伝説紀行 川瀬観音 空也上人 広川町
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
川瀬の観音さん 空也上人縁の寺 福岡県広川町
広川町の川瀬というところに円通寺という名の古いお寺がある。通称「川瀬観音」と呼ばれているが、檀家を持たない念仏寺である。平安時代の有名な空也上人が、5尺8寸の弥陀像をお祀りしたのが始まりだといわれる。ほかにも上人が掘った「弥陀井」や、難儀している村人のために架けた独木橋(まるきばし)など、縁(ゆかり)のものがたくさんある。 赤ん坊が泣き止んだ 時は平安時代の中頃。広川の岸辺の寺に寝泊りしているお坊さんが、辻説法を終えて救世堂に戻る途中のことだった。大園川(おおぞのがわ)に架かる独木橋を渡ろうとすると、足元から「オギャー、オギャー」と赤ん坊の泣き声がする。
面白いものを見せれば泣きやむかもと、渡りかけた橋の片を削って火をつけた。炎はゆらゆら揺れながらお坊さんの顔を照らした。その様子が面白いのか、赤ん坊は「キャー、キャー」声をたてて笑い出した。 坊さんが村を去った 女は、我を忘れたように赤ん坊を抱きしめた。坊さんに促されて乳首を含ませると、赤ん坊がまた泣きだした。
お坊さんは村人に、「お世話になったこの村に、難事が起こったら・・・」と、ある大事な言葉を言い残して、救世堂をあとにした。 大事な言葉で救われた 上人が亡くなって250年もたった鎌倉時代。村のあちこちで悪病が流行り、日照りや大地震など天変地変が相次いだ。人々は、蒙古の兵の怨霊だと畏れおののいた。
1274年と1281年の文永・弘安の役(蒙古軍が博多湾に攻め入った時の戦争)では、八女地方からも大勢の兵が駆りだされた。その際、引き連れてきた捕虜を皆殺しにしたことがある。よくない出来事は、その時殺された蒙古兵の祟りだと言うのだ。
空也上人と円通寺の縁が深いのは、上人が全国行脚の途中に川瀬に立ち寄ったからかもしれない。 「川瀬観音」の場所 |