曽我十郎の恋人
大磯の虎遺跡
佐賀県小城市
殿の腰掛石と曽我兄弟卒塔婆
佐賀県を代表する高山・天山(1046b)の麓に建つ古刹、雲海山岩蔵寺を訪ねた。JR小城駅から祇園川を北に4キロほど登ったところにある。大雨の後の寺内は、苔が瑞々しく、油断をするとスッテンコロリンといきかねない。寺の裏手の小径で、「曽我兄弟の霊位」と墨書された卒塔婆を見つけた。塔婆の脇には、大きな岩が一つ転がっている。「曽我十郎が腰掛けていた石」だとのこと。
日本三大敵討ちの一つとして、はたまた歌舞伎などであまりにも有名な曽我兄弟が、遥か九州の岩蔵の里とどのような縁があるというのか。ご住職の奥さまに案内してもらった。
恋しい人の居場所
鎌倉幕府が成立して20年の歳月が流れた頃。鬱そうとした森の中で、剃髪した美しい女性が滔々と流れ落ちる滝に打たれている。僅かに開かれた口許から発する呪文は、切ない願いばかりだった。
「菩薩さま、何とぞ曽我十郎祐成殿のもとへお導きくだされ」
祈りが通じたか、滝の上に観世音菩薩が立たれた。
「そこな女子よ。そなたが会いたいと願う祐成もまた、彼方の世からまいって、そなたと再会する日を待っておる」
「ありがたきお言葉。して、十郎殿はいずこに?」
「これなる清水川を下って…」写真は、大磯延台寺の虎御前像
ひと時も忘れたことのない愛しいお方が、すぐそこで私を待っていてくれる。尼は、待たせていた郎党の鬼王と駄三郎をせきたてて、川下の岩蔵寺を目指した。尼の俗名は虎という。東海道の箱根路では、「大磯の虎」としてその名を知られた遊女であった。
巻狩りの夜に本懐を
あれは、鎌倉幕府ができて間のない頃だった。虎女は、たまたま客となった曽我十郎祐成とただならぬ恋に落ちた。十郎の父は、もとを正せば伊豆半島東海岸地方の領主であった。 それから3年、虎が20歳の時、十郎からある重大な計画を打ち明けられた。弟の曽我五郎時致とともに、亡き父の敵・工藤祐経を討つ計画であった。工藤祐経といえば、天下に号令を発する源頼朝の御家人ではないか。
「間もなく、富士の裾野で頼朝さまの巻狩りが催されるとのこと」
お虎が、十郎に告げた。虎女は兄弟の本懐を成就させるために、客との会話などから工藤祐経の動向を探っていたのだった。
いよいよ決行の夜、虎女は母親の形見の小袖を十郎に手渡した。
「あちらの世界では、これなる小袖を身につけてくださいますよう」と。
「しからば、我らの郎党二人をそなたに授けよう。これなる鬼王と駄三郎は、そなたへのいかなる危機をも救ってくれるし、いつでも私に会わせてくれる」
虎女に別れを告げた十郎は、その夜のうちに弟の五郎と連れ立って、狩り場の工藤祐経の寝室に忍び込んだ。建久4(1193)年の5月28日(陰暦)深夜であった。
巻き狩り:狩り場を四方から取り巻き、獣を追い詰めて捕えること。
小袖:袖の小さい着物。
浄土への道
曽我兄弟による仇討ちの報は、駄三郎によってもたらされた。
「して、十郎さまと五郎さまは?」
咳き込むように質す虎女に、駄三郎がうな垂れた。十郎は、頼朝家臣の仁田忠常によりその場で首を撥ねられ、五郎も囚われの身になったとのこと。
「めでたや、めでたや」と口では言っても、彼女の顔は寂しさに打ちひしがれていた。その日のうちに、黒髪をおろして信濃の善光寺へ。そこから、鬼王と駄三郎を従えての諸国行脚が始まったのであった。たどり着いた博多の寺で、住職から勇気付けられる言葉を聞いた。「南に横たわる背振の峰を越え、更に南の山を渡れば、浄土に繋がる道が広がっておる。そこには、そなたの願いを聞き届けてくださる観音さまがおわす」と。写真は、現在の岩蔵寺本堂
虎女と郎党は、険しい山道も厭わず、肥前の国に入った。清水の滝に打たれて、観世音菩薩から十郎との再会の場所を聞いた。岩蔵寺の住職は、虎女の願いを叶えるために、法華経を写経する加法経会を開いてくれた。経会10日目の夜、濛濛とたちこめる護摩焚きの煙の中に、再び観世音菩薩が現われた。
「これより、そなたが大事に持ち運んでいる小袖を着て坂を下りるのじゃ」
愛しい人は幻か
虎女は、大切に持ち歩いたあの時の小袖に手を通し、暗闇の外に出た。振り向くと、そこにいるはずの鬼王も駄三郎もいない。仕方なく一人で、祇園川までの坂道を、月の光を頼りに下りていった。川の縁まで間もなくのところで、腰を下ろしている男が目に入った。
声をかけようとして思いとどまった。向こうを向いている人の着物を見たからである。自分が着ている小袖と一対のものであった。
「もしや、貴方は…、十郎祐成さまでは…」
足元の不安定さもかまわずに駆け出した。近づいてみるとそこに人影はなく、大きな石が転がっているだけだった。
「そなたが目にしたお方は、けっして幻ではないぞ」と、謎めいた事を説く住職。虎女は昨夜の不思議な出来事を鬼王と駄三郎にも質した。二人はただ、「仏さまが引き合わせてくれたのです」と答えるだけだった。
「もしかして…」、虎女は、十郎の後姿が身近な誰かに似ているような気がした。そう言えば、観音さまのお姿も…。だが、そのことは生涯胸のうちに封印することに決めて、懐かしい大磯への帰路につくのであった。
虎女から十郎祐成の話を聞いた住職は、その場に「曽我兄弟之霊位」と書いた卒塔婆を立てた。十郎が後ろ向きに座っていたという岩には、「殿の腰掛石」と名づけた。虎女の切ない恋を哀れんでの、住職のせめてもの情けの表し方であった。(完)
小城市と曽我兄弟(虎御前)の因縁を知りたくて、岩蔵寺を訪ねた。岩蔵寺は、西暦803(延暦22)年の創建だというから、まさしく古刹である。案内してくださった住職の奥さんは、「ずっとむかしの寺は、ここから600b登ったところでした」と説明。それで虎女が十郎の幻に出会うシーンが裏付けられた。「いろいろな資料があったのですが、十数年前に心無い者の放火でみんな灰になってしまいました」と、僕の要求を先取りして釈明なさった。
苔むした寺の周囲には、無数の石仏が祭られている。「そんなに多くない」とおっしゃる檀家の皆さんが、熱心に寺を守ってきた様子が伺えるというものだ。
それではどうして、曽我の敵討ちや虎御前と郎党の話が、箱根路から遠く離れた九州の小城市に伝わったのか。これまた推測なのだが、行脚に出た虎女と郎党が、兄弟による敵討ちを正当化するために、諸国に広げていったものではなかろうか。そうなると、虎女と鬼王・駄三郎は、本当に岩蔵寺を訪ねたことになるのだが。
虎女らによる「曽我の敵討ち」の吹聴は、江戸時代になって歌舞伎や能の世界に発展し、さまざまな形で今日の「曽我の演題」を造形した。お芝居では、大磯の虎女が、「江戸吉原の遊女揚巻」に代わり、恋人祐成は弟の五郎と入れ替わって、「花川戸助六」と名を変え、「助六由縁江戸桜」として、市川団十郎のお家芸となった。また、いなり寿司と巻き寿司の詰め合わせを「助六」というのも、お芝居見物弁当などから誕生したものだろう。
大磯の虎女に関わる話としては、「虎が雨」という言葉がある。広辞苑によれば、「陰暦5月28日に降る雨」のことだそうで、5月28日といえば曽我兄弟が工藤祐経を討って本懐を果たした後、殺害された日である。「悲報を聞いた虎女が流した涙が雨となって降っている」のだと伝わっている。
名画・東海道五十三次中、「大磯の虎の雨」も、安藤広重が虎女に同情して画題に加えたもの。そのほか、虎女が生涯を供養に努めた大磯の延台寺(虎の菩提寺)では、今日に至るも虎御前を偲ぶ祭りが続いているという。
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