伝説紀行   浜田の石仏さん  佐賀県みやき町(三根)


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作:古賀 勝

第278話 2006年10月15日版

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

衆生済度の贈物

浜田の石仏さん

佐賀県みやき町(旧三根町)

 筑後川が、中流域から下流域にさしかかるあたり。肥前(佐賀県)と筑後(福岡県)を結ぶ「天建寺橋(てんげんじばし)」の袂に、浜田(佐賀県みやき町三根)という名の集落がある。高い土堤を駆け下りたところの公民館前で、相当年季の入った石仏群を見つけた。周辺は、重たそうに頭(こうべ)を垂れた稲穂が続く田園地帯。群の中でも一番大きな石祠の仏さんに注目した。いつの頃かに頭と胴体が別々になったらしく、それをセメントで繋いである。いかにも、簡単すぎる修復法だ。写真は、浜田の石仏群
 お顔を見ると、神々しいというより、何とも愛らしい。セメントでの繋ぎ目が襟巻きのようにさえ見える。

覚えのない届け物

 ずっとずっとむかしのこと。筑後川右岸の浜田村に今村又七というお百姓さんが住んでいた。ひと月もすれば稲の収獲が待っている。今年の出来を心配して落ち着かない日々であった。
 そんなある日、麦藁帽子を冠り手拭を首に巻きつけた男が入ってきた。
「あんたはくさい、浜田の又七さんでっしょ。あたしゃさい、川ん向こうの石屋ですもん。預かりもんば届けにきたつですたい。ほんに重かもんじゃけ、ちょっとばっかり手伝うてくれまっせんでっしょか」
 届け物は川岸に繋いである舟に載せてあるという。
「こりゃ、石の彫りもんじゃなかかん」
「はい、菩薩さまですたい。そこんリヤカーに載せるけん、加勢ばしてくれんの」
「ちょっと、待たんの。おり(俺)は、こがんかもんば頼んだ覚えはなかぞ。だっか(誰か)よそんもんと間違やとりゃせんかんか?」
「うんにゃ、確かに浜田の又七さんち聞いとるけん。ちゃんと、お金も貰うとる」

贈り主を仏に問う

 キツネに摘まれたように目をウロウロさせる又七さん。届け物を見てみると、それはもう、何ともかわいらしい菩薩さまである。しかし、どう首を捻って考えても、仏(像)さんを注文した覚えはない。
「注文ばした人は、年齢(とし)の頃なら50前後で、頭はツルツルに剃ってあったですたい。おおかたどっかのお坊さんじゃろない。ばさらか上品な人じゃったけん」
 こちらの石屋は、筑後弁でベラベラ喋り捲った。川を隔てただけで、肥前と筑後の言葉はこうも違うものだ。又七は、とりあえず菩薩さまを舟から下ろして、庄屋さんを呼びに行った。庄屋さんも手に負えず、正安寺の和尚さんを連れてきた。
「ほんにな、よか顔ばしてござるなた。ねえごつかあっち(何ごとかあって)、仏さんな浜田村までおいでなさったつじゃき…」
 正安寺の和尚は、寺に戻るとご本尊に燈明をあげて何やらブツブツ語りかけた。しばらくたって…。
「ご本尊さまに訊いたらば、わかったばん。菩薩さんがここにござった(おいでになった)わけが」
 又七や村の者は、固唾を呑んで和尚さんの口許に注目した。
「こん浜田村があんまり貧乏じゃけ、仏さまが衆生済度(しゅじょうさいど)のために、この菩薩像をお送りなさったんじゃ」

衆生済度:仏・菩薩が衆生を迷いの苦界から救済して、彼岸に渡すこと。人々を救って悟りを得させること。
衆生:仏教用語で、生きとして生けるもの。

お祭りしたら災いが逃げた

「ははあ」
 村人たちは、和尚の話が終るか終らないうちにひれ伏した。
「ひょっとしてあの石屋こそ…」
 仏さまがこの貧乏村へ寄こされたお遣いじゃあんめいか。でも、川岸には石屋はおろか、運んできた舟も見当たらなかった。
「菩薩さまが舟を下りなさったとこが、聖地ばん」
 庄屋は早速川岸に石の祠を建て、改めて正安寺の和尚に経をあげてもらった。それからというもの、浜田地区への日照りや洪水もよそより少なく、豊作の年が多くなったとか。あれもこれも、おいでいただいた菩薩さまのお陰だと感謝し、祭りにはそれぞれ一升枡に一杯ずつ豆を持ち寄り、正安寺さんのお経とお説教を欠かさなかったとか。写真:ご当地を流れる筑後川
 菩薩さまの祠は、風雨に晒され、扉ははずれ、首も重さに耐え切れずに落ちてしまった。その後、土堤から離れた現在の場所にお移りいただき今日に至ったようだ。(完)

 土堤下のお婆さんに場所を尋ねて公民館に辿りついた。資料では「石仏群は公民館の東側」とあったが、そこは田んぼ。カチガラス(カササギ)が熱心に落穂を啄んでいた。南側に回ると、10体ほどの石仏が無造作に並んでいる。端っこの仏さんが、目指す首をつないだ菩薩さまだった。最近、部落民の都合で、居所を移動させられたものだろう。
 彫られた年号を確かめようとするが、風化が進んでいてとても無理。丁寧に拝んでその場所をあとにした。天建寺橋から眺める筑後川は、今日もご満悦の様子。

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