者がおらんようになって…」、「それでも、見渡す限りのすばらしい杉や檜が…」と語りかけると、長老はしばし黙り込んで、「木材を伐り出しても、いくらにもなりまっせんけん」と、深いため息をつかれた。

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