三瀬の人柱
卒塔婆の堰
佐賀市(旧三瀬村)
神有地区のすぐ下流の嘉瀬川
三瀬(高原)の春は、里に比べて1週間ほど遅くやって来る。福岡市内では桜が散り始めた頃に、高原ではようやく咲き始める。
そこでは、段々畑での稲作りが延々と行われてきた。川の水の量は豊富だが、いったん大雨が降ると、田んぼごと押し流されてしまう。農民たちは、安定した農業用水を確保するために知恵を搾った。そんな、厳しい高原の歴史を物語るのが、今回紹介する「卒塔婆の堰」だ。三瀬峠を越えて佐賀市街に向かう263号線沿いの、「やまびこの湯」のすぐ近くの神有地区がその舞台である。
造っても造っても流される
江戸時代の天明の頃(1781〜89)。神有村の藤助は、地方三役の中の組頭であった。文字が書けて算術もできる者が村民によって選ばれるのが「組頭」という役職だった。今で言う地方議員さんのような役回りであろう。(世襲を原則とする庄屋の補佐役)
その藤助、このところ悩みが尽きない。田植えも近いというのに、先日の大雨で鳴瀬川を仕切って築いた堰が流されてしまった。この一年間で3度も同じような憂き目に遭っている。
「藤助どん、何とかならんか?」と、村の者たちは彼の計算力を頼りにするのだが、こればかりは藤助でもどうにもならない。
「お奉行さまからのお達しで、年貢の滞納は絶対にまかりならぬときつく言われているしな。頼むから、もう一度堰造りを始めちくれ」
庄屋の卯之助も、藤助以上に頭を抱えている。今日も村の衆が総出で石を運び、材木を集めてきた。再度堰を築くための資材である。
「もうどこを探しても、堰に使う石ころなんきゃ転がっとらんが」
力持ちの男が担いでいるのは、家代々の墓石だった。
「これじゃ、ご先祖さんだって浮かばれんな」
盲目の僧が不適な笑み
「ナンマイダ、ナンマイダ…」、そのとき、峠のほうから深編み笠を被った僧が近づいてきた。一同の前を通り過ぎるとき、僧はかたい表情の村人に、まったく気がつかぬ様子だった。
「もし…」
藤助が、立ち上がって僧の背中に呼びかけた。
「もしかして、あなたは目が不自由では?」
そこでやっと僧の足が止まった。
「あなたにさしあげるお布施もない貧乏村です。せめて、わしらの弁当でも召し上がっておくんなさい」
親切が身に染みたのか、僧は閉じた両の目から大粒の涙を流して礼を述べた。
「及ばずながら愚僧にお悩みの一端を背負わせてはくれませんか?」
大きな握り飯を一気に食べ終わった僧は、村人に不適な笑みを投げ返した。
水神さまが、人柱をと
「田んぼがなければ、お年寄りや幼子までがご飯をたべられませんからね」
まるで、目が見えるような仕種で、僧は田んぼを取り囲む山林と鳴瀬川に寄り添うように建てられた家々を指差した。
「水の神さまに、援けてもらえるよう頼んでくれませんか?」
文字通り、神にもすがる思いの農民たちであった。
どのくらいの時間が経過したのやら。急流に向かっての長い読経の後、僧が村人に向きなおった。
「鳴瀬川におわす水の神さまが、皆さまのお悩みを解決して進ぜようと言われている」
僧の一言で、皆の衆が色めきだった。
「ただし、それには条件が…」
「さて、その条件とは?」
「水神さまに生きたまま人一人を捧げよとのことです」
村人の表情が、歓喜から落胆へと急降下した。
カタカタの草鞋を履く者
「人柱も、誰でもよいとは限りません。この中に、草鞋の緒が右縒りと左縒りのカタカタに織られたものを履いている人がいるはずです。神さまは、その人が、堰を築くための人柱となれとのことです」
僧は、経の続きを呟きながら、集まった数十人の村人の足元を見て回った。だが、その中に、縁起でもないカタカタ草鞋を履いた者は一人もいなかった。
「あっ!」
藤助が叫んだ。
「うっかりしたことが。その縁起でもない草鞋を履いていたのは、実はこの愚僧でした。盲目の悲しさとでも申しましょうか…」
「そんな…」
一同が止めるのを振り切って、旅の僧は一段と高い声で経を唱えながら、鳴瀬川の急流の中に身を沈めていくのであった。あっと言う間の出来事だった。写真は、神有地区の水田
それから間もなくして、新しい堰が完成した。今度はどんな大雨でもびくともしない、頑丈な堰であった。
「もしかして…、あのお坊さんは、鳴瀬川におわす水の神さまの化身ではあるまいか?」
藤助が、いつか物知り博士に聞いたことのある話を披露した。村人は、犠牲になってくれた盲目の旅の僧を供養するために、堰の傍らに卒塔婆を立て、「卒塔婆の堰」と名づけた。村の名前も神さまが留まるという意味から「神留村」とした。その後、神留村は「神有村」に変化して残ったが、卒塔婆は長年の風雨に晒されて、跡形も見ることができない。
あれから幾百年、卒塔婆の堰は一度も壊れることなく、最近まで神有村の水田を潤し続けたということ。(完)
物語の神有地区は、旧三瀬村が作って評判を呼んだ「やまびこの湯」のすぐ脇にある。1000メートル級の山々から下りてくる川が合流して、やがて北山ダムに流れ込む直前の川だ。
卒塔婆は見えなくても堰の形跡くらいはと、行ったり来たりしながら探したが、ついにわからずじまいだった。ここかと勢い込んだ堰は、下流の「詰ノ瀬堰」で、所在地も神有ではなく、「詰ノ瀬」だった。
農作業中の方に訊いたが、卒塔婆も卒塔婆の堰もご存じなかった。やまびこの湯で農産物を売っている方も、そんなものは知らないと言われる。もうここでは江戸時代の堰造りの技術など不要となったのだろうか。
これまでに各地の人柱伝説を語ってきたが、米を主食とする日本人にとって、避けて通れない教訓話なのかもしれない。農業用水を確保することの大切さは、川のスケールや人口の大小とはまったく関係がない。そんなことを再認識させられた今回の取材旅行であった。
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