伝説紀行 秀都橋 朝倉市秋月 古賀 勝作
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
野鳥川に架かる虹 福岡県朝倉市
秋月(福岡県朝倉市)は、黒田家(福岡藩主)の分家があったところで、今なお城下町の面影を色濃く残している。壁のようにそそり立つ古処山(860b)から流れ落ちる野鳥川を挟んで、武家屋敷と商家が混在する町だ。江戸時代には杉の大木が生い茂っていたという「杉の馬場」は、県内でも有数の桜並木に生まれ変った。 野鳥川に橋が欲しい 江戸時代、野鳥川には庶民が通れる橋は架かっていなかった。彼らは、転がっている石を伝ったり、丸太を渡して行き来していた。上の写真のように水嵩が少ないときはまだいいのだが、いったん雨が降るとたちまち往来が不能になる。上流の杉の馬場まで遠回りして、お武家さんに遠慮しながら通してもらわなければならない。誰もが自由に渡れる橋が欲しいとの願いは、城下のすべての人の願いであった。 自前で造れば可能かも 「何とかならんもんですかね」 それならと、稼いで、節約して それからである、秀都の働きにすごさが増した。これまでは一日に5人か10人しかとらなかった客を、一気に20人にまで増やした。文字通り、寝る間も惜しんでの仕事であった。稼いだ金は一文も無駄にしまいと、飯の質を落としたり、時たま味わう晩酌も封印した。 街中が協力して 「私には、神も仏もついてはくれないのか」 秋月は、そこに立つだけで江戸時代にタイムスリップできる町だ。お城の跡が中学校として使われていることも、周囲の景観を変えずにすむ要因になっている。訪ねたのは、異常気象で20度近くまで温度が上がった2月の上旬であった。平日のせいか、人通りはまばらである。みやげ物売り場や食堂も閉まったままだった。異次元の世界に迷い込んだような静かさであった。
野鳥川の岸辺に下りて、作業中の婦人に話しかけた。「秀都橋は趣きがありますね」と。「そうですかね、私らは、いつも見ているから当たり前の橋にしか見えませんがね」「何たって、この川の水がきれいで、気持ちがいいですよ」「そんなに持上げても何もでまっせんばい。見てみなっせ、こげん川底の石に汚れがついておりまっしょうが。これもみんな、石鹸水ば垂れ流すけんですよ。観光地らしゅうもなか」と、逆に吐き捨てられた。同じような話は、柳川の掘割りの汚れ具合でも聞かされた覚えがある。 |