どうぐら九兵衛
遍照院のひょうたん墓
【高山彦九郎関連年表】
福岡県久留米市
酒樽にひょうたんをのせた西道俊の墓(遍照院)
久留米の寺町に遍照院というお寺がある。この寺、討幕運動の先陣をきった尊王思想の旗手・高山彦九郎(1747〜93年)が眠っているところ。彦九郎さんにご挨拶をすませて裏手に回ると、なんとも奇妙な墓石が目に入った。上の写真をご覧あれ。墓碑の形はひょうたんで、その台座は酒樽だ。
ひょうたん墓標の下に眠るのは、200年以上も前に亡くなった西道俊(にしどうしゅん)という長崎の蘭法医学者(歯科)だって。さて、道俊さんと高山彦九郎との関わりは…。
曲芸で路銀を稼ぐ
時は寛政の頃(1795年頃)というから、明治維新より遡ること70年以上も前のことになる。大坂の天満宮参道で独楽(こま)の曲芸を披露している、どうぐら九兵衛という老人がいた。写真は、高山彦九郎の墓
「どうぐら」とは、曲芸や大道芸人の俗称らしい。「九兵衛」という名は、本名・西道俊が、「どうぐら」との語呂を考えて勝手につけた自分の芸名だろう。
西道俊と高山彦九郎との、初めての出会いは京都であった。
「嫌な世の中ですね。百姓が食うものも食わずに納めた年貢を、湯水のように無駄遣いばかりしてるんですから、役人って奴らは」
旅籠の風呂で話しかけてきたのは、40歳を過ぎた骨太の男である。
「あれもこれも、徳川の世が長くなり過ぎたからですよ。幕府は天子さまに天下をお返しすべきです」
高山彦九郎と名乗った男は、道俊を自分の部屋に呼んで酒盛りを始めた。持ち歩いているひょうたん徳利からなみなみと酒を注ぎ、豪快に飲み乾す。
師の足跡を追う
それから2年が経過して、道俊は風の噂で彦九郎の死を知った。筑後久留米の森嘉膳宅で割腹自殺をしたというのだ。
道俊は、仕事も投げ出して江戸に向った。彦九郎の親友だという林子平を訪ねるためである。子平は、森嘉膳から送られてきたという、彦九郎の辞世の句を聞かせてくれた。
「朽ち果てし身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」
道俊が「彦九郎の足跡」を辿ってみようと考えたのはその時だった。しかし、懐の銭は乏しい。それならばと、若い頃に覚えた独楽回しの芸で稼ぐことにした。「どうぐら九兵衛」の芸名もその時つけた。
旅の手始めは、彦九郎が生まれた上野国(こうずけのくに)は細谷村(現群馬県太田市)。高山彦九郎が、代々村の名主を勤めた豪農の息子だったことをそこで初めて知る。道俊は、実家前で得意の独楽(こま)の綱渡りを披露した。上野から京都へ。更に水戸、仙台、松前から北陸路へと旅が続いた。下って中国から九州に渡る。九州では熊本から薩摩、日向を経て豊後の日田から久留米に。行く先々で土地の酒を飲み、彦九郎の苦労話を聞いた。
「先生の足取りを辿るのも楽ではなかったな」
道俊は、彦九郎が自害した森嘉膳宅に身を寄せて、しみじみ旅の厳しさを思い浮かべた。
謎多き九州の旅
森嘉膳は遠来の客に、彦九郎が死ぬ直前の様子を教えてくれた。
「高山さんは、虫の息で言い残された。『自分が日頃忠と思い義と思いしこと、みな不忠不義のこととなれり。今にしてわが智の足らざるを知る…』と。1年前にあれほど雄弁だった彼が、最後に現れたときはほとんど喋らず、塞ぎこんでおられた。1年かけて九州を歩いて、果たして高山さんの身の上に何があったのか?」
割腹の場所まで借りる間柄の森氏にもわからないことが、道俊にわかるはずもない。
「ただ…」
森嘉膳が一言付け足した。
「亡くなる前の晩、いつも持ち歩いているひょうたん徳利から、一気に酒を飲み乾された。その姿は、元気のよかった頃の高山さんそのままだった」
西道俊は、彦九郎の遺品であるひょうたんに酒を注いでもらい、すぐ近くの遍照院に出向いた。鬱そうとした大木の陰に、その墓はあった。
せめて、墓前で得意の芸を
「どうして腹切ったりするんです?先生」
道俊は、ひょうたんの酒を一滴かけて、墓標に問いかけた。
「何があったんです、死ぬ前の先生の身に?ここなら誰も聞いちゃいませんから、教えてくださいよ、先生」
「松陰以白居士」と刻まれた墓石は、それでも何も答えない。道俊はまたひょうたんの酒を一滴かけた。写真:遍照院の紅葉
「わかっていますよ。酒をそんなにチビチビかけるなって言いたいんでしょ。でもね、酒には余興がつきもんでさあ。これから不肖どうぐら九兵衛が、一世一代の独楽回しをご披露仕りますゆえ、酒はそれからごゆるりと…」
道俊は、大道での「舞台衣装」を身につけると、まず「かっぽれ」を一曲踊った。その後に独楽(こま)の綱渡りから喧嘩独楽まで、曲芸一式を熱演した。
「さあ、先生。残った酒を飲み乾しましょうや」
道俊がぐい飲みした後、残りを全部墓石にかけた。「先生、また会いましょう」と一声かけると、持ってきた短剣を自分の腹に突き刺した。(完)
久留米の寺町には、17の寺院が密集している。それぞれの寺には、江戸期から明治にかけて、日本や久留米に大きな足跡を残した御仁の墓がある。中でも遍照院は政治的なお方がたくさん眠っておられる。高山彦九郎を初め、維新後久留米で殺された、長州の尊攘主義者大楽源太郎などなど。中でも目を引くのが西道俊の墓の形だ。
「むかしからお参りが多いですよ。それも祈願の内容がはっきりしているんです。第一は、道俊さんが頭がよかったということで、受験生のお参りが盛んなこと。それから、道俊さんが大の酒飲みだったことで、「酒絶ち」を願うお方も多いですね。面白いでしょう。そしてもう一つ、「歯痛が治りますように」ですって。だって道俊さん、歯医者さんでしたからね。昔は、歯痛の方が墓石を削り取って呑んでいたそうですよ」とは、お寺を守る奥さんのお話し。
道俊の「ひょうたん墓」は、彼の知人や同志がその死を悼み、彦九郎の墓の傍らに造り葬ったものだとのこと。酒の飲みぷりがそれほど目立っていたということだろう。西道俊が彦九郎の墓前で切腹自殺したのは、享和2(1802)年5月2日のこと。享年73歳だった。
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