伝説紀行   キンショキショキの谷  久留米市田主丸  古賀 勝作


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作:古賀 勝

第288話 2007年01月21日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

キンショキショキーの谷

福岡県久留米市(田主丸町)


2007.06.24


キンショキ川を連想する善院の風景

 江戸時代、耳納山麓を久留米から日田方面に向かう街道が通っていた。道の名は「豊後街道」。街道から竹野村の善院を経て耳納山を越えるルートは、朝倉・浮羽と山向こうの上妻郡(こうづまぐん)(八女郡)を結ぶ重要な生活道路であった。耳納山を越えるところが「善院峠」で、途中は「千丈ヶ谷」という深い谷になっていて、行き来する人々にとってしばしの休憩の場所にもなっていた。
 ところがいつの頃からか、谷底の方から「キンショキショキー」「キンショキショキー」と、薄気味の悪い声が聞こえるようになって、人々が寄り付かなくなった。聞きようによってはそれが、米を磨ぐ音のようでもあったというから面白い。

米を磨ぐのに山奥の谷へ

 竹野村(現久留米市田主丸町竹野)から善院峠に向かう途中の千丈ヶ谷は、耳納の山に降った雨が巨瀬川・筑後川を経て有明海に注ぐその第一歩となる源流である。
「結乃、米を()いでおいで。大切な米だけん、一粒たりとも粗末にしてはいかんよ」
 造り酒屋の女将が女中の結乃に言いつけている。米を磨ぐといっても1升や2升ではない。家族の分から杜氏(とうじ)など蔵で働くものの分までだから、一度に1斗(10升)を磨ぐことになる。米を()ぐ場所は、むかしから千丈ヶ谷の沢水でと決まっていた。というのも、この谷の水で磨いだご飯は特別においしいからだった。
 車力に超大の米櫃(こめびつ)と桶を積んで、よっこらっしょと山道を登っていく。目的地に到着すると、谷底まで米と桶を運ばなければならない。2度3度急坂を往復しながら運び終わると、か弱い娘の体力の限界に達する。結乃は、思わず大きな息を吐いて座り込んでしまった。写真は、耳納麓の佇まい
 気を取り直して谷川での米研ぎにかかる。「キンショキショキー」、沢水に桶ごとつけて米を擦ると、快い調(しらべ)が谷中に響いた。上流と下流で同じように大勢が磨ぐものだから、まるでアンサンブルを奏でているようだ。
 1升2升までは調子よくいくのだが、5升を超えてくるとさすがに水の冷たさで指先が麻痺してくる。少しでも手抜きしようものなら、女将に見破られてやり直しを命じられることを知っているから真剣だ。

米を流して闇の谷へ

 やっと磨ぎ終わって、汗を拭ってちょいと木陰で横になった。途端に瞼が重くなって深い眠りに陥ってしまった。気がつくと、すっかり陽が西に傾き、周りにいた米磨ぎの女たちの姿も見えなくなっていた。
 これ以上遅くなったら、女将さんからどんなお叱りをうけるかわかったものじゃない。「さあ急ごう」と、磨ぎ終わった桶を担ごうとした。ところが、桶は谷川に向かって倒れており、中の米のほとんどが急流に浚われてしまっていた。結乃の顔からいっぺんに血の気が引いた。
「どうしよう、どうしよう」、悩んでいても解決にはならない。お叱りを覚悟で屋敷へ急いだ。案の定、女将さんの怒鳴り声が屋敷中に響き渡った。
「お前の性根(しょうね)がしっかりしていないからこんなことになるんです。もう一度谷に戻って、こぼれた米粒を残らず拾ってきなさい」
「そんなことはできません」とでも言おうものなら、次の制裁が待っている。結乃は仕方なく暗闇の外に出た。提灯を片手に、真っ暗闇の山道を善院峠に向かう結乃の肩は、寒さと怖ろしさで震えっぱなしだった。

娘の怨念が最近まで

 どこが谷への下り口なのやら見当もつかない。ズルズル滑るようにして水辺に出たものの、小さな米粒など見えようはずもなかった。「ホー、ホー」(ふくろう)の鳴き声が、高い木々の天井から聞こえてくる。
「誰か、助けて〜」、呼べど叫べど、助っ人などは現われない。
「母ちゃん、親不孝ばかりでごめんね」
 行き場を失った結乃は、すべてを覚悟して腰紐を谷川に突き出た木の枝にかけた。
 一方、奉公先の造り酒屋では、女将が右往左往。まさか、あのくらいの叱りようで本当に千丈ヶ谷に出向くとは考えていなかったのだ。杜氏(とうじ)を先頭に、店の者が総出で谷に向かった。話を聞きつけた村の衆も、(かね)や太鼓を鳴らしながら「結乃ちゃ〜ん」と叫んで捜索に協力した。
「キンショキショキー」「キンショキショキー」
 虫の声に混じって、谷底から米を磨ぐかすかな音が聞こえてきた。捜索隊は、不安定な坂を、声を掛け合いながら下りていった。そこで見たものは…。
 造り酒屋の女将も、己の不注意な言動からみすみす若い娘の命を落とさせた罪に(さいな)まれた。それからというもの、わざわざ山奥の千丈ヶ谷まで米を磨ぎに行く者もいなくなった。
 後日談だが、峠越えの人が喉を潤すために降りていった谷川の奥から、「キンショキショキー」「キンショキショキー」の米を磨ぐ音が忍び泣くように聞こえて悩まされたという。その音は、明治の頃まで続いたと、ある年寄りが話していた。(完)

山は生きている

 筑紫次郎の伝説紀行の主役は筑後川。筑後川に寄り添うようにして連なる耳納山地も、「紀行」には欠かせない脇役である。これまでにも「耳納」に関する伝説をたくさん紹介してきた。
 耳納山は人間と同じように規則正しく呼吸をしている生き物だと、筆者は信じている。人間が山の恩恵をおすそ分けしてもらうところまではまだよかった。享保のころになると、人は山を征服しようとする。そこに前代未聞の山汐(山崩れ・山津波)が発生して、多くの人命と田んぼが破壊された。昭和28年の筑後川大洪水時には、九重や阿蘇での豪雨に呼応して耳納にも未曾有の大雨を降らせ、被害を拡大した。自然に逆らう典型的な夜明ダムが完成した年である。
 山は、一刻たりとも同じ表情で座っていることはない。泣いたり笑ったり、時には怒った顔で下界を睨みつけていることだってある。人類の醜い争いごとには、そっぽを向いて姿を隠す。たかが30キロ足らずの連山でも、注意深く眺めていると山のご機嫌具合が手に取るようにわかるものだ。そして、山を征服しようとするものへ警告する姿を見たら、自制すれば許してくれる。
「キンショキショキー」の米磨ぐ音は、そんなことを僕らに教えているような気もする。

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