伝説紀行 正助橋  飯田高原(大分県)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第266話 2006年07月23日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

源流人の生き様

正助橋由来

大分県九重町(飯田高原)


宇土川に架かる正助橋

 豊後中村から鳴子川に沿って登って行き、絶景の九酔渓を過ぎると急激に視界が広がる。標高800bの飯田高原だ。飯田小学校や筌ノ口温泉郷を横目に長者原への途中、右手に洒落た別荘群が見えてくる。ふるさと筑後川の源流地帯である。そこでしばし、三俣山や硫黄山など九重の霊峰に見とれたあと、ハンドルを右いっぱいに切って蕨原(わらびばら)へ。橋を渡って数百メートルのところに谷川が横切っていた。そのむかし、湯坪村と田野村の境をなした宇土川だ。
 土地の人は、この川のことを「正助川」と言い、架かる橋を「正助橋」とも呼んだ。天保時代、湯坪村の住民・正助どんに因んでいるらしい。

正助どんがやってきて

「2年と続かんな」
 田野村の地主・新八郎が、湯坪村の小作人・正助に愚痴っている。このところの天候不順で、2年と平年並みの収穫が続かないことを嘆いているのだ。正助は、数年前まで新八郎の使用人だったが、所帯を持ったのを機会に少しばかりの田畑を与えられて独り立ちしている。その嫁さんも産後の肥立ちが悪くて2年前に赤ん坊ともどもあの世に行ってしまった。
「ちっとも顔を見せんので心配しとった」、主人が話しかけると、「なーに、どげんもなかですよ」と、正助が胸を張ってみせた。
「そうは言っても、顔色が悪い。それに、痩せちまったな」
「旦那さん、ご心配なさらんでください。太りすぎは体に悪かち言うから、食べ過ぎに気をつけとるだけですけん」
「そんならいいんだが…」

羽釜を貸してと言う

 新八郎は、正助のモジモジした態度が気になっている。
「用事があるんだろう、米でもいるんか?それとも…」
「いいえ、米なんざ。旦那さんにお借りしている田畑で獲れるだけで十分です。ただ…。ご飯を炊こうにも羽釜(はがま)がなうて…」
 言いにくそうに、釜の借用を申し出た。
「なんだそげなことか…。おい、マツ、そこの竈(くど)にかかっとる羽釜ば貸してやりなさい」写真は、田野地区に残る茅葺屋根
 言いつけられた女中のマツが、汲み置きの井戸水で釜の内側を洗おうとした。
「止めてくれ、マツさん。そこまでしてもろうちゃ勿体なか。俺が家で洗うけん」
 正助は、持ってきた風呂敷に羽釜を包むと、まっしぐらに帰っていった。新八郎とマツが小首を傾げて見送った。一刻もして戻ってきた正助が、きれいに洗いあげた羽釜をマツに返した。翌日、同じような時間にやってきた正助が、また羽釜を貸して欲しいと言う。マツが洗おうとすると、今度も強硬に断って、汚れたまま風呂敷に包んだ。

飯粒が露命の綱

 変に思ったマツが後をつけ、正助の家の裏口から覗いてびっくり。彼は借りてきた羽釜に水を足し、糊状になったところに、そこらの草を混ぜて粥(かゆ)を作った。出来上がると、目を細めて、これ以上のご馳走はないといった表情で舌鼓(したつづみ)をうった。
 正助の秘密を知ってしまったマツは、どうしたものかと悩んだ。結局このことを主人には言わないことにした。その次の日もやってきた正助に、釜の縁になるべくたくさん米粒を残して渡した。そんなことがしばらく続いた。
「マツ、山の下の串野まで遣いにいっておくれ」、新八郎の言いつけでマツが出かけた後、いつものように正助がやってきた。別の女中のフミがマツの代わりに応対した。正助は女中が羽釜を包んでくれる間、外で待っていた。
 手渡された風呂敷包みを抱えた正助は、急ぎ湯坪村に帰っていった。ところが、その日を限りに姿を見せなくなった。寝込んでいるのでは…、と心配になったマツが、生卵や米などを担いで湯坪村に向かった。

返す羽釜をきれいに洗って

 屋敷を出て、段々畑を縫うように下って行くと、村境の宇土川に出た。土橋を渡りかけると、浅瀬に正助が倒れている。うつ伏せのまま顔の半分を谷川に浸けて息絶えていた。
「どうして、どうして…」、マツは正助の冷たくなった手を握り締めながら泣きまくった。主人の言いつけで屋敷を空けた間、代わりをした女中のフミが、親切心で羽釜をきれいに洗って風呂敷に包んだ。釜にくっついた飯粒がなくて、正助は飢え死にしたのだった。
 そばに置かれた羽釜を見て、マツはまた激しく泣きだした。釜は、正助の右手に持ったたわしでピカピカに磨かれていた。フミがきれいに洗っていたのに、なにもまた洗いなおすこともなかろうに。
「性分なんだよ、正助の…」、駆けつけた新八郎が仏に手を合わせながら呟いた。
「女房・子供に死に別れた上に、何年も米が獲れない。それでも奴は、上納や年貢を減免してくれとは言わなんだ。豊後の百姓てのは、そんな意地っ張りばっかりだ」、新八郎もまた、マツと一緒に大声で泣いた。

 田野村と湯坪村の人たちは、正助に同情して亡骸を村境の川の岸辺に葬った。その後正助が羽釜を洗った川を「正助川」と言い、橋のことを「正助橋」と呼ぶようになったんだと。(完)

「天保の飢饉」とは、1833年から36年まで続いた全国規模の大飢饉のこと。一部豪商の買占めにより米価が高騰し、大坂などでは激しい打ちこわしなどの暴動に発展した。
 飢饉は、筑後川の源流の飯田高原(田野・湯坪・筋湯)にも及んだ。それも、凶作が享保年間から天保までの100年間、間断なく続いたというから大変なことだった。天保8(1837)年の様子を、旧田野村の資料は生々しく記録している。(九重町史下巻P.273 )
 天保8年の春になると、田野村には(籾が)ないので、肥後国小国の知人を頼って種々買い求めた。墨米(稲が倒伏して麹(こうじ)がついたようになった米・不良米)も・・・、次第に値上がりして200匁までなったが、それも思うように入手できなくなった。
 このような時、熊本藩が御上米として大坂
(阪)に送る予定の米の内を、小国の農民が夫食にと願い下げを受けた米があることを知った。そこで小国の農民に頼んで、その一部を密かに抜き荷買いをして、国境付近で受け渡しをした。このようにして、田野村の人々は粥にして辛うじて糊口(ここう)をしのいだ。
 とはいえ、これだけでは十分ではなく、僅かな米穀だけでは露命を繋ぎえないため、凶作だった天保7年の秋から、田野村の人々は、葛根やわらび・あおし・かしわ
(槲)・づふの類・しろふの根・いびら等を掘って、当然予想される翌年の大飢饉に備えた。
 また中には、「さたち稲」の株をよく洗い、打ち砕いて水につけ葛根と同様に揉んで、沈殿した部分を食べた人もあったという。

 資料の中身を詳しく理解できないため、「あおしとかづふ」なんてどんな植物なのか見当もつかない。だが、人が生きるために食べられるものは何でも食べた様子だけは、ビンビン伝わってくる。

 それから180年たって、飯田高原はすっかり様相を変えた。高原野菜や米穀などの農産物の宝庫になった。牛馬の生産も盛んだ。それになんといっても、観光地としての知名度がすごい。筆者がこの地をたびたび訪れるようになってから10年になる。明治の初期に、筑後川を遡ってきて湿地帯を開拓した筑後農民のことを取材するためだった。地元の人は、先達が拓いた田畑を精一杯自慢なさる。(拙著「大河を遡る」参照)
 正助橋に立って思う。むかしは木材を渡しただけの粗末な土橋だった村境の橋を、腹をすかした人たちが幾百人行き来したことか。途中で水呑みに降りたった谷川で、正助のようにそのまま息絶えた人も少なくなかったはずだ。鬱そうと繁る雑木林の垣間
(かいま)に、なぜか二股にしか見えない「三俣山」が、考え込む僕を不思議そうに覗き見しているのに気がつかなかった。  

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