惚れ地蔵
大分県九重町
玖珠町から粟野の三叉路を小国方面へ。右側路傍に掲げられた「惚れ地蔵」の案内板が目に付いた。車を止めて急坂を100bくらい登ると、小さな祠が見えてくる。中には、赤い胸当てをつけたお地蔵さんが立っておられた。このお地蔵さんには首がない。しかも、体のあちこちが削り取られてバランスを欠いている。お地蔵さんの周囲には花や千羽鶴が所狭しと供えられていた。
お地蔵さんの後ろの壁には、「おりん」と書かれた名札が。通りかかったおばあさんに話しかけた。「ここは粟野の井手という所ですよ。私たちがお地蔵さんをお守りしております」「むかしこの山では金が採れていたそうですが、お地蔵さんもその頃からのものらしかですよ」だと。指をさした谷の向こうが、「金山地区」だとも教えてくれた。
金が採掘された当時を偲ぶことは困難であるが、このお地蔵さんに尋ねれば、「おりんさん」のことを語ってくれるかもしれないな。
命がけの男に慰め
時は、330年もむかしの三代将軍家綱の時代。幕府は、貨幣改鋳(改めて鋳造すること)のため、諸国に対して金銀銅などの採掘を大いに奨励した。
ここ山田郷の粟野村でも、江戸や大坂、はては石見国(島根県)などから山師(鉱山の採掘事業などを経営する人)が集まった。彼らは、掘り大工や後向き・ねこだ流しなどの鉱夫を使って採掘させた。
そんな場所には、決まって男の相手をする遊女屋(女郎屋)ができる。鉱石を精錬する横尾村(現九重町横尾)にも男を慰める店が数軒建った。鑿と金槌だけを持って地中深くに潜り、命がけで鉱脈を探しながら掘り進んで行く男たちである。仕事を終えた後の楽しみは、お目当ての女性に会うことくらいだった。
石見国から連れてこられた理由ありげな巳乃吉もその一人である。モグラの世界から解放されて、大空のお天道さんを拝んだ次には、おりんを拝もうと働く筑前屋に急いだ。
婦人病患って…
店に着くと婆さんが出てきて、「おりんは、休みだよ」と素っ気ない。「どうして?」と尋ねるが、「遊女も女だよ。いろいろあるさ」と、五月蝿そうに手を振って、さっさと奥に消えた。
その頃、当のおりんは玖珠川のほとりのお地蔵さんの前に膝まづいて、熱心に願いごとを唱えていた。このお地蔵さん、南北朝時代に玖珠川の上流から流されてきなさったものらしい。そこで村では祠を建てて大切にお祭りすることになった。
実はおりんさん、連日男を相手に体を売る仕事をしているうちに、婦人病(性病)にかかってしまったのだ。この病を患うと仕事ができなくなる。それでは、生きていけない。
「神さま、どうぞ、私の体を蝕む病魔を追い出してください」
気がつくと、後に馴染みの巳乃吉が立っていた。
「地蔵さんに何を頼んでいたんだい?」
大勢の客の中の一人に過ぎない巳乃吉に、こんな場所で関わりたくないと考えるおりんは、立ち上がると、さっさと店のほうに歩き出した。
身請けに行ったその時は
「待ってくれ。俺はお前が好きだ。嫁さんになってくれないか?」
「冗談じゃないよ。刺青をしているような男なんざ真っ平ご免だね」
惚れ地蔵堂
追いかけようとした巳乃吉が、足をとられて転んだ弾みでお地蔵さんが倒れ、石の粉が飛び散っておりんの下駄に飛んだ。すると、黒く塗った下駄が雪でも被ったように白く染まった。おりんが大口をあけて笑い転げた。そのことがあって、おりんの気持ちが急速に傾いた。
「そうは言ってもさ、私にはまだ借金が残っているし・・・」
おりんは、病気のことは告げずに、身請けしてくれたら一緒になることを約束した。
それから1年たって、巳乃吉が食うものも食わずに貯めた銭を持って筑前屋の暖簾を潜った。いつかのやり手婆が相変わらずの無愛想面を下げて出てきた。
「残念だったね。おりんは10日前にあの世に行っちまったよ」
言うことだけ言うと、婆はまた奥に引き込んだ。
地蔵を削れば女が惚れる
途方にくれる巳乃吉は、想い出のお地蔵さんに出向いた。
「今度ばかりは、所帯を持つために心を入れ替えようと思ったのに・・・」
我れを失った巳乃吉は、夢遊病者のように、濁流が渦巻く玖珠川に巻き込まれていった。
誰が伝えたのか、巳乃吉とおりんのはかない恋物語が若者たちの間に広がった。
「井手のお地蔵さんにお参りすると、重い病気も治るそうな」、「お地蔵さんの体を粉にして好きな女の下駄に振りかけると、惚れてもらえるんだってさ」だと。
人々は、先を競って赤いおチョチョ(胸当て)を地蔵さんに供えた。好きな女を嫁にしたいと願う男は、お地蔵さんの体を削って、履いている下駄に振りかけたという。
そんなこともあって、粟野村井手のお地蔵さんのことを「惚れ地蔵」と呼ぶようになった。(完)
ここの金山を含めて、豊後で産出された金の量は、元禄12年から16年までの間に、33貫700目と記録されている。
遠いむかし。九重の山に登るのに、豊後森駅から玖珠川沿いに粟野を通った記憶がある。だが、このあたりが金山だったことなどまったく聞かされていなかった。ましてや、遊女屋が存在したなんて。
写真は、金山地区の集落
冒頭のおばあさんは、僕が福岡から惚れ地蔵さんに会いに来たと聞いて、親しみを込めて話をしてくれた。「私も福岡の星野から嫁に来たんだよ。涸れることのない池の山が懐かしいね」。
むかし金山があったことは承知しているが、遊女屋の話になると関心が薄そう。
改めて祠の中を観察する。「おりん」の名札と合せて、「南無阿弥陀仏」と記された石碑が目にとまった。見下ろすと、九重連山から流れ来た玖珠川が一望できる。地下で働く男たちも、地上で男の相手をする女たちも、皆んな他人には言えない過去を背負って玖珠川と向き合っていたんだなと、感慨ひとしおだ。
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