死んだ後も忠臣”
三奈木の黒田屋敷
朝倉市(旧甘木市)
三奈木の黒田屋敷跡
江戸時代は、旧甘木市の大半が黒田(福岡)藩の領地であった。徳川の世になってすぐ、筑前国中最大の村域を誇る三奈木村(旧甘木市三奈木)の守護には、黒田三左衛門が任命された。
三左衛門という人物、数々の軍功により「黒田二十四騎」の一人としてその名を知られた武将である。戦国の世も終焉を迎えて、藩主黒田長政より1万6000石を与えられ、三奈木黒田屋敷の主におさまったのだが、何故か現地ではあまり評判がよろしくなかった。
不甲斐ない殿を諌めるために
時は関ヶ原合戦からしばらく経過した江戸時代の初めの頃。鬼木佐太夫が、憂鬱そうな顔をして小隈村(現朝倉市大字小隈)の屋敷に帰ってきた。妻の弥生は、馬から下りる佐太夫を精一杯の笑顔で迎えた。
夕飯の時刻になっても座敷から出てこない主人を呼びに、奥座敷に入った弥生が仰天した。今まさに、佐太夫ガ短刀を自腹に突き刺すところだったからだ。
「何をなさいます、旦那さま!」
鬼木佐太夫と家族を祀る五所権現神社
弥生は、体当たりして佐太夫の手から凶器をもぎ取った。
「すまぬ。こうでもせねば、殿に目覚めてもらえんのだ」
佐太夫が打ち明けるには…。武将としては人一倍優れた才能を持つ主人の黒田三左衛門だが、平和時の指導者としては頼りなかった。佐太夫など重臣たちと相談することもなく、一部独占的商人や役人の言いなりになって、財政の裏づけもなく土木工事を承認する。財政が厳しくなれば、おきまりの町民や農民の懐をあてにしてしまう。これでは領民の疲弊は限界を超えて、不満が爆発寸前となるのも当然であった。
三奈木にいるはずが福岡城に
佐太夫は、夫婦になって初めて、妻弥生に深々と頭を下げた。
「そのような貴方の我がままに、私が目を瞑るとでもお思いですか。20年前の祝言の夜、2人で誓ったことをお忘れか」
「……」
「夫婦になったからは、生きるも死ぬも一緒だと」
「しかし…」
「しかしも何もありません。私も子供たちともども、どこまでもごいっしょいたします。よろしゅうございますね」
そこまで言われて、佐太夫に二の句は告げられなかった。
その日の夜更け。福岡城の奥深くの黒田三左衛門の寝間に黒影が忍び寄った。気配を感じて目を覚ました三左衛門、目の前の佐太夫の姿を見て、思わず後ずさりした。
「いかが致したのじゃ、鬼木。そちは三奈木にいたんじゃなかったのか?」
福岡城の汐見櫓
「急ぎ馳せ参じました。どうか殿には、領民に慕われるお方になって欲しくて・・・」
「何を今更。そんなことなら、明日話を聞くわ」
「町民が一文の金を稼ぐのに、どれほどの苦労をしているか。百姓が、一升の米を産み出すのに、どれほどの時間と労力を使うか、殿には、その目でしかとご覧いただきたいのです。さすれば、領民の不満のわけもわかりましょう」
やがて、佐太夫の姿は障子の向こうに消えた。
忠臣は神となる
「昨夜、栗毛に乗った佐太夫さまを見た」と言う、小隈村の農民の話が福岡城内の三左衛門の耳に届いたのは、翌日の昼前であった。いかに素早い佐太夫であっても、小隈村の屋敷から15里も離れた福岡城の奥深くに、半時もたたずに到着できるはずがない。しかも、警護が厳しい城中に、栗毛に乗って侵入することなど、幽霊でもない限り…。そこまで考えたところで、三左衛門の唇がわなわなと震えだした。
「天下に名を轟かせた黒田三左衛門ともあろうものが…」と自問自答するが、震えは止まらない。
今も残る黒田屋敷の古井戸
死をもって諌めた鬼木佐太夫の噂は、小隈村から三奈木の領内へ、更に筑前国全域へと、広まった。福岡城内で佐太夫と「再会」して以来、奥座敷で考え込んでいた三左衛門は、やがて三奈木の屋敷に戻り、町屋と田んぼの視察を始めた。
時は移って、三奈木黒田家の主が三左衛門から黒田国松に代わった。国松もまた、町と田舎を往復しながら、公平な課税と施策に努め、領民からは名奉行と喜ばれた。小隈村の農民たちは、これもみな命をかけて先代を諌めてくれた佐太夫さまのお陰だと、一家5人を神さまとして祀ることにした。それが、桑原(旧甘木市)の五所権現神社である。(完)
江戸時代、福岡藩の拠点であった元三奈木村の黒田屋敷跡を訪ねた。雑草と巨大な切り株、それに自然を活かした池や灯篭など、そこに建造物を立ち上げればそのまま立派な武家屋敷が再現できそうな史蹟であった。
近所のおじさんに尋ねたら、「つい最近まで建物があったですよ。10畳ほどの広い座敷がいくつもある麦藁屋根の大きな屋敷だった。この近辺も武家屋敷街だったそうだよ」とのこと。
車もまともに入れず、案内板もないのが気になる。「市役所も保存にはあまり熱心じゃないかですけん」と、おじさんも不満げ。
物語の時代からは既に400年の歳月が経過している。目の前の屋敷は、その後何度も改造したに違いない。でも、140年前の明治維新までは、現役で働いたことだろうし、黒田藩の歴史を見るときに欠かせない地方組織のはずなのに。
周囲を見渡してみる。見渡す限り麦畑が広がる。黒田屋敷跡から鬼木佐太夫の屋敷まで半里くらいはあるだろうか。やはり麦畑の中の一本道だ。悪政に苦しめられた農民の子孫が暮らす十文字村や金川村を通過していくことになる。
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