どんぶり川のカッパ
福岡県瀬高町
名鶴堰
矢部川の中流域には、今でも仰山のカッパが棲んでいると聞いて出かけた。国道209号沿いの船小屋温泉駐車場に車を置いて、河川敷を下流に向かってゆっくり歩いていく。カッパが好みそうな川中の澱みに気持ちを集中させながら、JR鹿児島線の鉄橋下へ。何処も彼処も(どこもかしこも)護岸整備がすすみ過ぎていて、彼らの棲家なんて見つかりそうにもない。肩まで伸びた雑草を掻き分けながら川岸に出ると、突然「こんにちは」と釣り人から声をかけられてびっくり。照れ隠しに「カッパはいませんか?」と尋ねたら、人のよさそうな釣り人は、「むかしのどんぶり川には、ウヨウヨおったばってん…」と答えた。
「どんぶり川とは、いったいどこのことですな?」と訊くと、「今釣り糸を垂らしている、ここがそうですたい」だと。名鶴堰のすぐ下流の左岸で、流れが止まったように見える場所のことだ。
「むかし、沖端川分流地点から下流は水面が澱んどって、カッパには絶好の棲家だったとですよ」
釣り人は、子供の頃にお祖父さんから聞いたという話をしてくれた。
カッパが馬や子供の足引っ張る
100年もむかしのこと。矢部川と沖端川に挟まれた本郷村に、弥七という大変知恵の働く爺ちゃんが住んでいた。若い頃漁師だっただけあって、泳ぎにかけては彼の右に出るものはいないという評判だった。
そんな弥七さんの耳に、カッパによる被害届けが相次いだ。川岸に繋いでいた馬が水中に引きずり込まれたとか、泳いでいる子供が川底に連れて行かれたといったことだった。その上、収獲間近のキュウリやトマトを盗まれたとも。
「カッパばやっつけられるとは、知恵もんでその上泳ぎの名人の爺ちゃんしかおらんけん、村の衆は、弥七さんにカッパ退治を依頼した。
「名人」と言われて嫌とも言えなくなった弥七さん。翌日から、カッパ退治の大作戦を開始することになった。朝早くから庭に出て、脇目も振らずに縄をなう。
「もう5間(9b)くらえにはなったかな」と呟きながら、両の掌(てのひら)に「ぺっ」と唾をかけて、また縄をなう。
カッパと泳ぎ名人の対決
それから3日ほどたった午後のこと。爺ちゃんの目線の先に誰かの裸足が見えた。指の間には水掻きのような薄い膜がついている。皮膚は緑色のようだが、泥で汚れていてはっきりしない。
弥七さんはわざと気がつかない振りをして、熱心に縄をない続けた。すると、件(くだん)の生き物は1歩2歩と接近してきた。そこでやおら顔を上げた爺ちゃん。
「おまや(お前は)、どんぶり川のカッパじゃなかか。何しに来た?」
背丈は10歳くらいの子供くらいで、頭に皿のようなものが載っている。弥七さんの凄みに一瞬怯(ひる)んだ生き物は、体勢を立て直して答えた。
「そうよ、おいらはどんぶり川を縄張りにするカッパよ。それが何が悪いか?」と、あばら骨むき出しの胸を更に突き出した。爺ちゃんも、ここが勝負と決断した。
「そのカッパが、わしにどげな用事があるとか?子供や馬だけでは物足らんで、こん老いぼれまで水の中に引きずり込む気か。こう見えても、わしは泳ぎの名人ぞ」
こうなったら知恵で勝負!
「ところで爺ちゃん。爺ちゃんは何でそんなに長い縄をなっているんだ?」
「わしは、こん縄ば伝うてどんぶり川に潜っていくとたい。そしてカッパば一網打尽にするとたい」
そんなことを言いながら、弥七さんは後ろを向いてゴソゴソと何ごとか始めた。
「あのねえ、どんぶり川ってとこは底なしだよ。そのくらいの縄で届くような深さじゃないよ」
「そんなら、こん縄がどんくれえ長いものか、ぬし(お前)が測ってみれ」
名鶴橋付近の深水
弥七さんに言われて、藻次郎が縄の長さを計り始めた。
「一尋、二尋(ひとひろ、ふたひろ)、…100尋、101尋…」、何時までたっても縄の切れ目がこない。とうとう日が暮れてしまった。
「参りました、爺ちゃん」
藻次郎が深々と頭を下げると、爺ちゃんはにこにこ顔になって、頭の皿を撫でてやった。
「よかよか、許してやるたい。よかか、これからは、わしん畠んキュウリならどげん取って食うてもよかばってん、よその畠はでけんぞ」
カッパの藻次郎は、おみやげに貰った野菜をぶら下げて、飛ぶようにして土堤を上っていったとさ。
結局、人間の勝ちに?
「弥七さんがなった縄とは、川底までも届くようにそんなに長いものだったんですか?」
僕の愚問に、釣り人が笑いながら答えた。
「そげん長かはずはなかでしょもん」
「それじゃ、どうして?」と訊き直すと、釣り人はまた高笑い。
「藻次郎とのやりとりの間に、一瞬だが弥七さんが後ろを向いてゴソゴソと何ごとか始めたち、話しましたでっしょ。あん時、弥七さんな縄の端と端ば結んだとですたい。長い長いワッカになっとるこつなんち知らん藻次郎は、際限ない縄と思うてしもうて恐れをなしたとですよ。ワハハハ」
いろいろなカッパの話は知っているが、人間との知恵比べとはね。まだまだお話しを聞きたかったのだが、それじゃ釣れる魚も釣れなくなるということで、仕方なく土堤を這い上がった。(完)
矢部川(どんぶり川)の川辺は、筑後川とは一味違う雰囲気がある。それは何百メートル間隔で堰が造られていることだ。物語の名鶴堰もその一つで、すべてが江戸時代に建造されたものだとか。当時矢部川を挟んで北部が久留米藩、南部が柳川藩に棲分けされていた。両藩にとって、矢部川の水利は生死に関わる問題だったのである。久留米が堰き止めれば、すかさず柳川が堰の建造に取り掛かる。南から刎(流れを変えるための突堤)を伸ばせば、北もすぐに石組みを始めるといった具合に。
沖端川に水を引き込む「松原堰」もその一つ。矢部川の水を取り込んで、全長10キロの間の田畑はもちろん、観光資源である柳川市中の掘割りをも潤してきたのである。
川岸を散歩するお年寄りに「どんぶり川ってご存知ですか?」と尋ねてみた。答は「NO!」。「このあたりにカッパがたくさん棲んでいるそうですが?」には、「それは聞いたことがありますたい。ばってん、この年齢になるまで、見たこつはありまっせん」。
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