伝説 耳納山の由来 久留米市田主丸


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第264話 2006年07月02日版
2019.01.26

プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

石垣の牛鬼
「耳納山」の由来

久留米市田主丸町


石垣山観音寺の山門  

 ふるさと筑後を語るとき欠かせないのが、耳納(みのう)の山並みだ。そんなに高いというわけでもなく、かと言って、とりわけ珍しい形もしていない。なのに、西から東へ25キロ連なる嶺々が屏風を立てたように美しく、富士山よりも素晴らしく見えてしまうから不思議である。
 耳納連山と筑紫山地の巨大な谷間を、筑紫次郎(筑後川)が悠々と流れている。次郎を親方と慕う中小河川たちが、北から南から寄り添ってくる。私たちの先祖は、こんな恵まれた大地と河川の豊かさを拠り所にして生きてきたのだな。
 さて、自慢たらたらの耳納山の「耳納」とはどういう意味なのか。謎を追って、むかしの石垣村(現久留米市田主丸町)を訪れた。ここには「石垣山観音寺(いしがきざんかんのんじ)」の中興の祖と言われるお坊さんと化け物(牛鬼)との、浅からぬ因縁があると聞いたからだ。

山が動く!

 耳納連山の中でも最も高い鷹取山(802b)の麓に、観音寺は建っている。1300年以上もむかし、天武天皇が造られたお寺だと聞く。一度落ちぶれかかったが、平安時代に金光というお坊さんが建てなおしたんだと。
 寺の山号ともなっている「石垣」の地名は、空から降ってきた霊石が、寺を取り囲んだことに因(ちな)んでいるとか。
 さて、「耳納」の由来だが…

 時は文治2(1186)年の夏のこと。壇ノ浦決戦の翌年である。石垣の住民は、絶え間ない山鳴りに悩まされていた。
「ありゃ、山ん神さんの腹かきょらす(怒っている)とばい」とは、村人たちの一致した見方であった。


樹齢400年のハルサザンカ

「和尚さん、どげんしたらよかもんでっしょか?」
 村人は観音寺の金光坊に相談した。
「ただの山鳴りでもなさそうだしねえ・・・」
 比叡山で学び帰国したばかりの若い和尚は、村人たちをますます悩ませるようなことを言い出した。

化け物退治に

「坊(ぼん)さん、そりゃ、どげなこつですな?」
 訝(いぶか)る村人を前に和尚は、「今夜、その化け物を退治しましょう」と言いだした。夜が更けて、右手に一振りの劒を下げて出てきた金光坊は、選ばれた村の豪傑・三次とマキオを従えて稜線を目指した。行けども行けども道なき道である。
「声を出してはいけません」
 連れの二人に言い聞かせた坊は、峠近くの雑木の中で、座禅を組んで経を唱え始めた。
「南無・・・、山を動かし、良民を困らす怪しきものよ。言いたきことあらば、姿を見せて申してみよ」
 経文を唱えながら、和尚は見えない化け物に語りかけた。その時、静かだった山が根こそぎ「ぐらっ」と動いた。いつもの山鳴りの数十倍もの迫力に、生きた心地がしない三次とマキオ。更に地割れが起こりそうな足音とともに、目の前の大木がなぎ倒された。

山荒しのせいで頭が牛に

 視界を塞いでしまうほどの巨大な物体が姿を現した。それでもなお、金光坊の経文は途切れない。化け物の体長は優に5bを超えている。体は筋肉隆々の赤鬼であり、首から上は牛の頭であった。角は、一突きで何ものをも砕いてしまいそうにいきり立っている。
 鬼は、角を震わせながら金光坊に襲いかかろうとするが、その都度、坊の激しい読経に阻まれた。


写真は、耳納連山


「観念せい!」、立ち上がった坊は、劒の鞘を払うと牛鬼の手首と耳たぶを切り落した。牛鬼はその場にしゃがみこんで泣きだした。
「私ら山に棲む鬼は、人さまとの共存を心がけてまいりました。ところが、山を荒らすよからぬ者が谷川に毒を流し、その毒を飲んだ私奴はかくの如く頭が牛の姿に成り果てたのでございます。生きる甲斐もなく、ならばせめて人間社会に仕返しをと考えたのでございます」
 事情を聞いて同情した和尚は、牛鬼を山に戻して観音寺に帰ってきた。

耳たぶを山に返す

 金光坊は、その日から三日三晩、牛鬼の安泰を願って祈り続けた。石垣から眺める広大な山地では、多種多様の生き物が暮らす。いずれもが大自然の恵みを受けながら、お互いが助け合っている。生き物とは、獣や鳥だけではない。雑草や雑木も、そして鬼すらも大自然の生態系の中に組み込まれていたのだ。金光坊は、谷間に毒を流して、鬼を化け物にした奴が許せなかった。
 坊は決断する。切り取った手首は寺の宝として永久保存することに。朝な夕な供養の経を唱えれば、牛鬼の手首を切った我が罪が許されるかもとの思いで。そしてもう一方の耳たぶは、切り落した足代(むかしの耳納山の呼び名)の山中に埋めた。そうすることで、人々の口から口に牛鬼の不幸が伝わっていき、山を愛する気持ちが盛んになることを願ってのことであった。
「耳納」の名前は、金光坊が牛鬼の耳を納めたこの時のことに由来している。(完)

 石垣山観音寺を訪ねたのは、春まだ浅い3月だった。境内に入ってまず驚かされたのは、冒頭写真のハルサザンカである。樹高10bを超す大木いっぱいに赤い花をつけている様は、壮観としか言いようがない。品種は、さざんかとヤブツバキが混じったものだと説明された。


観音像

 ひとしきりハルサザンカに酔いしれた後、観音堂の内部を覗いた。金箔に彩られた仏さまは、何者をも跪(ひざまづ)かせずにはおかない、威風堂々のお姿であった。由緒によれば、物語の金光和尚は、耳納連山の西端高良山で修業した後、比叡山に登って天台の教えを得て再びと観音寺に戻り、灌漑治水などに寄与したり護摩堂などを建設して寺の中興を果たした。更に郷里を後にした金光和尚は、浄土宗の法然上人に入門して陸奥国へ。そこで生涯を全うされたとのこと。
 手首を切られた牛鬼のことだが・・・。田主丸の伝説だからというわけでもあるまいが、「牛鬼はカッパの先祖」だと分析なさる偉い御仁もあるようだ。いくらカッパが看板の町だからといっても、無理やり牛鬼とカッパを結び付けなくてもよさそうなものを。それぞれに存在してこそ、「伝説」が「伝説」であり続けられると思うのだが。

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