伝説紀行   雨招く舞楽面  福岡県うきは市  古賀 勝作


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作:古賀 勝

第284話 2006年12月24日版

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

村を守るお宝お面

原題:尊きお面さま

2007.04.22

福岡県うきは市(吉井町)


熊野神社社宝の舞楽面(左)と復元面(右)

 旧吉井町市街から延寿寺川(えんじゅじがわ)を伝って南へ。耳納の山麓に熊野神社が建っている。春の祭礼(4月15日)では、社宝の舞楽面(ぶがくめん)が氏子一同に披露される。このお面、何でも鎌倉時代に後鳥羽天皇から授かったものだとか。江戸時代、久留米の有馬藩時代に「雨乞い神事」で用いられたお面と合わせて、熊野神社の大切なお宝なのである。
 このお宝、今日まで数奇な運命を辿ってきたと知り、拝見させてもらおうと祭礼の場にお邪魔した。


熊野神社

お面が顔から離れない!

 江戸時代。田主丸の通称「お三夜さん(月読神社)」近くに、大きな商家があった。年の瀬も押し詰まり、女中のお梅は蔵の中の大掃除で大忙し。
「ひゃあ、お化け!」
 突然暗がりから鬼の顔が浮かび上がったから肝も飛び出る思い。よく見ると、それは神楽(かぐら)などで顔につけるお面であった。
「何ね、こげなもん」
 お梅は損した気持ちになり、面白半分で自分の顔に面を当ててみた。
「お梅、どこにおるんだ」 
 その時、番頭喜助の呼ぶ声が聞こえた。
「はーい」
 お梅は慌てて面をはずそうとした。ところがどうしたことか、セメダインで貼り付けたようにくっついて離れない。
「わーん」
 泣き声を聞きつけた喜助が、蔵の中に飛び込んだ。

お面の出所を占い師に

 今度は喜助がその場に尻餅をついた。目の前で鬼が睨みつけているからだ。
「番頭さん、私です、梅ですたい。助けてください、このお面ばはずしてください」
 お梅の泣き言で我れに返った喜助が、お面をはずしにかかった。だが、貼り付いた面は喜助の力くらいではどうにもならない。
「どげんしたつか?」
 今度は主人の正助もやってきて、大騒ぎになった。実は正助さん、この面のことをすっかり忘れていた。何年前だったか、懇意にしている骨董屋が持ち込んできたもの。「川向こうの男から預ったんじゃが、気色が悪うて」と押し付けられたと言うのだ。引き受けたものの、気味悪さばかりが募って、つい蔵の奥深くに仕舞いこんでいたのだった。
「このお面には、何か深い謂れがあるようだ」
 正助が占い師を呼んだ。


耳納連山

「占いでは、『このお面を東南の方向から呼んじょるもんがおる』と出た」
 占い師は、それ以上は自分の守備範囲外だと言ってさっさと帰ってしまった。
 早速、喜助が東南方角に位置する熊野神社の神官のもとに出向いた。

お面は村の宝物

「待てよ、それは・・・」
 面が顔から離れない話を聞いた神官は、喜助を急きたてるようにして田主丸の商家に出向いた。三方(神仏に供え物をささげるために載せる台)には特大の鯛とスルメ・昆布を載せ、祝詞(のりと)が始まった。祝詞は一晩中かかり、夜明け方「えい!」の喝声とともに、お面はお梅の顔からポロリと外れた。お面が取れれば取れたで、お梅はまた泣き出してしまう。
「神主さん、いったいどげなお祈りばなさったとですか?」
 正助は、面がお梅の顔から離れなかったわけを訊いた。
「私が子供の時分に、祖父(じい)さんから聞いたことなのじゃが・・・」と、神官は静かに語り始めた。
 遡ること更に100年前。久留米藩の護り神である熊野神社で盗難騒ぎが勃発した。盗まれたのは、遥か鎌倉時代の後醍醐天皇から賜った宝物のお面であった。村中が押し頂くようにして拝む面なら高く売れるのではと、侵入した泥棒は考えたらしい。村をあげてのお面捜しが展開されたが、遂に取り戻すことはできなかった。
 それからというもの、耳納の山に雨が降らなくなって旱魃が続き、村ではよからぬ出来事が相次いだ。

元の鞘に納まって…

 だが、里人の泥棒に対する恨みも、時とともに薄れていった。
「祖父さんが話していたお宝お面が、商家の蔵の中に潜んでいたとは・・・」
 神官が、深いため息をついた。
「私は、このお面に対して、熊野神社に必ず連れ戻しますからと約束したのですよ。そうしたら、お梅さんの顔に貼り付いている怖いお面が微笑んだんです」
「そんなことなら」と、正助さんは、「お面」を桐の箱に納めて熊野神社にお返ししたそうな。それからというもの、耳納に雨が降り、延寿寺村に及ぼす不幸もぴたりと止んだ。
 熊野神社の舞楽面は、村人にとって命の次に大切な宝物だったのである。(完)

 熊野神社の宮司さんが、立派な桐の箱に納められたお面を見せてくれた。黒光りの表は、世の悪事を叱り付ける形相で迫ってくる。「触っただけでも崩れてしまいそうな古い宝物です。豊後の仏師さんが、念入りに彫り上げてくれたのがこちらです」と、真新しいレプリカのお面を並べて見せてくれた。神社の、お面に対する気持ちの入れようが伝わってくる。
「言い伝えによれば、このお面は鎌倉時代に黒木助能(くろぎすけよし)(黒木城主)が大番役(武士が交替で御所の警備にあたること)で都に上がった折、後醍醐天皇から賜ったものだそうです。巡り巡って久留米藩の護り神である当神社に渡り、社宝となりました。
「こちらのお面は?」と傍らに置かれたもう一つのお面のことを尋ねた。
「これは、村の雨乞い神事に使うものです。むかしはお面を掲げて、ここから牛鳴峠を越え、妹川から星野の池の山まで雨乞いに出かけたそうです。神社と村にとって、どちらのお面もなくてはならない宝物なのです」だと。
 正装して集まってきた村人たちが、熊野の神さまとお宝のお面に対して恭しく
(こうべ)を垂れた。春から夏へ、そして収獲の秋へと、農業が順調でありますように。それから、村がいつまでも平和でありますように。大むかしから続く神への祈りは、よそ者の僕の背中までしゃんと伸ばしてくれた。(2007年4月15日)

延寿寺村:江戸期〜明治9年の村名。星野城主星野鎮実が貞永元年に建てた金谷山延寿寺(現在の妙福寺)にちなむ。古くは「福増村」と称した。福丸城址(福増城)があり、字館畑は居館跡。

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