伝説紀行 九郎堂由来 佐賀市(富士町)


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作:古賀 勝

第302話 2007年05月20日版


2007.07.08 

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

敗者が古湯で傷を癒す

九郎堂由来

佐賀県富士町


古湯温泉の九郎堂

 嘉瀬川ほとりの古湯温泉(ふるゆおんせん)(佐賀市富士町)近くに、淀姫神社がある。戦国期に築かれた城山の麓だ。そこに「九郎堂」と書かれたお堂が建っていた。
 九郎堂の「九郎」とは、室町時代に阿蘇神社の宮司を努めた阿蘇惟直の弟「九郎惟成」さんのことらしい。阿蘇のお方が佐賀の古湯とどのような関わりを持つのか、興味は尽きない。
 辿ってみれば、南北朝の分かれ道ともなった「博多・多々良川」の決戦にまで行き着いた。

手負いの武士が古湯の郷に

 時は鎌倉時代の末期、建武3(1336)年初夏のこと。鎧を身につけた3人の武士が、古湯(ふるゆ)の郷にやってきた。主人らしい武将は、家臣の肩を借りてやっと先に進んでいる。通りがかりの(きこり)が声をかけた。
「大そうご不自由のようだが、俺で役立つことならなんなりと…」
 家臣の男は、地獄で仏に出会ったように、安堵の表情をみせた。
「こちらにおわすは、阿蘇(神)大宮司の弟君で九郎惟成さまと申される。拙者は家臣の原隼人で、こちらは同行の俵由之助殿である。主人が深手を負っている故、どこか休む場所はないものかと…」
「それなら」ということで、喜助と名乗る(きこり)は、一行を嘉瀬川岸に案内した。喜助が砂地を掘ると、湯気をたてた水が染み出てきて、即席の湯船が出来上がった。湯加減をみながら、「どうぞお入り下さい」と、傷を負っている惟成に促した。
「この湯は、2000年もむかしに、秦の国から不老不死の薬草を求めて渡って来られたお方(徐福)が見つけたものだそうですぞ」

阿蘇大宮司:阿蘇大宮司司家は、ご祭神健磐竜命(たけいわたつのみこと)より、綿々、累世、相継ぎ現大宮司は九十一代目にあたる。特に中世以降は肥後国の大半を領有していた。足利尊氏の軍勢催促状「もとどり文」等、貴重な宝物も保存されている。(阿蘇神社案内書)

足利に破れ、小城に

 九郎惟成が湯船で疲れを癒した後、喜助は3人を樵小屋に連れていった。
「大したお構いはできないが、ここでゆっくりしたらええですよ。朝昼晩、湯に浸かっとれば、すぐに元の体に戻りますけん」
 喜助の親切に(ほだ)されて、隼人がこれまでのことを明かし始めた。


足利尊氏と菊池が死闘を演じた多々良川(福岡市東区)

「聞き及びやもしれぬが、我らは、先日博多の多々良川べりで、兄上の大宮司惟直さまとともに足利尊氏(あしかがたかうじ)と斬り結んだものでござる。拙者原隼人は、先祖から阿蘇大宮司司家の子飼いであり、これなる俵由之助殿は多々良川決戦の直前から味方に加わられたお方。あわや全滅と諦めかけたとき、小城の千葉氏を頼って逃げるよう、導いてくれたのがこれなる俵殿でござる」
 原隼人が語る「多々良川の戦」とは、建武元(1334)年に、後醍醐天皇の新政権に反旗を翻す足利尊氏(あしかがたかうじ)と、天皇擁護派である肥後の菊池軍が、阿蘇一族とともに激しく戦ったことをいう。この戦いで、九州の雄・菊池武敏の軍は、まさかの大敗北を喫して退散した。
「俵由之助殿の案内で小城の千葉氏を頼ったのだが、当の千葉氏は既に足利勢の軍門に下った後であった」

恩人が実は…

「兄上の惟直さまと家来衆は、それでどうなさいました?」
 喜助が、気になっていることを質した。その途端、原隼人が目を真っ赤にして、俯いた。
「50人ほどいた家来衆もろとも、天山(佐賀県小城町と富士町の境・1046メートル)で切腹して果てられた。この時、惟成さまと拙者に切腹を思いとどまらせたのがここにいる俵殿でござった。生きて阿蘇一族の再興を図られよと。主人は、戦場で負った傷と、山中の害虫に刺された痕が治らないまま、山岳歩行に慣れた俵殿の案内でここまでやってきた次第」
 九郎惟成は、喜助や村人の勧めもあって、古湯の郷で一族を供養することになった。それから間もなくして、俵由之助が書置きを残して姿を消した。

写真は2007年博多山笠で展示された「望峰壮絶阿蘇大宮司」の多々良川合戦の図(ソラリア展示・小島慎三作)
「阿蘇殿と原殿を欺いたことをお許し願いたい。我れは菊池・阿蘇を裏切りし松浦一党の者なり。命により阿蘇方に潜入し、様子を探り、足利勢の勝利に貢献いたした。だが、裏切りの後ろめたさは如何ともし難く、罪滅ぼしに九郎殿による阿蘇再興をお助けしたく存じた次第…」
 九郎惟成と原隼人は、俵由之助の情けを無駄にしまいと、この地で再起を期すことを決意した。
 その時、主従のために建てられた念仏堂を、誰言うとなく「九郎堂」と呼ぶようになったとのこと。(完)

 足利尊氏方に思わぬ惨敗を喫した天皇方主流の菊池武敏は、急遽肥後に帰って捲土重来を期すことになった。一方、多々良川での勝利をものにした足利尊氏は、1ヶ月の準備を経て、建武3(1336)年4月3日上洛の途についた。その年の11月には、光明天皇をたてて室町幕府を開いている。 それからの都の周辺は、後醍醐天皇が吉野に避難し、以後50年に及ぶ南北朝時代(分裂国家)に突入する。
「もし…、たら…、れば…」の例えが許されるなら…。多々良川で尊氏方に神風が吹かなかったら…、味方のはずの松浦党が菊池を裏切らなかったら…、後醍醐天皇の政権はそれからもずっと安泰であったろう。ましてや、阿蘇惟直とその一族が天山で自殺せずともすんだはず。その後の南北朝時代や室町時代など日本の歴史にも大いに変化をもたらしたに相違ない。
写真:阿蘇大宮司が眠る天山頂上付近
 登場する阿蘇惟直と惟成の兄弟について。惟直は、阿蘇一族の第9代目当主であり、阿蘇大宮司でもあった。天山の頂上には、現在も阿蘇山の方向を向いた墓が建っているという。後の世の人が、彼らを哀れんで、ふるさとを望む頂に祀ったものだろう。検証するために是非一度登ってみたいものだ。
 九郎堂から見上げる城山公園の城址に立つと、家臣の原隼人が、主人のために山城
(古湯城)を築いた意味がわかるような気もする。城跡からは、古湯温泉が一望できる。
 原隼人の子孫と言われる地元の「原」姓を名乗る人たちは、毎年旧正月の2日に、九郎堂の碑の前で「九郎さん祭り」を催してきたと聞く。旧富士町役場に問い合わせたところ、いつの頃からかその祭りも途絶えたままだとか。九郎堂の周りは苔むして独特のかび臭さが漂い、知らぬ間に足元を小蛇が通過していった。
 四方を山に囲まれた温泉街を一望した後、下山してぬるめの湯に浸かった。2000年前の徐福さんや阿蘇神社縁の九郎さんのお陰で、古湯温泉行きの楽しさが倍増した。

KKさんよりお便りと天山頂上の写真を頂きました。



 初めまして、
「筑紫次郎の伝説紀行第302話」 「九郎堂由来」を拝読させて頂き、とても興味が湧きメール致しました。
私は佐賀県唐津市に住む者です。
先月、私の自宅で先祖祭りがありました。この先祖祭りは、浜玉町の神主さんが中心となり、毎年旧暦2月15日に年回りで各子孫の家が座主となり先祖供養(阿蘇惟成公)を行っています。(西暦1878年・明治11年の参加者の資料等現存)

私は惟直・惟成公の末裔の末裔、そのまた枝葉ですが、ご先祖様の話がもっと知りたく古賀様のお話が伺えないものかと思い、ご相談(メール)しました。
(もし可能でしたら、私や神主さん提供の資料など照らし合わせながらお話が聞けたら幸いです。)

以下、古賀の注釈です

☆阿蘇惟成公:室町時代に阿蘇神社の大宮司を努めた阿蘇惟直の弟「九郎惟成」。南北朝時代の分かれ道ともなった「博多・多々良川」の決戦で敗れ、その後惟直は佐賀の天山山頂で自決し、弟の惟成は、麓の古湯温泉にたどり着いた。この話は「筑紫次郎の伝説紀行」に詳しい。
☆阿蘇大宮司:阿蘇大宮司司家は、ご祭神健磐竜命(たけいわたつのみこと)より、綿々、累世、相継ぎ現大宮司は九十一代目にあたる。特に中世以降は肥後国の大半を領有していた。足利尊氏の軍勢催促状「もとどり文」等、貴重な宝物も保存されている。(阿蘇神社案内書)

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