伝説紀行 川瀬観音   空也上人 広川町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第265話 2006年07月16日版
再編:2017.04.17 2018.09.30
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

川瀬の観音さん

空也上人縁の寺

福岡県広川町


空也が滞留した救世堂(円通寺本堂)

 広川町の川瀬というところに円通寺という名の古いお寺がある。通称「川瀬観音」と呼ばれているが、檀家を持たない念仏寺である。平安時代の有名な空也上人が、5尺8寸の弥陀像をお祀りしたのが始まりだといわれる。ほかにも上人が掘った「弥陀井」や、難儀している村人のために架けた独木橋(まるきばし)など、縁(ゆかり)のものがたくさんある。
 私が円通寺を訪ねたのは、田植えも終った6月の下旬であった。生い茂った古木を縫って参道を進むと本堂が構えていた。正面には「救世堂(ぐせどう)」と書かれた額がかかっている。

赤ん坊が泣き止んだ

 時は平安時代の中頃。広川の岸辺の寺に寝泊りしているお坊さんが、辻説法を終えて救世堂に戻る途中のことだった。大園川(おおぞのがわ)に架かる独木橋を渡ろうとすると、足元から「オギャー、オギャー」と赤ん坊の泣き声がする。
「かわいそうにな、お母(っか)さんに見捨てられたのか。よしよし」、赤ん坊を抱き上げてあやすが、なかなか泣き止まない。「寒いのか?」、冬も近い夕暮れ時、薄布一枚では寒かろう。自分の衣を着せるが、それでも泣き止まない。


川瀬観音

 面白いものを見せれば泣きやむかもと、渡りかけた橋の片を削って火をつけた。炎はゆらゆら揺れながらお坊さんの顔を照らした。その様子が面白いのか、赤ん坊は「キャー、キャー」声をたてて笑い出した。
「そこなお方、出てきてあなたの赤ん坊を抱きなされ」
 お坊さんが暗闇に向かって声をかけると、一重の着物に素足のままの女が現れた。

坊さんが村を去った

 女は、我を忘れたように赤ん坊を抱きしめた。坊さんに促されて乳首を含ませると、赤ん坊がまた泣きだした。
「乳が出ないんです。私が何も食べていないもので・・・」
 夫に先立たれて、暮らしがたたなくなり、夫のもとに行こうと決意した。せめて子供だけは育って欲しいと思い、捨てたのだと言う。
「死んではいけません。生きていれば、必ずあなたと赤ん坊は御仏に守られます」
 坊さんは、母子を救世堂に案内して、村でいただいたご飯を腹いっぱい食べさせた。そんなことが村人の耳に入ったのか、その後も赤ん坊が夜泣きすると救世堂近くの独木橋を削って燃やす人が後を絶たなくなった。円通寺には、現在もその時の杉材の片が寺宝として保存されているという。


空也像

 お坊さんは村人に、「お世話になったこの村に、難事が起こったら・・・」と、ある大事な言葉を言い残して、救世堂をあとにした。
 このお坊さん、京の都で「南無阿弥陀仏」の名号を市民の間に広げて「市聖(いちのひじり)」の尊号をいただいた空也上人であった。

大事な言葉で救われた

 上人が亡くなって250年もたった鎌倉時代。村のあちこちで悪病が流行り、日照りや大地震など天変地変が相次いだ。人々は、蒙古の兵の怨霊だと畏れおののいた。


円通寺山門

 1274年と1281年の文永・弘安の役(蒙古軍が博多湾に攻め入った時の戦争)では、八女地方からも大勢の兵が駆りだされた。その際、引き連れてきた捕虜を皆殺しにしたことがある。よくない出来事は、その時殺された蒙古兵の祟りだと言うのだ。
 村長(むらおさ)は、先祖から伝わる空也上人の大事な言葉を思い出した。「もしたびたび悪事が起こって人々が困るようなことがあったら、篤(あつ)く仏事を営むべし」と。
 村長(むらおさ)は、独木橋袂に大勢の僧を集め、法華経千部の法要を執り行った。すると、それまでの厄難が嘘のように消え去った。それからである。独木橋のことを別名「千部橋」とも呼ぶようになったのは。そして、この橋から村人が落ちて流されたりすることもまったくなくなったという。(完)


独木橋付近

 空也上人と円通寺の縁が深いのは、上人が全国行脚の途中に川瀬に立ち寄ったからかもしれない。
 川瀬の「救世堂」は、その後「広隆寺」と名を変え、更に変転を重ねて現在にいたっている。円通寺は、江戸時代の川瀬の大庄屋が腫れ物に悩まされ、観音さまにお参りしたら平癒したことから、吹き出物などを治してくださるありがたい観音さまとしても親しまれてきた。
 古代史を彩る筑紫の君磐井の墓は、円通寺から僅か半里
(2キロ)南に位置している。磐井が生きた古墳時代から、政治・軍事の拠点として君臨したこの村に、このような古刹が栄えるのも頷ける。

「川瀬観音」の場所
福岡県八女郡広川町新代

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