屋永の権現さま
甘木市下屋永
本家を真似たという屋永の熊野権現拝殿
旧甘木市街から田主丸町に通じる県道が佐田川を跨いだあたり、左手に屋永の集落が見えてくる。江戸時代には秋月藩に属した屋永村である。村の中心に「熊野の権現さま」が祀られている。細長い参道を通過すると、見上げるほどの楠の大木が2本。相当古いお宮さんらしく、何やら深い理由が隠されていそう。
熊野詣の庄屋さんが
江戸時代のこと。下屋永では庄屋の保順さんが熊野詣にでかけたまま、帰郷予定からひと月たっても帰って来ない。頼りにするお方にもしものことがなければよいがと、村人が一様に落ち着かない日々を送っていた。そんな時、保順さんが疲れ果てた姿で屋敷に戻ってきた。
「いやあ、大変な目に遭いましてな」
保順さんが話すには。筑前を出て、紀伊国に入るまでの旅は順調だった。参道(現熊野古道)も熊野詣の人々で賑わっていて不安はなかった。ところが気がつくと、すっかり陽は落ちて周辺から旅人の姿が消えている。灯りを頼りに雨戸を叩くと、優しそうなお婆さんが出迎えてくれて、快く2階の部屋に案内してくれた。
噂の山姥に捕らわれ
「ぶるっ」と震えて目を覚ました保順さん。雨戸の隙間から見える外は一面の銀世界だった。温暖な九州しか知らない保順さんの目には、幻想的な雪明りの夜景が極楽浄土に見えた。うっとり見とれているその時、「ゴトゴト」と階下で包丁を使う音がする。朝ご飯の準備にはまだ早い時間帯だと思いながら障子を開けてびっくり仰天。
何と、昨夜出迎えてくれた老婆が、特大のまな板に乗せられた全裸の男を切り刻んでいるではないか。あの人懐っこいお婆さんの面影はなく、口が耳まで裂けた夜叉に変身している。
「山姥だ!」。噂には聞いていた。それがこともあろうに、自分が捕らわれることなるなんて…。「何とかここを逃げ出さなければ食べられる」。だが、飛び降りるには危険すぎる二階家であった。境内の池
「わしの運命もこれまでか。せっかく明日には権現さまにお目通りが叶うというに」、悲嘆にくれる保順さんに、隣の部屋から囁くものがいた。
逃れて権現さまへ
「窓際にあるものを伝って降りるのです」
言われるままに雨戸を開けると、目の前に綿帽子みたいな雪を被った孟宗竹が首を垂れていた。権現さまへのお供え銭を入れた風呂敷包みを大切に腰に巻きつけると、夢中で孟宗竹に飛び移った。写真は、熊野那智大社方面から望む那智の滝
「待てえ」、腰まで埋まる雪に難儀しながら逃げる保順さんを、真っ赤な口をあけて夜叉女が追ってくる。「そこにある、倒木に跨りなされ」、再び先ほどの声が保順さんの耳に届いた。言われるままに跨ると、木は熊野川に向かって一直線に滑り落ちていった。
心地よいせせらぎの音で目を覚ました保順さん。既に陽は高く昇っている。「これが権現さまに通じる熊野川か」。しばし、向こう岸に見える幻想的な滝の美しさに見とれた後、参道に戻って熊野速玉大社を目指した。先祖代々信仰してきた権現さまに、無事会える嬉しさで涙が止まらなかった。
さて、援けてくれたお方は
「よくぞ、ご無事で…」
話を聞いている村人の目にも涙が浮かんでいる。
「それにしても遅かったですね、お帰りが…」
「お参りをすませて気がつくと、山姥の宿から逃げる際に負った傷が深くてな。勝浦の湯治場で時を過ごしていたというわけさ」
保順さんの話は、村人の心を惹き付けて止まなかった。
「ところで、庄屋さん。山姥の宿から援け出してくれた声の主とはいったい…?」
「それが、未だにわからんのだよ。確かに男の人の声だったが、2度とも姿は見えなかった」
「そのお方、ひょっとして権現さまの仮のお姿じゃなかね。大庄屋さんが熱心に信仰なさるから…」
「それなら、権現さまは屋永の村を救ってくださった命の恩人たい。もっと大切にお守りせねば」
庄屋と村人は大工の吉次を熊野まで派遣して、権現さまとそっくりの社を建てさせた。それが、現在下屋永に残る熊野権現神社の始まりだとか。狛犬や牛の像、それに池の形まで本家にそっくりだとか。それに何といっても、村中を見渡せる大木まで熊野のご神木に似ているというから念がいっている。お陰で屋永の人たちは、熊野まで出かけずとも、崇拝する権現さまを毎日拝めるようになったんだと。
権現:仏・菩薩が衆生を救うために、種々の身や物を仮に現すこと。権化。本地垂迹説では、仏が化身してわが国の神として現われること。また、その神の身。熊野の三所権現・山王権現の類。(広辞苑)
熊野三山:平安時代から始まった熊野信仰の象徴。熊野本宮大社(和歌山県田辺市)、熊野速玉大社・熊野那智大社(以上和歌山県新宮市)をまとめて「熊野三山」と称している。皇室から庶民まで、こぞって熊野詣に出かけたため、「蟻の熊野詣」とまで言われたそうな。天照大神などを御神体としている。平安期以降は熊野全体が浄土の地であるとみなされてきた。
我が筑紫次郎のエリアにも、「熊野」とか「権現」の名がつくお宮さんや山がたくさんある。遥か九州の地からも、古くは平安時代から熊野詣が盛んだった証拠だろう。
屋永の権現さまは、北に寺尾ダムから流れくる佐田川、南を九州一の大河(筑後川)に挟まれた豊かな田園の中に建つ。熊野の権現を信仰してきた村人たちにとって、保順さんのお話しは、疑う余地のないものだったかもしれない。(写真は、熊野権現の参道)
筆者も10年前に一度だけ熊野三山にお参りしたことがある。大阪から奈良県の十津川村を経由して、無数の滝が落ちる熊野川を下り熊野灘に出たことを思い出した。朱色も鮮やかな那智の大社や貫禄十分の速玉大社に、日本人の心の支えの一端を思い知らされた気がした。それより何より、那智の滝の美しかったこと。
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