伝説紀行 潮見川のカッパ 佐賀県武雄市


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作:古賀 勝

第311話 2007年08月26日版
再編:2019.08.31

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。
カッパの誓文石

武雄市

伝説資料
奈良時代年表


カッパに護られる証文石

 佐賀県武雄市の東部、長崎自動車道と国道498号が交わるあたりにという名の町がある。町を横切って流れるのが潮見川。別名「六角川」といい、白石平野を蛇行しながらやがて有明海に注ぐ。
 潮見川岸辺の潮見神社では、お相撲の土俵入りよろしく、十数体のカッパが整列して迎えてくれた。潮見川の土堤を上ろうとすると、大小さまざまなカオを持つカッパどもが行く手を遮った。
 並み居る連中をかき分けてさらに進むと、大きな石が大事そうに置かれている。 「カッパの誓文石」だと。
  ここのカッパは、そんじょそこらの田舎ものではなさそうだ。もとを正せばれっきとした都人ならぬみやこカッパなのである。

棲家の潮見川

 村の青年太助が、ほろ酔い加減で潮見川の土堤を歩いていると、前方で動き回る二つの物体が。「あっ、カッパだ!」、思わず声を発してしまったもので、カッパたちの動きも止まった。


橘町を流れる潮見川。架かっている橋は、九州自動車道


「ひ〜、ひ〜」、何やら叫び声を上げながら、天空の月を背にして迫ってきた。その数100匹は下らない。頭のお皿が特徴の生き物だが、水掻きつきの長い両手を差し伸べながら太助に迫ってきた。
「ひやー、助けてくれ〜」
 村一番の力持ちと言われた男でも、カッパにだけはからきしだらしない。姿を見られたらとり憑いてしまうカッパの習性を聞かされていたからだ。
「待たっしゃい、お前ら!」
 遥か、浮橋(現上野橋)の方から雷のようなダミ声が落ちてきた。途端に、カッパたちは潮見川に飛び込んだ。援けてくれたのは、潮見神社の宮司だった。
 現在の武雄市橘町を「下村」と呼んでいた鎌倉時代のある夏のことであった。

カッパを庇う神主さん

「あいつらに悪気はないのだが…」
 宮司の毛利さんは、ブツブツ独り言を呟きながら、太助を従えて歩き出した。
「カッパに悪気がなかち、どげんしてそがんかこつがわかるとですか?」
 太助は、自分を窮地に追い詰めたカッパを庇う神主さんが憎らしかった。
「この石をよっく見なさい」
 神主が案内したのは、田んぼの中に転がっている大きな石だった。
「たかが石じゃなかですか。こがんかもんが、あん悪さもんのカッパとどげな関係があっとですか?」
「なるほど。凡人のお前には、この石に刻まれた文字なんぞ読めんじゃろな」
 見下したように言われて、太助の腹の虫がますます騒いだ。
「腹かく前に(怒る前に)わしの話をよっく聞け!」
 今度は、毛利さんが先ほどの何倍も大きなダミ声で太助の怒りを鎮めた。
「潮見川のカッパはな…」、神主さんの長い長いお話が始まった。(要約すると)

木製人形が変身

 潮見川のカッパは、もとはといえば京の都に棲んでおった。「何でまた、都のカッパが九州くんだりまでやって来たのか?」と言えば、ご主人と仰ぐ橘公業(たちばなのきみなり)さまが転勤されるに際して、ついてきたというわけさ。橘公業さまは、知る人ぞ知る我が潮見城の初代城主なのである。
「たかがカッパごときが、どうしてそげな偉いお方の家来なのか?」と言えば…。
 時代は更に奈良時代まで遡る。聖武天皇よりの姓をいただき、左大臣にまで上りつめた橘諸兄(たちばなのもろえ)という人の孫で、兵部大輔島田麿というお人がおった。彼には時の女帝(称徳)より、常陸国鹿島に鎮座する春日の神を奈良の春日山に(うつ)すよう命令が下された。
 島田麿さまは、難事業を成し遂げるために、大工の棟梁に命じて99体の働き人形を造らせなさった。出来上がった木製の人形に生命を与えて働かせ、無事春日神を奈良の都にお連れすることができたんだって。工事が終ると島田麿さまは、用済みの人形を川に流された。それが、太助を取り囲んだカッパの先祖なのじゃ。
「だから、…なんで奈良のカッパが、この下村におるのか?」と言えば…。

主人といっしょに九州へ

 川に放たれた99匹のカッパは、もう1匹足して、100匹の集団を創りたかった。そこで、人間の子供を拉致しようと目論んだのだ。そのことを知った島田麿さまは、カッパどもに言い放たれた。「人間の子供の拉致計画をやめれば、お前らをわが家来にとりたてる」と。有頂天になったカッパどもは計画を破棄して、誇らしげに都での暮らしを楽しんだ。
 時代は下って、鎌倉時代に。嘉禎3(1237)年、島田麿さまのご子孫である橘公業(たちばなのきみなり)さまは、眷属(けんぞく)(家来)である99匹のカッパを連れて肥前国へ転勤なされた。


「ばってんですよ、宮司さま。都から来たカッパとここにある巨石と、どげな関係があっとですか?」
「黙って最後まで話を聞かっしゃい。九州に来てからというもの、再びカッパどもの拉致計画が頭をもたげた。カッパに対する求心力を削がれていなさる公業さまは、潮見川のことに詳しいわしの祖父さまに相談された。祖父さまは早速カッパどもを集め、話し合った末にある約束事を決めなさったんだそうな」
「わかりやした。それがこの大きな石ってわけですね。ばってんですよ、この石にはそがんかこつは何にも書いてはなかですよ」
 太助は、思考が迷路に迷い込んで、頭をボリボリ掻き(むし)った。

「見えんかのう、凡人の太助には。仕方がないからわしが読んでやろう。河童たちよ、この石に花が咲いたら、人間一人をくれてやろう。それまでは、決して人間に害を与えてはならないと書いてあるんだよ」
「ばってんカッパは、誓文に違反して俺に危害ば加えようとした…」
 納得いかない太助は、田んぼの中の誓文石の周りをぐるぐる回った。気がつくと、いつの間に現われたのか、カッパどもが遠巻きにしている。「ヒー、フー、ミー」、数えたら99匹だった。
「太助なんか拉致するもんか。村一番の力持ちちいうけん、どげなもんか試してみただけちゃ。やーい、太助の弱虫…」
 99匹のカッパどもは、囃し立てながら次々と潮見川に飛び込んでいった。(完)

 苔むした潮見神社から潮見川縁に出てたまげた。カッパ、カッパのオンパレードだ。資料には、証文石のことを「田んぼの中の巨石」と案内してあったが、ちゃんとした道があって、囲いもしてある。今では、武雄市橘町のシンボルなのだからさもあらん。
 こちらではカッパのことを、「大工の弟子」とか、「
兵主部(ひょうすべ)」とも言うそうな。橘町ならではの、命名である。
 太助には見えなくても俺の目にはと、囲いの中の証文石を見つめたが、やっぱりただの大きな石だった。やっぱり俺も凡人かと、通りがかりのお年寄りに尋ねてみた。
「宮司さんのところには、カッパとの約束を記した呪文が残っているそうですよ」だと。その文句。

兵主部よ、約束せしは忘るなよ、川立つおのこ、跡はすがわら
「ここらへんでは、川泳ぎをするときこの呪文を唱えると、溺れないと言い伝えられとります」だって。写真は、潮見神社に勢ぞろいしたカッパたち

 やっぱり気になるのが証文の内容だ。「石に花が咲いたら…」なんて、現実を無視した条件を付ける人間側のずる賢さよ。恥ずかしい、カッパさん。
 それにもう一つ。カッパって奈良時代から生き続けているのかな。それなら、確実にギネスブックものだよ。

橘家橘家は、古代の名家である。敏達天皇の子孫美努王(みぬのおう)の妻であった県犬養美千代(あがたいぬかいのみちよ)が、706年橘宿祢の姓を賜り、736年その子葛城王(かずらぎおう)も臣籍に降下して橘諸兄と称す。諸兄の子奈良麻呂が757年に反乱を起こして(橘奈良麻呂の乱)一時衰えたが、平安前期に嵯峨天皇の皇后嘉智子を出して再興。
橘諸兄:684-757 奈良時代の政治家。母は県犬養美千代。初め葛城王。736年、臣籍に降下。翌年疫病流行して4卿がが相次いで病没すると、右大臣に進んで政権を掌握、行政改革を断行。恭仁京への遷都を主導し、正一位左大臣に至ったが、次第に藤原仲麻呂に圧倒され、756年辞任。


この地に大豪雨


孤立した病院や住宅(蛇行しているのが六角川)

 2019年8月28日未明から、1時間100ミリ以上の強烈な降雨が佐賀地方を襲った。中でも、本編の汐見川から有明海までの六角川(汐見川)流域の被害は半端じゃなかった。特に10キロ下った大町町では、大きな病院が孤島と化し、100名以上の入院患者がベッドから動けなくなってしまった。周辺の住宅も、2メートル近い冠水で動きがとれず、消防や自衛隊などが大型のゴムボートで救助する姿を映し出す生中継が目に焼きつけられた。
 汐見川のカッパ連が、救助や復興にどれほどの貢献をしたか、気になるところではある。(2019年8月31日)

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