虐めの果てに
情死ヶ淵
大分県日田市
筑後川支流の小野川
昨年は、「福岡発」のニュースが日本国中の関心を集めた。博多区で幼子3人が犠牲になった交通事件は、その後取締りや罰則強化など、酒酔い運転に対する目をいっそう厳しくさせた。もう一件は筑前町三輪中学校での生徒の自殺。先生や同級生からの虐めが原因だったらしい。この問題は、地元はおろか、政治の世界にまで波及し、教育現場のあり方を含めて法改正へと発展した。「虐め」は、何も今に始まったことではないし、子供の世界だけのものでもない。
今回紹介するのは、日田市郊外に伝わる「心中事件」のお話し。話の内容は、村ぐるみの虐めを苦にした若者二人が、自ら命を絶つというもの。伝説の中から、現代版「虐め」問題解決の糸口が見えればいいのだが。
娘の恋が邪魔されて
「小鹿田焼」で有名な日田市郊外の皿山に向かう途中、道路に寄り添うように流れているのが小野川である。そのむかしと言うから、江戸時代の中頃のことだろうか。川のほとりの小さな集落に、お多勢という年頃の娘が暮らしていた。
小野川ほとりの集落
村でも評判の器量よしで、若い男衆の憧れの的だった。男どもは、彼女の気を引こうとあの手この手で口説きにかかる。中でも、庄屋の息子の由蔵は一番熱心だった。お多勢が洗濯のため川に下りようとすると、先回りして声をかける。お多勢は、粗野な感じの由蔵が嫌いだったので、姿を見ると急いで場所を変えたりした。実はお多勢には将来を誓い合った伊作という恋人がいたのだった。
お多勢に恋人がいることを感づいた由蔵は、二人の中を割くためにあらぬ噂を村中に吹聴して回った。
「親にも黙って男と逢引きをして、子供まで孕んじょるげな」と、根も葉もないものだった。噂は噂を呼んで、お多勢の「淫らな」噂を知らないものがいなくなった。
お盆の晩に手に手をとって…
お盆は村中が協同で行う最大行事である。山から下りてきた先祖の魂を各家で迎えた後、15日には村総出の盆踊りで賑やかに送り出す。若者たちは、何日も前から会場づくりなどの準備で大忙しだ。ところが、由蔵の陰謀で、伊作とお多勢は作業に参加させてもらえなかった。
「盆と正月だけは、入れてやってもよかじゃんね」と言う者もいたが、由蔵は許さなかった。その間にも裏では、「お多勢が俺の嫁さんになるなら、かたせてやる(参加させてやる)」と迫っていたのである。お多勢の父親も、「庄屋に嫌われたらどげな仕打ちを受けるかわかったものじゃなか」と、由蔵の嫁になるようお多勢を口説いていた。
盆踊りが最高潮に達しても、お多勢と伊作は広場に姿を見せなかった。小野川の下流に向かって流れていく各家の精霊のロウソクが、ゆらゆら揺れる先を眺める村人たちの口は閉じられたままだった。
翌日、下流の淵の倒木に引っかかっている伊作とお多勢の死骸を、シジミ獲りの老婆が見つけた。二人はお互いの手を腰紐で強く結んだまま息絶えていた。
一人娘を失って泣きじゃくる母親。取り囲んで貰い泣きをする村人たち。その日の内に、庄屋の息子由蔵の姿は、村から消えた。
穏やかな小野川の流れだった(2006年10月)
村では、若い二人の遺体が上がった淵のことを、「情死ヶ淵」と呼ぶようになった。物知りに言わせると、「そんな名前をつけたのは、二人を虐めたことを反省し、二度とこのような悲劇が起こらないよう願ってのこと」とのことだった。
ほんとうにそうかな?むかしの「ムラ」では、実力者の意に反したものが、陰湿な手段で虐められたんじゃないかな。だから「情死ヶ淵」なんてセンセーショナルな名前がついたような気がするのだけど。(完)
どこかのお国の総理大臣は、就任早々「美しい日本」を創ると意気込んでおられる。前後して全世界に配信されたフセイン元イラク大統領の処刑の生々しさは、嘔吐さえ覚えるものだった。あれだって、自らが(或いは兄貴分が)アメリカのイラク侵略を支持して軍隊(自衛隊)を派兵したことに始まっている。血を血で洗う戦争ほど「美しくない」ものはないはずなのに。
同じ総理が、「虐めを阻止するために」との美辞麗句で、教育基本法を変えてしまった。そんなことくらいでは、世の中から虐めが消えたり薄らぐことなど望めそうにないのにである。
虐めとは、人間社会ができた時からあるものだ。強い者(権力者)が力任せで弱いものを虐める、そんな社会が消滅しない限り、解決するはずがない。子供でも大人でも同じことだ。力ずくで他国を支配しようとする、そんな指導者が世の中からいなくなったとき、子供たちの虐めもなくなるのだ。どこかの総理大臣には、そこのところの理屈がよくおわかりでないらしい。
また社会を成す町や村ぐるみの陰湿な虐めも同じこと。お多勢さんや伊作どんのような悲劇は、後から悔やんでもどうにもならないのだから。
小野川のほとりを歩いていると、何万年も昔から下流の人々に水を送り続けている山々が、僕に何かを訴えかけているように見えて仕方なかった。
2017年7月の北部九州豪雨は、ここ小野川にも容赦なく襲いかかった。最所に取材した時の素朴な村の佇まいなど何処にも見えず、荒れ果てた田んぼともとの姿を失った川だけが取り残された感じ。すべてを庄屋の息子のせいにするつもりはないが、心あるものみんなで一日も早い復旧のために力を合わせなければならない。(2017年10月22日)
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