筒川非情
塩漬けの墓
福岡県久留米市
久留米南薫地区を流れる現在の筒川
通外町の五穀神社境内を、縫うようにして流れる小川がある。筒川と呼ぶ。お宮さんの裏手は公園になっていて、競技場や動物園などで終日賑わっている。だが、数十年前まではレンコン畑が連なり、人が近づくことも少なかった。
この筒川、北上した後はぐっと左折して国道3号を潜り、やがてお寺さんが集合する寺町辺りに向かう。久留米の市民でもほとんど知らない“日陰の川”を、得意の僻目(ひがめ)で観察していると、江戸時代に起こった悲しい出来事に出くわした。
遍路さんを一刀両断に
田植も終って、ヒキガエルの「ガーガー」騒ぐ声だけが聞こえる日暮れ刻。人呼んで「饅頭笠まんじゅうがさ)」を深々と被った遍路姿の女が、筒川沿いをとぼとぼと歩いてきた。
「博多までは10里(40`)だとか。待っていれば、娘は会いに来てくれるだろうか」
女は、時々目じりにたまった涙を拭きながら、呟いた。
「おい、そこな女子(おなご)!有り金寄こせ」
眼前に躍り出た男が、ドス(刀)をちらつかせながら、迫ってきた。
「どうぞ、命ばかりはお助けください。私奴は、筑前博多に住む娘に会わなければ死ねません。その後でしたら、こんな命なんてちっとも惜しくはないのですから」
跪(ひざまず)いて哀願した。
「しゃらくせえ。ぐずぐず言わずと、早よう銭を寄こしやがれ」
追剥(おいはぎ)は、女から銭袋をひったくると、左肩から右下へ袈裟状に斬り捨てて逃げ去った。
捨てた娘に会いたくて
「助けて〜、どなたかおられませんか〜」
悲鳴を聞きつけて、寺男の伍助爺さんが駆けつけた。倒れている女は、虫の息を奮い起こすようにして、爺さんにしがみついた。
「お慈悲でございます。私の願いを聞いてくだされ」
「わかった、わかった。言い残したいことがあったら早く…」
現在の筒川
爺さんは、一言一句も聞き漏らすまいと、右の耳をおんなの口許に寄せた。
「私は、肥後(熊本)の菊池から参った者でございます。20年前に別れた娘に会うためでございます。暮らしが苦しくて、久留米のお方に娘を預けたことを謝りたくて…。しかし娘は久留米にいませんでした。養父母ともに博多に屋移り(やうつり=引越し)したとのことでございます」
「うんうん、それで…。お前さんの願いとは?」
だんだん細くなる声に苛立ちながら、爺さんは聞き入った。
「はい、私が被っている饅頭笠の織り目のところと着物の襟に、お金を縫い付けてあります。親の身勝手で手放した娘への、せめてものお詫びの印です。娘に手紙を出しましたゆえ、いずれこの地に参ると存じます。それまでの間、お金を預っていてくだされ」
そこで女の声が消えて、息絶えた。
塩漬けにして娘を待つ
人のよい伍助爺さんは、何とか母の姿を拝ませたいと思った。だが、蒸し暑い梅雨時とあって遺体はすぐに腐ってしまう。
「そうだ!」、爺さんは、魚屋が魚の鮮度を保つためにとる方法を思い出した。棺桶の遺体の周囲にびっしり塩を詰め、娘がいつ現われても良いように立て札を立てた。だが、娘は100日たっても現れなかった。
「20年も放っておいて今さら母親だと名乗られても…」と、娘は実母の要請を拒絶したのであろうか。「悲しいのう」、爺さんは遺体を寺の裏庭に埋めながら、涙が止まらなかった。
伍助爺さんが建てた墓碑を見て、近所の人は代わる代わる草花を手向けたそうな。それも、歳月とともに人々の記憶から遠ざかっていった。伍助爺さんも亡くなり、いつの頃からか、墓の位置すらもわからなくなった。後には、墓所全体を指す「塩漬けの墓」の名前だけが残ったそうな。(完)
今回の取材は、困難を極めた。まず、「塩漬けの墓」なる寺や墓所が見つからない。舞台となる筒川も、右に折れたり左に曲がったりで、追いかけるのが大変だった。「塩漬けの墓」を求めて上流から下流へと向かった。西鉄電車の線路にぶつかって切れた小川は、反対側のずっと向こうで顔を出す。川岸に道がないのも困ったものだ。遠回りして川の位置に戻ったつもりが、忽然と姿を消している。
「どこが塩漬けの墓というわけではなくて、日陰の川のイメージがそんな悲話を生んだんじゃなかでっしょかね」とは、途中道を尋ねた土地の古老の弁である。川と同じく、どこかに隠れている件(くだん)の墓を見つけたら、改めてご報告申し上げます。主人公のお遍路さん、安らかにお眠りください。
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