伝説紀行  どうぐら九兵衛  久留米市


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作:古賀 勝

第275話 2006年09月24日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

どうぐら九兵衛

遍照院のひょうたん墓

【高山彦九郎関連年表】

福岡県久留米市


酒樽にひょうたんをのせた西道俊の墓(遍照院)

 久留米の寺町に遍照院というお寺がある。この寺、討幕運動の先陣をきった尊王思想の旗手・高山彦九郎(1747〜93年)が眠っているところ。彦九郎さんにご挨拶をすませて裏手に回ると、なんとも奇妙な墓石が目に入った。上の写真をご覧あれ。墓碑の形はひょうたんで、その台座は酒樽だ。
 ひょうたん墓標の下に眠るのは、200年以上も前に亡くなった西道俊(にしどうしゅん)という長崎の蘭法医学者(歯科)だって。さて、道俊さんと高山彦九郎との関わりは…。

曲芸で路銀を稼ぐ

 時は寛政の頃(1795年頃)というから、明治維新より遡ること70年以上も前のことになる。大坂の天満宮参道で独楽(こま)の曲芸を披露している、どうぐら九兵衛という老人がいた。写真は、高山彦九郎の墓
「どうぐら」とは、曲芸や大道芸人の俗称らしい。「九兵衛」という名は、本名・西道俊が、「どうぐら」との語呂を考えて勝手につけた自分の芸名だろう。
 西道俊と高山彦九郎との、初めての出会いは京都であった。
「嫌な世の中ですね。百姓が食うものも食わずに納めた年貢を、湯水のように無駄遣いばかりしてるんですから、役人って奴らは」  
 旅籠の風呂で話しかけてきたのは、40歳を過ぎた骨太の男である。
「あれもこれも、徳川の世が長くなり過ぎたからですよ。幕府は天子さまに天下をお返しすべきです」
 高山彦九郎と名乗った男は、道俊を自分の部屋に呼んで酒盛りを始めた。持ち歩いているひょうたん徳利からなみなみと酒を注ぎ、豪快に飲み乾す。

師の足跡を追う

 それから2年が経過して、道俊は風の噂で彦九郎の死を知った。筑後久留米の森嘉膳宅で割腹自殺をしたというのだ。
 道俊は、仕事も投げ出して江戸に向った。彦九郎の親友だという林子平を訪ねるためである。子平は、森嘉膳から送られてきたという、彦九郎の辞世の句を聞かせてくれた。
「朽ち果てし身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」
 道俊が「彦九郎の足跡」を辿ってみようと考えたのはその時だった。しかし、懐の銭は乏しい。それならばと、若い頃に覚えた独楽回しの芸で稼ぐことにした。「どうぐら九兵衛」の芸名もその時つけた。
 旅の手始めは、彦九郎が生まれた上野国(こうずけのくに)は細谷村(現群馬県太田市)。高山彦九郎が、代々村の名主を勤めた豪農の息子だったことをそこで初めて知る。道俊は、実家前で得意の独楽(こま)の綱渡りを披露した。上野から京都へ。更に水戸、仙台、松前から北陸路へと旅が続いた。下って中国から九州に渡る。九州では熊本から薩摩、日向を経て豊後の日田から久留米に。行く先々で土地の酒を飲み、彦九郎の苦労話を聞いた。
「先生の足取りを辿るのも楽ではなかったな」
 道俊は、彦九郎が自害した森嘉膳宅に身を寄せて、しみじみ旅の厳しさを思い浮かべた。

謎多き九州の旅

 森嘉膳は遠来の客に、彦九郎が死ぬ直前の様子を教えてくれた。
「高山さんは、虫の息で言い残された。『自分が日頃忠と思い義と思いしこと、みな不忠不義のこととなれり。今にしてわが智の足らざるを知る…』と。1年前にあれほど雄弁だった彼が、最後に現れたときはほとんど喋らず、塞ぎこんでおられた。1年かけて九州を歩いて、果たして高山さんの身の上に何があったのか?」
 割腹の場所まで借りる間柄の森氏にもわからないことが、道俊にわかるはずもない。
「ただ…」
 森嘉膳が一言付け足した。
「亡くなる前の晩、いつも持ち歩いているひょうたん徳利から、一気に酒を飲み乾された。その姿は、元気のよかった頃の高山さんそのままだった」
 西道俊は、彦九郎の遺品であるひょうたんに酒を注いでもらい、すぐ近くの遍照院に出向いた。鬱そうとした大木の陰に、その墓はあった。

せめて、墓前で得意の芸を

「どうして腹切ったりするんです?先生」
 道俊は、ひょうたんの酒を一滴かけて、墓標に問いかけた。
「何があったんです、死ぬ前の先生の身に?ここなら誰も聞いちゃいませんから、教えてくださいよ、先生」
「松陰以白居士」と刻まれた墓石は、それでも何も答えない。道俊はまたひょうたんの酒を一滴かけた。写真:遍照院の紅葉
「わかっていますよ。酒をそんなにチビチビかけるなって言いたいんでしょ。でもね、酒には余興がつきもんでさあ。これから不肖どうぐら九兵衛が、一世一代の独楽回しをご披露仕りますゆえ、酒はそれからごゆるりと…」
 道俊は、大道での「舞台衣装」を身につけると、まず「かっぽれ」を一曲踊った。その後に独楽(こま)の綱渡りから喧嘩独楽まで、曲芸一式を熱演した。
「さあ、先生。残った酒を飲み乾しましょうや」
 道俊がぐい飲みした後、残りを全部墓石にかけた。「先生、また会いましょう」と一声かけると、持ってきた短剣を自分の腹に突き刺した。(完)

 久留米の寺町には、17の寺院が密集している。それぞれの寺には、江戸期から明治にかけて、日本や久留米に大きな足跡を残した御仁の墓がある。中でも遍照院は政治的なお方がたくさん眠っておられる。高山彦九郎を初め、維新後久留米で殺された、長州の尊攘主義者大楽源太郎などなど。中でも目を引くのが西道俊の墓の形だ。
「むかしからお参りが多いですよ。それも祈願の内容がはっきりしているんです。第一は、道俊さんが頭がよかったということで、受験生のお参りが盛んなこと。それから、道俊さんが大の酒飲みだったことで、「酒絶ち」を願うお方も多いですね。面白いでしょう。そしてもう一つ、「歯痛が治りますように」ですって。だって道俊さん、歯医者さんでしたからね。昔は、歯痛の方が墓石を削り取って呑んでいたそうですよ」とは、お寺を守る奥さんのお話し。
 道俊の「ひょうたん墓」は、彼の知人や同志がその死を悼み、彦九郎の墓の傍らに造り葬ったものだとのこと。酒の飲みぷりがそれほど目立っていたということだろう。西道俊が彦九郎の墓前で切腹自殺したのは、享和2(1802)年5月2日のこと。享年73歳だった。

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