村を守るお宝お面
原題:尊きお面さま
2007.04.22
福岡県うきは市(吉井町)
熊野神社社宝の舞楽面(左)と復元面(右)
旧吉井町市街から延寿寺川を伝って南へ。耳納の山麓に熊野神社が建っている。春の祭礼(4月15日)では、社宝の舞楽面が氏子一同に披露される。このお面、何でも鎌倉時代に後鳥羽天皇から授かったものだとか。江戸時代、久留米の有馬藩時代に「雨乞い神事」で用いられたお面と合わせて、熊野神社の大切なお宝なのである。
このお宝、今日まで数奇な運命を辿ってきたと知り、拝見させてもらおうと祭礼の場にお邪魔した。
熊野神社
お面が顔から離れない!
江戸時代。田主丸の通称「お三夜さん(月読神社)」近くに、大きな商家があった。年の瀬も押し詰まり、女中のお梅は蔵の中の大掃除で大忙し。
「ひゃあ、お化け!」
突然暗がりから鬼の顔が浮かび上がったから肝も飛び出る思い。よく見ると、それは神楽などで顔につけるお面であった。
「何ね、こげなもん」
お梅は損した気持ちになり、面白半分で自分の顔に面を当ててみた。
「お梅、どこにおるんだ」
その時、番頭喜助の呼ぶ声が聞こえた。
「はーい」
お梅は慌てて面をはずそうとした。ところがどうしたことか、セメダインで貼り付けたようにくっついて離れない。
「わーん」
泣き声を聞きつけた喜助が、蔵の中に飛び込んだ。
お面の出所を占い師に
今度は喜助がその場に尻餅をついた。目の前で鬼が睨みつけているからだ。
「番頭さん、私です、梅ですたい。助けてください、このお面ばはずしてください」
お梅の泣き言で我れに返った喜助が、お面をはずしにかかった。だが、貼り付いた面は喜助の力くらいではどうにもならない。
「どげんしたつか?」
今度は主人の正助もやってきて、大騒ぎになった。実は正助さん、この面のことをすっかり忘れていた。何年前だったか、懇意にしている骨董屋が持ち込んできたもの。「川向こうの男から預ったんじゃが、気色が悪うて」と押し付けられたと言うのだ。引き受けたものの、気味悪さばかりが募って、つい蔵の奥深くに仕舞いこんでいたのだった。
「このお面には、何か深い謂れがあるようだ」
正助が占い師を呼んだ。
耳納連山
「占いでは、『このお面を東南の方向から呼んじょるもんがおる』と出た」
占い師は、それ以上は自分の守備範囲外だと言ってさっさと帰ってしまった。
早速、喜助が東南方角に位置する熊野神社の神官のもとに出向いた。
お面は村の宝物
「待てよ、それは・・・」
面が顔から離れない話を聞いた神官は、喜助を急きたてるようにして田主丸の商家に出向いた。三方(神仏に供え物をささげるために載せる台)には特大の鯛とスルメ・昆布を載せ、祝詞(のりと)が始まった。祝詞は一晩中かかり、夜明け方「えい!」の喝声とともに、お面はお梅の顔からポロリと外れた。お面が取れれば取れたで、お梅はまた泣き出してしまう。
「神主さん、いったいどげなお祈りばなさったとですか?」
正助は、面がお梅の顔から離れなかったわけを訊いた。
「私が子供の時分に、祖父さんから聞いたことなのじゃが・・・」と、神官は静かに語り始めた。
遡ること更に100年前。久留米藩の護り神である熊野神社で盗難騒ぎが勃発した。盗まれたのは、遥か鎌倉時代の後醍醐天皇から賜った宝物のお面であった。村中が押し頂くようにして拝む面なら高く売れるのではと、侵入した泥棒は考えたらしい。村をあげてのお面捜しが展開されたが、遂に取り戻すことはできなかった。
それからというもの、耳納の山に雨が降らなくなって旱魃が続き、村ではよからぬ出来事が相次いだ。
元の鞘に納まって…
だが、里人の泥棒に対する恨みも、時とともに薄れていった。
「祖父さんが話していたお宝お面が、商家の蔵の中に潜んでいたとは・・・」
神官が、深いため息をついた。
「私は、このお面に対して、熊野神社に必ず連れ戻しますからと約束したのですよ。そうしたら、お梅さんの顔に貼り付いている怖いお面が微笑んだんです」
「そんなことなら」と、正助さんは、「お面」を桐の箱に納めて熊野神社にお返ししたそうな。それからというもの、耳納に雨が降り、延寿寺村に及ぼす不幸もぴたりと止んだ。
熊野神社の舞楽面は、村人にとって命の次に大切な宝物だったのである。(完)
熊野神社の宮司さんが、立派な桐の箱に納められたお面を見せてくれた。黒光りの表は、世の悪事を叱り付ける形相で迫ってくる。「触っただけでも崩れてしまいそうな古い宝物です。豊後の仏師さんが、念入りに彫り上げてくれたのがこちらです」と、真新しいレプリカのお面を並べて見せてくれた。神社の、お面に対する気持ちの入れようが伝わってくる。
「言い伝えによれば、このお面は鎌倉時代に黒木助能(黒木城主)が大番役(武士が交替で御所の警備にあたること)で都に上がった折、後醍醐天皇から賜ったものだそうです。巡り巡って久留米藩の護り神である当神社に渡り、社宝となりました。
「こちらのお面は?」と傍らに置かれたもう一つのお面のことを尋ねた。
「これは、村の雨乞い神事に使うものです。むかしはお面を掲げて、ここから牛鳴峠を越え、妹川から星野の池の山まで雨乞いに出かけたそうです。神社と村にとって、どちらのお面もなくてはならない宝物なのです」だと。
正装して集まってきた村人たちが、熊野の神さまとお宝のお面に対して恭しく頭を垂れた。春から夏へ、そして収獲の秋へと、農業が順調でありますように。それから、村がいつまでも平和でありますように。大むかしから続く神への祈りは、よそ者の僕の背中までしゃんと伸ばしてくれた。(2007年4月15日)
延寿寺村:江戸期〜明治9年の村名。星野城主星野鎮実が貞永元年に建てた金谷山延寿寺(現在の妙福寺)にちなむ。古くは「福増村」と称した。福丸城址(福増城)があり、字館畑は居館跡。
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