伝説紀行 曽我十郎の恋人 佐賀県小城市 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第309話 2007年07月15日版

2007.12.02
2008.04.06

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

曽我十郎の恋人

大磯の虎遺跡

佐賀県小城市


殿の腰掛石と曽我兄弟卒塔婆

 佐賀県を代表する高山・天山(1046b)の麓に建つ古刹、雲海山岩蔵寺(うんかいざんがんぞうじ)を訪ねた。JR小城駅から祇園川を北に4キロほど登ったところにある。大雨の後の寺内は、苔が瑞々しく、油断をするとスッテンコロリンといきかねない。寺の裏手の小径で、「曽我兄弟の霊位」と墨書された卒塔婆(そとば)を見つけた。塔婆(とば)の脇には、大きな岩が一つ転がっている。「曽我十郎が腰掛けていた石」だとのこと。
 日本三大敵討ちの一つとして、はたまた歌舞伎などであまりにも有名な曽我兄弟が、遥か九州の岩蔵(いわくら)の里とどのような(ゆかり)があるというのか。ご住職の奥さまに案内してもらった。

恋しい人の居場所

 鎌倉幕府が成立して20年の歳月が流れた頃。鬱そうとした森の中で、剃髪した美しい女性が滔々と流れ落ちる滝に打たれている。僅かに開かれた口許から発する呪文は、切ない願いばかりだった。
「菩薩さま、何とぞ曽我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)殿のもとへお導きくだされ」
 祈りが通じたか、滝の上に観世音菩薩が立たれた。
「そこな女子(おなご)よ。そなたが会いたいと願う祐成もまた、彼方の世からまいって、そなたと再会する日を待っておる」
「ありがたきお言葉。して、十郎殿はいずこに?」
「これなる清水川を下って…」写真は、大磯延台寺の虎御前像
 ひと時も忘れたことのない愛しいお方が、すぐそこで私を待っていてくれる。尼は、待たせていた郎党の鬼王と駄三郎をせきたてて、川下の岩蔵寺を目指した。尼の俗名は虎という。東海道の箱根路では、「大磯の虎」としてその名を知られた遊女であった。

巻狩りの夜に本懐を

 あれは、鎌倉幕府ができて間のない頃だった。虎女は、たまたま客となった曽我十郎祐成とただならぬ恋に落ちた。十郎の父は、もとを正せば伊豆半島東海岸地方の領主であった。   それから3年、虎が20歳の時、十郎からある重大な計画を打ち明けられた。弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)とともに、亡き父の敵・工藤祐経(くどうすけつね)を討つ計画であった。工藤祐経といえば、天下に号令を発する源頼朝の御家人ではないか。
「間もなく、富士の裾野で頼朝さまの巻狩りが催されるとのこと」
 お虎が、十郎に告げた。虎女は兄弟の本懐を成就させるために、客との会話などから工藤祐経の動向を探っていたのだった。
 いよいよ決行の夜、虎女は母親の形見の小袖を十郎に手渡した。
「あちらの世界では、これなる小袖を身につけてくださいますよう」と。
「しからば、我らの郎党二人(ににん)をそなたに授けよう。これなる鬼王と駄三郎は、そなたへのいかなる危機をも救ってくれるし、いつでも私に会わせてくれる」
 虎女に別れを告げた十郎は、その夜のうちに弟の五郎と連れ立って、狩り場の工藤祐経の寝室に忍び込んだ。建久4(1193)年の5月28日(陰暦)深夜であった。

巻き狩り:狩り場を四方から取り巻き、獣を追い詰めて捕えること。
小袖:袖の小さい着物。

浄土への道

 曽我兄弟による仇討ちの報は、駄三郎によってもたらされた。
「して、十郎さまと五郎さまは?」
 咳き込むように質す虎女に、駄三郎がうな垂れた。十郎は、頼朝家臣の仁田忠常によりその場で首を撥ねられ、五郎も囚われの身になったとのこと。
「めでたや、めでたや」と口では言っても、彼女の顔は寂しさに打ちひしがれていた。その日のうちに、黒髪をおろして信濃の善光寺へ。そこから、鬼王と駄三郎を従えての諸国行脚が始まったのであった。たどり着いた博多の寺で、住職から勇気付けられる言葉を聞いた。「南に横たわる背振の峰を越え、更に南の山を渡れば、浄土に繋がる道が広がっておる。そこには、そなたの願いを聞き届けてくださる観音さまがおわす」と。写真は、現在の岩蔵寺本堂
 虎女と郎党は、険しい山道も厭わず、肥前の国に入った。清水の滝に打たれて、観世音菩薩から十郎との再会の場所を聞いた。岩蔵寺の住職は、虎女の願いを叶えるために、法華経を写経する加法経会(かほうきょうえ)を開いてくれた。経会10日目の夜、濛濛とたちこめる護摩焚きの煙の中に、再び観世音菩薩が現われた。
「これより、そなたが大事に持ち運んでいる小袖を着て坂を下りるのじゃ」

愛しい人は幻か

 虎女は、大切に持ち歩いたあの時の小袖に手を通し、暗闇の外に出た。振り向くと、そこにいるはずの鬼王も駄三郎もいない。仕方なく一人で、祇園川までの坂道を、月の光を頼りに下りていった。川の縁まで間もなくのところで、腰を下ろしている男が目に入った。
 声をかけようとして思いとどまった。向こうを向いている人の着物を見たからである。自分が着ている小袖と一対のものであった。
「もしや、貴方は…、十郎祐成さまでは…」
 足元の不安定さもかまわずに駆け出した。近づいてみるとそこに人影はなく、大きな石が転がっているだけだった。
「そなたが目にしたお方は、けっして幻ではないぞ」と、謎めいた事を説く住職。虎女は昨夜の不思議な出来事を鬼王と駄三郎にも質した。二人はただ、「仏さまが引き合わせてくれたのです」と答えるだけだった。
「もしかして…」、虎女は、十郎の後姿が身近な誰かに似ているような気がした。そう言えば、観音さまのお姿も…。だが、そのことは生涯胸のうちに封印することに決めて、懐かしい大磯への帰路につくのであった。
 虎女から十郎祐成の話を聞いた住職は、その場に「曽我兄弟之霊位」と書いた卒塔婆(そとば)を立てた。十郎が後ろ向きに座っていたという岩には、「殿の腰掛石」と名づけた。虎女の切ない恋を哀れんでの、住職のせめてもの情けの表し方であった。(完)

 小城市と曽我兄弟(虎御前)の因縁を知りたくて、岩蔵寺を訪ねた。岩蔵寺は、西暦803(延暦22)年の創建だというから、まさしく古刹である。案内してくださった住職の奥さんは、「ずっとむかしの寺は、ここから600b登ったところでした」と説明。それで虎女が十郎の幻に出会うシーンが裏付けられた。「いろいろな資料があったのですが、十数年前に心無い者の放火でみんな灰になってしまいました」と、僕の要求を先取りして釈明なさった。
 苔むした寺の周囲には、無数の石仏が祭られている。「そんなに多くない」とおっしゃる檀家の皆さんが、熱心に寺を守ってきた様子が伺えるというものだ。
 それではどうして、曽我の敵討ちや虎御前と郎党の話が、箱根路から遠く離れた九州の小城市に伝わったのか。これまた推測なのだが、行脚に出た虎女と郎党が、兄弟による敵討ちを正当化するために、諸国に広げていったものではなかろうか。そうなると、虎女と鬼王・駄三郎は、本当に岩蔵寺を訪ねたことになるのだが。
 虎女らによる「曽我の敵討ち」の吹聴は、江戸時代になって歌舞伎や能の世界に発展し、さまざまな形で今日の「曽我の演題」を造形した。お芝居では、大磯の虎女が、「江戸吉原の遊女
揚巻(あげまき)」に代わり、恋人祐成は弟の五郎と入れ替わって、「花川戸助六」と名を変え、「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」として、市川団十郎のお家芸となった。また、いなり寿司と巻き寿司の詰め合わせを「助六」というのも、お芝居見物弁当などから誕生したものだろう。
 大磯の虎女に関わる話としては、「虎が雨」という言葉がある。広辞苑によれば、「陰暦5月28日に降る雨」のことだそうで、5月28日といえば曽我兄弟が工藤祐経を討って本懐を果たした後、殺害された日である。「悲報を聞いた虎女が流した涙が雨となって降っている」のだと伝わっている。
 名画・東海道五十三次中、「大磯の虎の雨」も、安藤広重が虎女に同情して画題に加えたもの。そのほか、虎女が生涯を供養に努めた大磯の延台寺(虎の菩提寺)では、今日に至るも虎御前を偲ぶ祭りが続いているという。

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