伝説紀行  菅公御神体伝説  大分県九重町


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作:古賀 勝

第270話 2006年08月20日版

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

榧の木の自刻像

菅公御神体


2007.04.22

大分県九重町

【菅原道真関連年表】


菅原の榧の大木

 宝泉寺温泉郷(大分県九重町)近くの小高い場所に、菅原神社(天満宮)が建っている。全国に1万4000もあるという天満宮の一つなのだが、ここはほかの天神さんとは少しばかり意味が違うらしい。菅原道真(すがわらのみちざね)公が立ち寄ったという謂れがあるからだ。郷土の歴史にこだわるお方は、縁の榧の大木や浄明寺などの存在が何よりその(あかし)だとおっしゃる。
 現地を訪ねてみると、静かな山里が千年も前の時間を引き寄せてくれそう。

道真公豊後路へ

 時は平安時代中期の昌泰4(901)年。都人らしき一行が九重の山を下りてきた。
「ここはどこじゃ?」
 道案内役の味酒安行(あじさかのやすゆき)に質すのは、一行の主人である菅原道真。豊後港(現大分港)に上陸した後、庄内から飯田高原を経てやってきたのだった。
「先ほど村人に確かめまするに、葦谷村(あしやむら)だと…」
「葦谷村なら観応氏(うじ)のおられるところじゃな」
 道真が言う「観応」とは、若い頃京の都でともに学んだ無二の友のことである。大宰府に赴任する途中、回り道をしてでも訪ねてみたい相手であった。
「おお、道真殿。よくぞこのような山里までおいでくださった」
 観応は、畑仕事の途中だったらしく、衣の裾を掃いながら一行を出迎えた。「晴耕雨読」を絵に描いたような暮らしが似合う坊さんだった。
「風の噂では、道真殿は右大臣にまで上られたとか。帝(天皇)にもたいそう気に入られていて、政治の表舞台でご活躍だと聞き及んでいますぞ。それがまたなして?」
 今さら、何のための地方勤めなのかと、旧友は不思議がっている。

親友との再会で

「そなたの耳には、私の良き面だけしか入っておらぬらしい」
 菅原道真が右大臣についたのが10年前。彼の出世には前の宇多天皇の並々ならぬ肩入れがあった。しかし、出る釘は打たれるの例えで、嵯峨天皇が後ろ盾になる藤原時平の策謀で、九州大宰府(太宰権師)への左遷が決まった。まさしく「都落ち」である。
「お辛うござろう。よくぞ我慢なされたものじゃ。だが、ものは考えようぞ。九州には都にはない美しい景色と人情がある。それに旨い酒も…」
 二人は、夜が更けるまで語り合った。春にはまだ間がある2月である。二人が語り合う庫裏は深深と冷えた。目が覚めると、表はすっかり雪景色であった。
「このような南国で雪が降るのも何かの縁、ゆっくりなされ。食い物だけは、十分に蓄えておるでな。もちろん、供の方の分もたんと」
 観応は、大きな口をあけて笑った。

記念の自刻像

 湧蓋山(わいたさん=1500b)から吹き降ろす風に折からの寒波が重なって、大雪は治まる気配を見せなかった。


写真は、菅原地区の浄明寺本堂

「観応殿、あれなる木の枝を分けてもらえまいか?」
 道真が要望したのは、寺の北側で大きく枝を張る榧(かや)の木であった。彼は、切った枝で自らの立ち姿を鏡に捉えながら彫り始めた。大雪が治まるのに10日もかかった。いざ大宰府へ出発という前日に道真の自刻像が完成した。
「お世話になったお礼の印に」 道真は彫り上げたばかりの木像を観応に手渡した。
「ありがたいことじゃ。大切にお守りいたしますぞ。大宰府に着いてからは、けっして気落ちすることなく、十分に季節を愛でられよ」
 観応は、二度と会うこともなかろう親友を、精一杯の笑顔で見送った。

菅公死んでも地名を残す

 菅原道真にとって、九重の山々の見納めであった。赴任した太宰府では、粗末な「南館」(現榎社)に押し込められ、仕事らしい仕事もないままに、時だけが過ぎていった。
 「土師(はじ)」という名家に生まれ、周囲からは学問の天才と敬われた年月であった。順風満帆の役所勤めは、最高峰の位にまで行き着いた。それが一転して九州への左遷である。気がつけば、人生も還暦間近かにあった。
「気を落とさずに…」との友の激励は、無限の勇気を貰った気持ちであった。だが都の暮らしに慣れ過ぎた者にとって、実際の大宰府は無味乾燥の世界にしか映らない。日々、侘しさだけが募っていった。そして2年後(903年)、味酒安行など数人の家人に看取られてこの世を去っていった。豊後の友を訪ねてから丁度2年後の春先であった。

 観応が道真の死を知ったのは、それから更に数ヵ月発ってからである。遥々訪ねてきた味酒に、友の寂し過ぎる最期を聞いて、涙せずにいられなかった。写真は、菅原天満宮拝殿

 観応は、道真の自刻像を神棚に祭って供養した。里人は、村の名前を葦谷村から菅原村に替えた。これが、菅原神社の御神体と、地名となった「菅原村(現九重町大字菅原)」の由来である。
 道真の最期を看取った味酒安行が、主人のために建てた祠(墓)は、その後大きな社に建て替えられた。現在もなお全国からお参りが絶えない「太宰府天満宮」のそもそもである。(完)

 この話はどこかで聞いた憶えがある。そう、歌舞伎十八番「菅原伝授手習鑑」中の「道明寺の場」だ。道真は失意のうちに都を離れ、菩提寺である土師寺を訪れる。後の「道明寺」のこと。道真はそこで、自らの像を彫った。それが道明寺天満宮の御神体となった。自分の姿を彫る際使ったと言われる鏡や刀は、すべて国宝に指定されて保存されているとか。
 一方の豊後九重
の天満宮や浄明寺のある菅原地区はどうか。むかしの国鉄宮原線に沿って小国に向かう途中、大きな白い鳥居が見えてくる。急な階段を上ったところの本殿の前に、天満宮にはつき物の牛の銅像が祀ってあった。だが、肝心の御神体を拝むことはできない。
 階段を下りて、改めて鳥居の前に立ってみる。水田を挟んで向こう側に、例の榧の大木が生い茂っていた。物語の当時既に大木だったというから、少なく見積もっても千数百年の樹齢を重ねているはずだ。
…だから「伝説」は楽しい。
 さて、御神体の「道真像」であるが、本殿を覗いても拝むことができないはず。九重町史には、「…祀られているといわれるが、未だ拝観した人はいない」と書かれているのだから。菅原道真公が大宰府に赴任の際、本当に豊後路ルートをとったのかどうか。資料にはこれまた、「菅公のお立ち寄りや浄明寺の観応ご訪問など、いずれも何の記録も見当たらず、まったく伝説の域を出ない」とだけ記してあった。困ったものだ。でも、気力を奮い起こして、僕は「菅公が葦谷村の友を訪ねた」と言い張ることにする。どこかの総理大臣と同じく、
これは心の問題なのだから。

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