伝説紀行 長厳塚由来 朝倉市(杷木町) 作:古賀 勝


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作:古賀 勝

第305話 2007年06月10日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

六部の予言

長厳塚の由来

福岡県朝倉市(杷木町)

 
旧街道脇の長厳塚(階段上)

 通称朝倉街道(国道386号)は、むかしから筑前(福岡)と豊後(大分)を結ぶ重要な往還であった。この街道、江戸時代初頭に整備されるまでは、行き来するだけでも命がけだったらしい。特に、「杷木神籠石(はきこうごいし)」を越える鵜の木山の下は落差数十bの断崖をなし、大むかしは人がやっとすれ違えるほどの道幅しかなかったそうな(図面参照)。眼下には千歳川(筑後川の古名)の川幅いっぱいの怒涛が、落下する獲物を待ち受けている。
 江戸時代になると、荷車がやっと通れるまでに道幅が広げられた。現在では更に片道二車線の立派な国道が通り、眺めも安全も申し分がなくなった。現在の国道真上にある旧道の脇には、当時を偲ばせる「長厳塚(ちょうごんづか)」と記されたお(やしろ)が建っている。

陸奥の国から来た六部

 時は織田信長から豊臣秀吉と続いた安土桃山時代の終焉を迎えようとする頃である。
 筑前国の林田村(旧朝倉郡杷木町林田)の農家では、嫁のお里が夕餉の仕度に余念がない。玄関先で聞きなれない鈴の音がして出てみると、菅笠を冠り厨子を背負った60歳がらみの六部(六十六部の略称)が立っていた。
写真は、国道386号を旧朝倉街道と筑後川が挟む通称哭び坂付近。国道ができるまでは、右側山裾が左端の筑後川に張り出して直接断崖をなしていたと思われる。
「ご苦労様です」と、お里の傍らをすり抜けるようにして姑のツネが、一掴みの米を差し出した。六部の鼠木綿(ねずみもめん)の着物も脚絆(きゃはん)も破れ放題で、疲れきった様子。
「遠慮はいらんから、家に入って休んでいきなっせ」
 長厳(ちょうごん)と名乗る行脚僧(あんぎゃそう)が、親切なおかみさんに両手を合わせて感謝した。
「私の生国は遠い陸奥(みちのく)でしてな。老いが気になりだしてから、六十六ヶ所巡礼を思い立った次第で…」
 僧は、出された白湯(さゆ)をすすりながら身の上を語った。
「諸国六十六ヶ所の寺に法華経を納め終わり、もうこの世に思い残すことは何もありません」

六部(六十六部とも)とは、巡礼となって書写した法華経を全国66ヶ所の霊場に1部ずつ納めるために諸国の社寺を遍歴する行脚僧のこと。鼠木綿の着物に手甲・甲掛・脚絆も同色のものを用い、死後の冥福を祈るため鉦を叩き、鈴を振り、或いは厨子を負い、家ごとに銭を乞い歩いた。(広辞苑)
法華経とは、正法華経・妙法連華経をいう。(広辞苑)

身を捧げて民を救う

 そこで、長厳坊が話題を替えた。
「お世話になったこの世へ、置き土産をと考えておりましてな」
 変なことを言うお人だと思いながら、ツネとお里は聞いていた。
「この世への置き土産なぞ、聞いたこともありませんが…。その土産がどんなものか、よかったら聞かせてくれんかの」
「今しがた、日田の方から大川沿いにやってくる山道で、旅のお人が真下の大川に転落するのを見たのです」
「ああ、いつものことですよ。今年に入ってからだけでも、千歳川(筑後川)に落ちた人の遺体がいくつ上がったことか。わたしら地のもんでも、えずうして(怖くて)、あん鵜の木山の下の道はなかなか通らんもんね」
 お里が(ぬる)くなった白湯(さゆ)を取替えにいく間、長厳坊は大川の流れを見つめていた。
「旅人や村の衆が、安心して往来できる道にしてもらうために、私の生身を仏に捧げようと思うのです」(即身成仏)
 行脚僧の言っている意味がわからずに、2人は互いに顔を見合わせた。
「あの、狭い道端の土中に私の体を埋めてもらい、そこで仏に道幅を広くしてくれるようお願いするのです」

即身成仏:人間がこの肉身のままで仏になること。天台宗と真言宗で説く。

土中から念仏

 自分の体を生きたまま土中に埋めることがどんなことか、ツネとお里は考えるだけで震えが止まらなくなった。
「私がこれから申すことをよく覚えていてください。私が埋められる場所が、幅の広い往還に生まれ変る時に役立つのです。それから…」
「……」
「その後に、私は必ず生まれ変ります。そうなったら、このクソ坊主の言ったことを思い出してください」
 ツネは、長厳坊に説き伏せられて、村長(むらおさ)の協力を仰ぐことになった。
 慶長4(1599)年10月18日(旧暦)、村の住民のほとんどが鵜の木山の下に集合した。秀吉が没し、天下分け目の関ヶ原の合戦が始まる前年のことであった。村の男衆は、長厳坊に言われるまま、道端に大きな穴を掘り、そこに人間が一人入れる大きさの木の箱を下ろした。坊が息をするための命綱として長い竹の筒も用意された。

世が代わり道もでき

 それから21日が経過した後、地上に飛び出した竹の筒から、長厳坊の読経や鉦の音が聞こえなくなった。村人は、黄泉(よみ)の世界に旅たった長厳坊の塚に向かって手を合わせた。
 そして翌年には天下分け目の関ヶ原合戦。徳川の世になると、筑前福岡の大名には黒田長政が着任した。長政は、最初の仕事として藩領内外を結ぶ街道の整備に着手した。その最大の工事が日田街道、つまり「朝倉街道」の拡幅と整備だったのである。やがて、狭い鵜の木山の下の道幅が、荷車が自由に通れる広さにまで拡幅されることになった。当然、長厳の墓も移動しなければならない。
「お母しゃん、あの(ぼん)さんの言よらしたこつは、ほんなこつ(本当)じゃったばい」
 お里は、かつて長厳坊が言い残した、「私が埋められる場所が、数年先に幅の広い往還に生まれ変る時に役立つのです」を思い出している。
「これも、土中で長厳さまが祈ってくださったお陰」と、農民や往来する旅人が感謝した。村人たちは、坊の犠牲的精神を忘れまいと、拡幅された道路脇に祠を建てて「長厳塚」を築いた。これが今日「おちょごんさま」として、地元民から大切に祀られている長厳塚のことである。

生まれ変った聖人

「お母しゃん、見たこともなかお侍さんが、おちょごんさまのどろ(土)ば、持っていきよらすが」
 お里が姑に告げ、2人は鵜ノ木山の下の長厳塚に急いだ。
「実は…」
 塚の土を削って袋詰めしていた旅姿の武士は、肥後(熊本)の藩士だった。最近、藩主に男の子が誕生して、城を上げての祝賀となった。ところが、生まれ来た若君の額に(あざ)が浮き出て、それが「長」の字に見える。占いでは、若君が数年前に筑前で亡くなった聖者の生まれ変りだと出た。そこで長厳塚のことを知り、塚の土を額につければ「塚」の字は消えるとのこと。
「お母しゃん!」
 思わず嫁のお里が、姑の背中にしがみついた。「私は必ず生まれ変ります」と言った長厳坊の予言が鮮明に蘇ったからである。
「いったい、長厳と名乗られたあのお方は何者なのか?」
「仏さまのお使いが、この林田に舞い降りられたのでは…。つまりあのお方は、(ひじり)たい」と噂は噂を呼んで、やがて「長厳さまは村の救世主」として将来にわたって崇められることになったのである。
 林田の人たちは、長厳坊が入定(にゅうじょう)(聖者が死去すること)した10月18日を「おちょごんさまの日」として、毎年特別な気持ちで迎えている。(完)

 東林田地区の奥さんに、長厳塚の在り処を尋ねた。「ああ、おちょごんさんね」と跳ね返った。わずかな資料で、近所でも知られていないのではとの不安が吹き飛んだ。
 草と蜘蛛の巣をかき分けながら、車も入れない山道を100bほど進むと、左側に階段が見つかり、その上に小さなお堂が建っている。お目当ての長厳塚であった。「奥が長厳入定の地」と書かれてあるから、即身成仏の場所がここなのかと、一人頷く。 お堂に祀ってある石像がおちょごんさまで、風化が進んで見えにくくなった脇の石碑は墓標なのだろうか。
 道を教えてくれた奥さんが言っていた「おちょごさんは、村を救ってくれた大切なお方ですから、毎年10月18日にはお祭りを欠かしません」が実感できる。国道から入り込んでお堂に通じる山道こそ、黒田長政号令のもとに拡幅された日田街道(旧道)だったのだ。お堂を過ぎて道が大きくカーブするあたり、眼下に落ちたら飲み込まれそうな大河(筑後川)が見える。
 なるほど、この道だと、旅人や住民の人身事故も多かったろう。青の洞門や上田の貫などに登場するお坊さんたちは、難儀する人々を救うために、自ら鑿を振るって道を拓いた。おちょごんさまは、自分の生身を神に捧げることで、道路建設を可能にした。今日の「道路族」とは、目的も方法もずい分異なるもんだ。

林田村:明治22年までの村名。筑前国上座郡。福岡藩領。
林田:筑後川の中流右岸に位置し、地内の中央を赤谷川が流れ筑後川に注ぐ。針目山から筑後川に張り出した尾根の先端に神籠石がある。秋月氏の端城で木村甲斐の守が在職したといわれる長尾城址、およびその出城の鵜木城址がある。
神籠石:日本古代の山城。北九州と中・四国に全部で12箇所が知られる。丘陵の八合目くらいに切石で列石を廻らし、谷間に水門のある石壁がある。山城址。

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