伝説紀行 日源と筑後和紙  筑後市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第248話 2006年03月12日版
再編:2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

日源上人

福王寺手漉きの紙

福岡県筑後市

 
日源の墓石
 
日源上人像

 矢部川の岸辺に「福王寺」という日蓮宗の古刹が建っている。山門を潜ると「日源聖人」と刻された大きな石碑が目に飛び込む。400年以上もむかしに亡くなったお坊さんのお墓らしい。お坊さんの生国は越前国とかで、筑後の特産品発展に深く関わったとか。
 お寺の前を、江戸時代までの坊の津街道(鹿児島への道)が走っている。すぐ南は南筑橋なる立派な橋で、南と北をあっと言う間に行き来できる。そしてすぐ下流は、効能抜群の船小屋温泉郷である。


楮(こうぞ) 福岡植物園

行脚の坊さんが溝口村にやってきた

 ときは安土桃山時代の文禄年間。豊臣秀吉が天下を治めたあと、朝鮮侵略を企てて名護屋城(佐賀県鎮西町)に全国の大名を集結させた時期である。
 田植えには間がある坊の津街道を、深編み笠を被った若いお坊さんが薄墨の衣をなびかせながら溝口村(現筑後市)にやってきた。矢部川の渡し場(現筑後市−瀬高町)の手前で、幼子を守りしているタツ婆さんに声をかけた。
「法華宗のお寺をご存知ないか?」
 婆さんは、怪訝な顔つきでお坊さんを見つめた。


矢部川

「福王寺のことじゃろうが、あの寺ならもう誰も住んどりゃせんよ」
 お坊さんは、礼もそこそこに教えられた荒れ寺に入っていった。
 しばらくして、タツ婆さんが矢部川の土堤にあがると、先ほどのお坊さんがぼんやりした顔で水面を見つめている。
「お坊さんどうなさった?」
と声をかけて覗き込むと、お坊さんの顔は涙でグシャグシャに濡れている。その後、タツ婆さんに小さく頭を下げて、もと来た街道を北の方に去っていった。

今度は越前の職人を連れて・・・

 それからひと月もたったろうか。タツ婆さんが福王寺に立ち寄ると、男4人が脇目も振らずに境内の雑草を抜いていた。
「あのお、あなたはあの時のお坊さん?」
 婆さんが声をかけると、剃髪した男が体を起こした。
「いやあ、その節は…」
 お坊さんは、越前生まれで日源と名乗った。他の3人は、日源が越前から連れてきた甥(兄の子供)の新左衛門・新右衛門・新之丞の三兄弟だという。
「前に会った時、泣きじゃくっていなさったあんたが・・・」
「お恥ずかしい。あの時は、ご住職が亡くなっていると聞き、頭の中が真っ白になって・・・」
 日源僧は、汚れた手もお構いなしに坊主頭を撫でた。
「それが、どうして今ここに?」


八女市の紙漉き場


 タツ婆さんの疑問に応えるべく、日源和尚は新左衛門らを促して庫裏に案内した。

楮で紙をつくる

 入ってびっくり、何年も手入れしていないはずの庫裏が一変している。床はピカピカに磨きあげられ、棚の食器類も汚れやしみがまったく見えない。土間の大きな竈(かまど)も最近造られたばかりのようで、これまた1斗くらいの飯なら一度に焚けそうな大釜がかけられていた。
「こんな大袈裟なもんで、いったい何を焚こうとしなさるんで?」
 婆さんの質問に、日源僧は「まあ、もうしばらく見ていてください」と答えるのみである。三兄弟の中の弟2人が、5尺(1.5b)はありそうな楮(こうぞ)の束を運び込んできた。無駄枝を切ったら水洗いして煮ると言う。

楮(こうぞ)クワ科の落葉低木。西日本の山地に自生し、各地で栽培。樹皮は日本紙製造の原料。
楮紙(こうぞがみ)
和紙の一種。コウゾの樹皮の繊維を主原料にして漉いた紙。


和紙漉き風景(佐賀・名和和紙)

「もう、お分かりでしょう。紙を作るのです、この楮(こうぞ)の樹皮で」
「どうしてまた?」
「この寺を再興するためですよ。前のご住職が亡くなったことを、師である京都の順妙寺さんにお話ししましたら、それなら日源が再興せよと言いつかりまして。だから・・・」
「だから、荒れ放題の寺をきれいになさった。それで、また、どうして紙つくりなのです?」
「寺を再興するにもお金がかかります。それに、見たところ、この村の方々の暮らし向きも楽ではなさそうですし。だから、生国で覚えた紙漉(す)きの技を皆さんに伝授して、お国のお殿さまや商売人に売るのです。そうすれば、小銭も入ります」

筑後和紙のルーツは越前国

 新左衛門・新右衛門・新之丞の三兄弟は、実は越前における紙漉き職人だったのである。彼らは手際よく、楮の皮を剥き、あく抜きを終えると矢部川の川岸で漂白物を流し落とした。その後は漉き槽の中に原料を分散させて粘液を加え、簀桁で一枚一枚紙を漉いていった。
「どうです、きれいな紙ができたでしょう」
 日源僧は、1日がかりで出来上がった紙を陽に透かしながら、出来栄えに満足そうだった。
「わかりましたよ、お坊さん。ところで、私ら百姓にはおおよそ縁がなさそうなこんな立派な紙を、いったい何に使うんです?」


八女市の紙漉き案内

「それをまだ話してませんでしたね。楮で漉いた紙は弾(ひ)きが強いので障子紙にはうってつけなのです。提灯(ちょうちん)に使えば、少々雨に濡れても大丈夫です。それに、お偉い方の書き物などでも、きっと重宝がられると思いますよ」

紙漉きは天女から教わった

「愚僧や新左衛門たちが生まれた越前の今立というところは、東に聳える高い山から下りてくる美しい水が自慢の村です。 もう1000年もむかしに、上流に舞い降りた川上御前とおっしゃる美しいお姫さまが、村人に紙を漉く技を教えたのが紙つくりの始まりだと聞いています。今ではどこの家でも、紙を漉いて暮らしの足しにしているんですよ」
 日源は、自国で始まった伝統の技を筑後の地に伝授し、合わせて、消えかけているこの地の法華宗の教えを再び燃え上がらせたいのだと、熱弁をふるった。


北陸の連峰

「お婆さんの溝口村は、私の生国とそっくりなのです。矢部川のきれいな水がありますから、紙を作るのには最も適しています。それに・・・」
「それに、ほかにお坊さんの生まれたところと似ているところがまだあると言うんかい?」
「はい、見たところ、、村の皆さんは勤勉です。狭い畑で、まるで子供でもあやすように作物を育ててらっしゃる姿を見れば、すぐにわかります」
「へえ、そんなもんですかね」
 タツ婆さんの呼びかけで、村中から農民が集まってきた。心の支えの寺が復興できると聞いて、居ても立ってもいられない様子。それに、これまで考えてもいなかった農作物以外の収入が見込めるとなれば。

たちまち九州全域に

 こうして、矢部川ほとりでの和紙製造の歴史の第一歩が踏みだされた。文禄4(1595)年のことであった。
 溝口村の紙は弾きが強く、傘や提灯に最適との評判が藩主の耳に入った。それから先、九州全域に楮を原料とした紙漉きの技が伝わっていったという。
 日源は、後に紙漉き作業場を別の場所に移して、福王寺を本来の日蓮宗道場とし、名前を長寿山福王寺とした。
 その後の福王寺は、盛衰を繰り返しながら、現在もなお村人の心にしっかり根づいている。一方、日源によってもたらされた溝口村の紙は「筑後の手漉き和紙」として、今も変わらず多方面で尊重されている。(完)

 亡き版画家の棟方志功が「版木に相(あ)い、かつ墨が紙にしみいるようだ」と言って愛用したという筑後の手漉き和紙にも、こんな歴史があったのだ。
 境内を見学した後、かつての溝口村の路地をうろついた。相変わらず通りに人が見当たらない。「これが坊の津
(鹿児島県)に通じる旧道なのだろうか」と、確かめることもできない。
 川辺に出て、日源さんの心境やかくあらん、と水面に見入ってみる。でも、俗世界でしか生きたことのないものには、流れの清らかさの本当の価値を見出すことなんて、とうていできっこなかった。

 佐賀市(旧大和町)の山間にある「名和和紙工房」も見学した。明治以降筑後の和紙技法を導入されたとのこと。滲まず水分に強いことから、提灯などに重宝がられているとか。今では、博多の山笠やドンタクなどにはなくてはならない存在だと教えてくれた。
こちらのお方、本編の日源聖人のことや、遠く越前にそのルーツがあることまではご存じなかった。(2006年6月4日)

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