伝説紀行 背振の十三塚  神埼市(脊振村)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第261話 2006年06月11日版
再編:2018.07.22 2019.03.24
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

鹿の路に忠信の霊が…

十三塚由来

佐賀県神埼市(旧脊振村東鹿路)


権現さん(祠)と十三塚跡

 福岡県と佐賀県は、1000b級の山襞(やまひだ)で仕切られている。福岡側から望む山脈の最高峰・背振山(1055b)を越えたところ、肥前(佐賀)国の脊振村(現神埼市)と言う。脊振村の南端部には、「鹿の路」と書いて「ろくろ」と呼ぶ地区が存在する。その内の「東鹿路(ひがしろくろ)」では、現在27世帯が暮らしていらっしゃる。


写真は、公民館に祭られる塩釜神社

 そんな静かな山里に、大むかし源平合戦で名を馳せた、源義経とその家来の霊が祀られていることはあまりしられていない。「塩釜大明神」や「九郎宮社」などがそれだ。大明神を祀る公民館から見上げる権現山には、義経の家来・佐藤忠信の子孫らが眠る十三塚もある。 

背振の山に六部十三人

 時は承久3(1221)年秋の、北風が身に染みる夕刻であった。六部姿(ろくぶすがた)の男13人が鹿路の山道を通りかかった。
「もし、これからどちらへ?」
 声をかけたのは、村長(むらおさ)の徳兵衛だった。
「山を下りて、吉野ヶ里まで・・・」
 列の最前列を歩いていた男が答えた。
「そりゃ無茶だ。山道はそりゃあ険しいでな。あちこちで木も倒れておるし、橋も落ちとる。悪いことは言わんから、明日の朝にしなされ」
 一行は徳兵衛の親切に甘えることにした。
「拙者の名は庄司と申す・・・」
 徳兵衛の屋敷でくつろいだところで、男が自己紹介した。
「こんな山ん中だで、聞き耳立てるもんもおらんじゃろう。よかったら本当のことを聞かせてくださらんか」
 徳兵衛は、ことと次第では力になることを約束した。

義経家来の縁の者

「三十数年前、壇ノ浦での源氏と平氏の戦(いくさ)をお聞き及びでござろう」
 男が、話の前提として源平合戦のことを持ち出した。
「それはもう。あの戦いで、平家の世が終ったですけんね。おかわいそうに、幼い天子さまがみもすそ川(関門海峡)の底でお眠り遊ばすことになりましたな」
 男は、身の上と旅の目的を静かに語り始めた。わが世を謳歌した平家一門も、源氏再興のために決起した頼朝によって、安徳幼帝とともに都を追われることになった。兄頼朝の力になろうと奥州から馳せ参じた源義経と家来の佐藤継信・忠信兄弟らは、瀬戸内の屋島に仮内裏を構えた平家を急襲した。その戦で継信は、主君の矢面に立ち平教経の矢に射抜かれて戦死した。
 義経らは、さらに西へと逃れる平家を、関門海峡の急流(壇ノ浦)で壊滅させた。平家討伐の最大の功労者であるはずの義経だったが、逆に頼朝の恨みをかうことになる。都から吉野に逃れた義経主従に、容赦なく追手が迫った。
 佐藤忠信は、義経の身代わりとなって吉野に残り、主君の一行を逃がした(その後京都で自害)。奥州に逃れた義経は、平泉で忠信の帰りを待つ幼い遺児に、自分の名前の一字を与え、「義忠」と名づけた。

兄弟で主君を護る

 結局、義経主従も平泉で暗殺された。父忠信と伯父継信、それに主人と慕う義経をも失った義忠は、失意の中で父の故郷の信夫郡(しのぶこおり)で年齢を重ねた。
 齢(よわい)50を前にして義忠は、12人の家来とともに六部姿で西国を目指した。義経と父と兄弟、それに源平の戦いで戦死したすべての兵士の霊を弔うために。

 まず、塩釜宮で塩釜大明神の分霊をいただいた後、父忠信が義経の身代わりとなった吉野山へ。次に、伯父継信が戦死した屋島で。最後に、平家との決戦場となった壇ノ浦へと、供養の旅は続いた。
「我らは、供養の旅を終えれば後に思いは何も残りませぬ」
 ひと通り源平決戦から義経の最期、そして自らの旅のことを語り終えると、義忠は、大きく息を吐いた。

忠信の子孫が今も?

「まさか、・・・貴方たちはこの背振の山で死に急ぎをお考えでは?」
 徳兵衛が、これまでに見せたことのない険しい表情で義忠の眼中を見据えた。座敷に陣取った家来衆の間に重苦しい時間が流れた。
「大事なお方のご供養は、あなたの命が尽きるまで続けるものです。自らお命を絶たれるようでは、これまでの故人を悼む気持ちが台無しになってしまいましょう。よろしければ、この鹿路を第二のふるさととお思いなされ。ここなら頼朝さまの目も届きますまい。田を耕し、山を慈しむ気持ちこそが、何よりの供養というものでございましょう」


東鹿路の集落


 徳兵衛が、義忠と家来衆の手を一人一人握り締めながら説いた。そのうちに嗚咽するもの、大声で泣き出すものが続出し、徳兵衛もやり場を失った。

 徳兵衛の村人への働きかけで、鹿路の里の中央に質素な宮社が建てられ、塩釜大明神に加えて、義経と父・伯父の霊が祀られた。
 義忠は、この地で生涯を全うすることを決めた。佐藤忠信の子孫は、その後代々大いに栄えたということ。ずっと後になって、村人は佐藤義忠と12人の墓を、東鹿路の里を見下ろす山頂に築いた。これが、権現さんと十三塚の始まりだとか。(完)

 梅雨を目前にした背振は、山の木々が瑞々しくて、車で走っていても気持ちが癒される。カーナビを頼りに、田んぼで働く人に何度か「しかじ」を訊いた。「それはろくろでっしょ」だと言い返されて、不勉強を恥じる。ようやくたどり着いた「東鹿路(ひがしろくろ)」で、「塩釜大明神と十三塚」のことを尋ねた。「大明神は目の前の消防詰め所の場所にあったばってん」、道路拡張で今は公民館の中に移されているという。
「権現さんに行ってみますか?」と、目の前に見える小高い山を指差された。案内されて登ってみると、平らな山頂に貫禄十分の祠が一基。「この辺に土盛りがあったはず・・・」だが、今は消えてなくなっている。でも、長方形の平らな場所がそうであったことは容易に想像がつく。
 祠に向かって最敬礼をした後、大明神のおわす公民館にお邪魔した。「昔は鳥居もあってちゃんとしたお宮さんじゃったばってん・・・」今は集落の皆さんの集合の場所に落ち着いておられる。祭壇を覗くと、三体のご神体が祀ってあった。塩釜大明神と忠信と九郎
(義経)の宮社なのだろうか。でも少し窮屈そう。
「忠信の姓は佐藤で、彼の故郷は福島県です。1500キロ離れたこの村にも佐藤さんはおいでですか?」と、つまらない質問をしてしまった。ところが返ってきた返事は、「はい、たった27戸中に、5軒も佐藤姓ですけんね」だと。東鹿路の大明神は、この村に佐藤姓が多いことから始まったものなのか、それとも現在お住いの佐藤さんらは本当に忠信のご子孫なのか。ゆっくり会って話してみたい。

*佐藤兄弟の紹介
  兄:佐藤三郎兵衛継信(1158年〜85年)
  弟:佐藤四郎兵衛忠信(1161年〜86年)
*兄弟のルーツ
  奥州信夫郡(現福島県飯坂市)
*塩釜大明神
  宮城県塩釜市塩竈神社のことか?。そこなら航海安全・安産の神として知られている。
*みもすそ川
  壇ノ浦で入水した二位の尼の辞世の句で表現する関門海峡のこと。

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